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2014年3月15日土曜日

差別と同情をめぐっての小断想

差別的言動に苛立つとき、――わたくしの場合だがーー、あんなことをするのは恥ずかしい、「常識」に反する、と思い立って苛立つこともあり、差別をうけた者に同情、あるいは「同一化」し、あんな目にあったらたまらないと感じ、苛立つこともある。

第一の「常識」に反するとは、ある「社会的規範」から見て明らかに恥ずべきだと感じる場合だ。

もう二十年前のことだが柄谷行人が岩井克人との対談で次のように語っている。

柄谷)アメリカには現に多数のレイスが共存しているのだから、レイシズムは確かにあるし、陰では悪口を言うかもしれないけれど、けっして公言できませんね。

日本では「けっして公言」できないはずのことが、安易に「公言」されてしまうのは、日本は村社会的な共同体であるから、というのがこの二人の論旨だ。

岩井)ぼくは日本人は百パーセント、レイシストだと思いますよ。日本のコマーシャルに典型的に出てくるあの白人崇拝というのが、逆方向のレイシズムでしょう。アジア蔑視、白人優越主義の裏返しですよね。もちろん、いろいろな肌の色の有名人も出ますけれど、それは有名人だからなだです。つまり下士官根性の現われなわけですよね。上に媚びて、下に威張るというね。明治以来、日本は常にそうだったと思うんですね。そして、それと同時に、白人もふくめた意味での外人排斥的なレイシズムもある。(柄谷行人 岩井克人対談集1990『終りなき世界』

いまでは日本だけでなく、外人排斥的なレイシズムは、西欧諸国にも自国民中心主義の国を中心に猖獗しているということを知らないわけではない。米国の事情が変わりつつあるのかどうかは判然としないが、《移民を受け入れ、国の中にあらゆる民族がいて、しかも商品も資本もかなり自由に行き来できるというアメリカ》としてはあり続けているだろう。


さて冒頭に書かれた二番目のほう、「差別をうけた者に同情する」というのに関しては、ルソーの『エミール』から《三つの格率》をまずは引こう(より詳しくは、「みにくさはたやすく美しくなるような顔立ちにおいていっそうよく目立つ」にその前後が引用されている)。

第一の格率】:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。

第二の格率】:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。

第三の格率】:他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。

これは同情や憐れみのメカニズムについて核心をついている主張と思われるが、ただし「第二の格率」に関しては、そうでないときもあると思う。自分が「まぬがれている」と考えている他人の不幸をも憐れむ」のはかなりの人がそうであろうと憶測する。これは第一の苛立ちのときに書かれた「規範」や「常識」に反している言動に襲われた被害者に同情することにかかわるように思う。

フロイトの『集団心理学と自我の分析』からひいてみる(旧訳からなので、「同一視」は「同一化」として読もう)。

同一視の場合は、対象は失われているか、放棄されてしまっている。そのとき対象は自我の中で再建され、自我は失われた対象の手本にしたがって、部分的に変化する。ほれこみの場合には、対象は保たれており、そのまま自我によって、自我を犠牲にして過大評価(過剰備給)される。しかしこれについても疑念がある。同一視が対象備給の放棄を前提とするのは、いったい確実なことなのだろうか、保持された対象にたいする同一視はありえないのだろうか、この微妙な問題の論議に入る前に、われわれには、すでに次のような洞察がほのぼのと開けてくる。つまり、他の二者択一、すなわち、対象は自我のかわりになるのか、それとも自我理想のかわりになるのか、という問題がこの事態の本質をふくんでいるという洞察である。(「フロイト著作集 6」P229)

ここに書かれている《対象は自我のかわりになる》というのがルソーの「第二格率」における「憐れみ」のよってきたるところであり、《「自我理想」のかわりになる》というのが「規範」によって憐れむということになるのではないか。自我理想はなにも人物でなくても「理念」でもよいのだ。


この機制はのちにラカン派により、「想像的同一化」と「象徴的同一化」として整理された。

・想像的同一化とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

・象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)

《自分たちにとって好ましいように見えるイメージ》というのはここでの文脈上はいささか齟齬があるとするならば、ジジェクはこうも書いている、《想像的同一化においては、われわれは類似のレベルで他者を模倣する》――これならルソーの第二格率、《人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ》をいささか「翻訳」すればほぼ合致するだろう。すなわち、ふとした弾みで自分も同じような目に遭遇するだろうという想像力によって、あるいはかつて己れが同じような境遇にあったことを想起することなどによって。


フロイトはナルシシズム型の対象選択のあり方を三つ挙げている(『ナルシシズム入門』)。これが「想像的同一化」にかかわるものだ。

・現在の自分(自分自身)
・過去の自分
・そうなりたい自分


さて「象徴的同一化」、すなわち「自我理想」にかかわる憐憫についてももうすこし捕捉しよう。

<自我理想>は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

※象徴的同一化の悪魔的側面は「無能な主人」という記事にいくらかのメモがある。


ここで敬愛する「知識人」のひとり加藤周一の例を挙げれば、氏はあきらかに「自我理想」の人間、――ここではフロイト文脈で自我理想≒超自我とするならーー、「超自我」の人間としてよい(ジジェク文脈では、超自我と自我理想は異なる。その整理の仕方のいくらかは、現代の「病的ナルシスト」たち、あるいは「母なる超自我」と「内的な自由」」にメモされている)。

加藤周一は、その自伝『羊の歌』にて、《なんのために、遠い国のみたこともない子供たちのことを、私は気にするのであろうか。――その「なんのために」に、私はみずからうまい返答を見出すことができない。》と自ら問うている。あるいはまた《彼らが気になるという事実がまずあって、私がその事実から出発する》と(「「なんのために」ーーー加藤周一『羊の歌』より」)。

遠い国で爆撃で死んだり餓死したりする、みたこともない子供たちを気にするのは、「象徴的同一化」にかかわるものばかりではないだろう。ひょんな切っ掛けでたちまち死すべき運命にある人間の悲哀に対する「想像力」、加藤周一の戦争体験などといったものから出てきている面があると推測するならば、「想像的同一化」にもかかわる。

象徴的同一化にかんしては、フランスユマニズムの思想、あるいは自我理想としての「渡辺一夫」があるはずだ、「天から降ってきたような渡辺助教授」(加藤周一『羊の歌』)

大江健三郎も20歳の時に渡辺一夫の集中講義を初めて駒場で聞き、 「人生の目的を達した」と思ったとしている。 (「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」)

差別に苛立ったり、被差別者を憐れんだりする場合、この加藤周一の例によって推測されるように象徴的同一化と想像的同一化が綯い交ぜになった場合もあるし、どちらかが主要になっている場合もあるだろう。

ーー今こんなことを書いているのは、浦和の『JAPANESE ONLY』について、わたくしが苛立ったのは、まずは「象徴的同一化」、ようするにあんなことをしたら世界に恥ずかしいという「規範」からの苛立ちだったことが大きいな、という感慨を持ったからだ。

ところでセルジオ越後氏がすばらしい文章を書いている。「一方的な世論が出来上がっている」ことについての諌めの個所も傾聴に値する。フロイトの次の文をもフォローする発言であると思う。

《特定の個人や制度にたいする憎悪(愛、嫉妬、羨望などでもよいだろう:引用者)は、それらにたいする積極的な依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こすであろう》(フロイト「集団心理学と自我の分析」)

8日に行われたJ1第2節の浦和対鳥栖戦で、『JAPANESE ONLY』という横断幕が掲げられた問題に対し、Jリーグが13日に処分を発表した。

 内容は、けん責と、23日の清水戦を無観客試合で開催すること。無観客試合はJリーグ史上初めてのことだ。浦和自身も、15日に行われる広島戦以降、リーグ戦、カップ戦、ホーム、アウェーを問わずすべての横断幕、旗類の掲出を禁止したという。

 人種差別行為が言語道断であるのは間違いない。僕は日系ブラジル人2世だから、余計によく分かっているつもりだ。差別のない国なんて世の中に存在しないし、動物である人間の本能として、自分の群れ以外に警戒心を示す、新しい血を拒むというのもあるだろう。悲しいがこれは事実だね。

『JAPANESE ONLY』という幕がどのような意図で掲出されたものかは分からないが、その掲出意図に関わらず、差別的であると受け手に判断されるものだったことから、今回の処分に至った。巷の声も、「重い罰を」というものが大半だったと思う。他のファンやサポーターの意見、海外も含めたメディアの反応もあって、村井チェアマンは強い態度と罰を示したのだろう。人種差別に対する意志としては妥当なところだ。

 ただ、一方的な世論が出来上がっている中で、一つ言っておきたいこともある。僕は浦和の内部事情も、ゴール裏の雰囲気も知らない。だからあの幕の意図も想像しえない。あくまで客観的な事実だけで見れば、どの国の誰に向けられたものかもはっきりせず、「日本人選手だけのチームになってほしい」という希望の表出と捉えることもできなくはない。サッカーのことを全く知らない裁判官が裁いたら、判定はどうなるかな。スペインのアスレティック・ビルバオはバスク人だけで構成されているチームだけど、彼らが「オレたちはバスク人だけ!」と主張したところで、何も差別ではないよね。つまり、「JAPANESE ONLY」という言葉自体に罪はないということだ。
  
 慌てふためいたJリーグは無観客試合の処分を下し、非難轟々の浦和はすべての装飾品の掲出を禁止した。これで何かの解決になるのだろうか。本当の問題はどこにあるのか。

 これから「JAPANESE」とか「日本人」という言葉を使う時は、みんなビクビクするだろう。問題が必要以上に大きくなり、社会主義国の言葉狩りのようになってしまうのではないか、そんな心配も生まれる。いずれにせよ、この一件は損以外の何ものでもないね。(【セルジオ越後コラム】浦和レッズへの処分に思う、これで何の解決になるのか

 …………


ここまでは差別する側の心理的機微については触れられていないが、最後に附記的に次の文を引用しておこう。むしろよりいっそう問われるのはこちらのほうだろう。

差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」)

「いじめの政治学」は、『アリアドネからの糸』に収められているが、初出は「講座『差別』弘文堂 1997」とのこと。

《差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある》とあるが、『闘争のエチカ』1988には柄谷行人の《いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている》とあって、その機微の由来が書かれている。

柄谷) ……欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。

文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。