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2014年3月1日土曜日

パンツという制度

彼女達は、陰部の露出がはずかしくて、パンツをはきだしたのではない。はきだしたその後に、より強い羞恥心をいだきだした。陰部を隠すパンツが、それまでにないはずかしさを学習させたのである。(井上章一)

ははあ、パンツという制度が恥という内面を作り出したのだということになるのだな

告白という形式、あるいは告白という制度が、告白されるべき内面、あるいは「真の自己」なるものを産出するのだ。問題はいかにして告白するかではなく、この告白という制度そのものにある。隠すべきことがあって告白するのではない。告白するという義務が、隠すべきことを、あるいは「内面」を作り出すのである。(柄谷行人『日本近代文学の起源』

この論理を使えば多くの「洒落たこと」が言えるだろう
洒落心の欠けたわたくしもそのおこぼれにあずかろう

《内面の貧困化があって浅いコミュニケーションが蔓延したのではない。インターネットという「制度」によって発酵なしの思いつきばかりを書き散らすようになったために、内面の貧困化が生みだされたのだ》

…………

ところで、上野千鶴子は『スカートの下の劇場』でなんといっていたのだったか。あまり覚えがない。ネット上にはころあいの引用が見つからない。

かわりにコプチェクの「恥じらい」の講演(2006/10/8 Joan Copjec 講演会要旨)から抜き出しておこう。

……恥じらいとは、「喪失」ではなく、ラカンのジュイサンスとも響きあう「過剰」または「余剰」の感覚である。また、ここでの不安と恥じらいの差異は、前者が逃避を望むのに対して、後者が見たくないもの、隠してしまいたいという感覚である。

(……)コプチェクによれば、恥じらわねばならない場面に直面させぬよう、覆い隠し、保護することは一見よいことに思えるが、不安にさせる「余剰」全てを露呈し、不安を取り除こうとする現代において、隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為に弁解を与え続けることになりかねないと警告する。

むしろコプチェクは、自分と自分自身との間のズレを感得し、自己の感情に目覚め、自身のアイデンティティの欠如が社会的に目に見える形になっていることに気づくこと、つまり恥じらいの経験こそ主体形成にとって重要であると考える。論証として、『風が吹くまま』の問題の場面(べザードが、地元の娘ゼイナブのいる暗い屋内に入り込み、牛の乳を搾らせる)を取り上げた。コプチェクによれば、イスラム女性の屋内の様子を見ようとするべザードの行為は、アブグレイブ収容所でのイラク兵の様子を暴く写真と同じく露悪的であるが、ここで注目すべきは、べザードの行為ではなく、乳搾りをする娘が恥じらいの感覚に目覚めることだという。ここでの目覚めとは、べザードという明確な対象によって引き起こされるものではない。むしろ、認知不可能な<他者>の眼差しを感じたために生じるような感覚である。コプチェクは、娘がべザードの口ずさむエロティックな詩によって乳搾りの行為を干渉され、乳搾りの行為と自分自身との間にあるズレに気づくこの場面こそ、恥じらいという感覚が自己にわきおこる瞬間、つまり、自身のアイデンティティの欠如が社会的に目に見える形になっていることを認識する瞬間を表していると分析した。

…………

※附記

鍵穴を覗き込む窃視者は、自分自身の見る行為に没頭しているが、やがて突然背後の小枝のそよぎに、あるいは足音とそれに続く静寂に驚かされる。ここで窃視者の視線は、彼を対象として、傷つきうる身体として奈落に突き落とす眼差しによって中断される。(コプチェク『女なんていないと想像してごらん』)
……恥とは、面目〔顔〕を失う(losing face)という経験とは何か? サルトルによる標準的な説明によれば、「対自存在for-itself」としての主体は、その「即自存在in-itself」、つまり自分の身体的アイデンティティを構成するばかげた<現実的なもの>を恥じるのだ。私は本当にソレなのか、悪臭を放つこの身体、この爪、この糞便なのか? ようするに、恥は、精神〔霊SPRIT〕が不活性で卑俗な身体的現実に直接結びついているという事実を指し示しているーー例えば、公衆の面前で排便するということが恥ずかしいのは、そういう事実があるからなのだ。

だが、これに対してラカンは、恥は定義上幻想〔ファンタジー〕にかかわっていると主張する。アガンペンは、恥はたんなる受動性ではなく、積極的〔能動的〕に受け入れられた受動性であることを強調している。私がレイプされた場合、私に恥じるところは何もない。だが、レイプされることに喜びを感じている〔享楽している〕としたら、私は恥じ入ることになる、というわけだ。

したがって、ラカンの用語で言えば、積極的に受動性を受け入れるということは、受動的状況において享楽(jouissance)を見いだすということを意味する。そして、享楽の座標軸は、究極的には根源的幻想の座標軸、受動的立場に置かれる(そこに享楽を見いだす)という幻想の座標軸なのだから、主体が恥にさらされるのは、主体が受動的状況に置かれ、たんなる身体としてしか扱われていないということが明らかにされるときではない。社会的現実におけるそうした受動的立場が(否認された、内密な)幻想と関係するときのみ、恥が生じるのだ。(ジジェク『メランコリーと行為』)

主体とは本質的な動揺の中で幻想に吊り下げられているようなものですが、視る関係においては、その幻想が依存している対象は眼差しです。眼差しの特権は、そしてまた主体があれほど長い間自らをこの依存の中にあるものとして認めずにいることができた理由も、眼差しの構造そのものに由来しているのです。

(…)主体がこの眼差しに焦点を合わせようとするやいなや、この眼差しは点状の対象、消えゆく存在の点となり、この点を主体は自身の瓦解と取り違えます。また、欲望の領野で主体が自らの依存を認識できるすべての対象の中でも、眼差しという対象は捕えどころのないものという特徴を持っています。このため、眼差しは他のすべての対象にもまして無視され、またおそらくそのために主体は、自身の消えゆく点状の特徴を、「自分を見ている自分を見る」という意識の錯覚という形であれほど幸運にも象徴化する方法を見出すのです。この錯覚においては眼差しは消えてしまいます。
 そういうわけで、もし眼差しが意識の裏面であるとしたら、眼差しを思い描くにはどうしたらよいでしょう。

 眼差しは意識の裏面である、という表現はまったく不適切というわけではありません。というのは、眼差しには実体を与えることができるからです。サルトルは『存在と無』の中のもっとも見事な個所で、他人の実在という次元で、眼差しを機能させています。もし眼差しがなかったとしたら、他人というものは、サルトルの定義にしたがえば、客観的実在性という部分的にしか実現されえない条件にまさに依存することになってしまいます。サルトルの言う眼差しとは、私に不意打ちをくらわす眼差しです。つまり、私の世界のあらゆるパースペクティヴや力線を変えてしまい、私の世界を、私がそこにいる無の点を中心とした、他の諸々の生命体からの一種の放射状の網へと秩序づけるという意味で、私に不意打ちをくらわす眼差しです。無化する主体としての私と私を取り巻くものとの関係の場において、眼差しは、私をして――見ている私をして――私を対象として視ている人の目を暗点化させるにまで至る、という特権を持つことになります。私が眼差しのもとにあるかぎり、私はもはや私を視ている人の目を見ることはできないし、逆にもし私が目を見れば、そのときは眼差しは消えてしまう、とサルトルは書いています。

 これは正しい現象学的分析でしょうか。そうではありません。私が眼差しのもとにあるとき、私が誰かの眼差しを求めるとき、私がそれを獲得するとき、私は決してそれを眼差しとしては見ていない、というのは真実ではありません。(…)

 眼差しは見られるのです。つまり、サルトルが記述した、私を不意打ちするあの眼差し、私を恥そのものにしてしまう――というのはサルトルが強調したのはこの恥という感情ですから――あの眼差し、それは見られるのです。私が出会う眼差しは、これがサルトルのテクストの中に読み取ることができるものですが、見られる眼差しのことではまったくなくて、私が〈他者〉の領野で想像した眼差しにすぎません。

 彼のテクストに当たってごらんになればお解りになると思いますが、彼は視覚器官に関わるものとしての眼差しの出現のことを語っているのでは決してなくて、狩りの場合の突然の木の葉の音とか、廊下に不意に聞こえる足音とか――これはどういうときかというと、鍵穴からの覗きという行為において彼自身が露呈するときです――のことを言っているのです。覗いているときに眼差しが彼に不意打ちをくらわせ、彼を動揺させ、動転させ、彼を恥の感情にしてしまうのです。ここで言われている眼差しは、まさに他人そのものの現前です。しかし、眼差しにおいて何が重要かということを我われが把握するのは、そもそも主体と主体との関係において、すなわち私を視ている他人の実在という機能においてなのでしょうか。むしろ、そこで不意打ちをくらわされたと感じるのは、無化する主体、すなわち客観性の世界の相関者ではなくて、欲望の機能の中に根をはっている主体であるからこそ、ここに眼差しが介入してくるのではないでしょうか。

 欲望がここでは覗視の領野において成り立っているからこそ、我われは欲望をごまかして隠すことができるのではないでしょうか。(ラカン『精神分析の四基本概念』)