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2014年3月27日木曜日

主よ深きふちの底より

主よ深きふちの底より」--マルティン・ルターが1523年に作詞作曲し、ルターの協力者ヨハン・ワルターが1524年に編曲したコラール。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの教会カンタータBWV38「深き悩みの淵より、われ汝に呼ばわる」に取り入れられている。オルガンBWV686、BWV687。

ーーということは知らなかった。


クルターグ・ジェルジュ(Kurtág György)編曲(ジェルジュ夫妻演奏)





◆Aus tiefer Not schrei ich zu dir BWV 687 (G. Leonhard)




◆BWV 38 "Aus tiefer Not schrei ich zu Dir" (Nikolaus Harnoncourt)



ーー最初の合唱は、カール・リヒターの指揮のものは(今のわたくしには)ちょっといけない(CDはこれしかなく、長い間これしか聴いていなかったのだが。もっともいまだ第五曲の魅惑はリヒターにある)。

ヘレヴェッヘ指揮の合唱も捨てがたい。というか何度も聴けば、アーノンクールの清澄な合唱よりもこの沈潜した歌声に魅されるようになるのは、実は今から分かっている。アーノンクールのボーイソプラノ好みは、初回の印象の快さあるにしろ、飽きが早く来てしまうのだ。



◆Mendelssohn & Brahms Sacred Motets - Aus Tiefer Noth Schrei'ich Zu Dir Op. 23 #1




…………


クルターグ・ジェルジュの編曲が、いまのわたくしには限りなく美しく聴こえる、そして夫妻の演奏が。「深きふちの底より」より湧き上がる老夫妻の輝く歌声。





ーー途中でクルターグが笑みを浮かべつつも奥さんになにか囁こうとする、なにを言ったのだろう…急がないで、もう少しゆっくり! などとは彼はけっしていわないだろう…「メモ:クルターグ・ジェルジュ(Kurtág György)」に貼り付けた別のリサイタル(0.21.55と1.22.30と二回演奏される)ではもうすこしテンポが遅いように感じないでもない(とくにフレーズの入り方)。だが、こういったオシドリ夫婦にいったん愛着をもってしまえば、どんな演奏をされても好感を抱いてしまうところが、わたくしにはある。


もっとも、このBWV106は、ついこの間まで、エミール・ナウモフEmile Naoumoffの編曲演奏ばかり聴いていたせいで、彼の演奏のテンポ感に引き摺られているのかもしれない。






…………


少年期のロマンティシズムによる「深いふちの底より」のヴァリエーション。

ぼくは見ることを学んでいる。どういうものか、見るものすべてがいっそう深くぼくの内部へはいり込んで来て、いつもおしまいになるところへ来てもいっこうに止まろうとしない。ぼくの内部には、自分でもわからない深い淵があるらしい。今はすべてがそこへ向けて落ちて行く。そこで何が起こっているのか、ぼくは知らない。(リルケ『マルテの手記』)





低く降りてゆけ、ひたすら降りて
永遠なる孤独な世界
世界ではない世界、まさしく世界でないものに向かってゆけ
内部の闇、……(T.S.エリオット『四つの四重奏』千葉文夫訳)

それは認知しがたいほどかすかな裂目である。空間と時間との裂目である。このかすかに見える割れ目をこえて一方から他方に行くのに一人の人間の全生涯を必要とするのである。あるいはそれ以上のものが必要なのだとさえ言いたい。あるいは一人の人間の生涯とはそういうものなのだと定義できるのかも知れない。この裂目を歩み出すと、それが限りなく幅の広い、深い淵なのだということに気がつくだろう。(森有正『定義集』




奇態な両義性ということについていえば、メキシコの広大な空のもと微光が瀰漫しているところへ、しだいに赤っぽい粉のような気配がただよいはじめて、そしてついに日が昏れるまでの、長い長い時間、僕は決して当の時間の進行のゆったりさ加減に苛立つことはなかった。時間の汐溜りのなかに、プランクトンさながら漂っている気分だったわけだ。ヒカリが障害を持って生まれて以来、自分とかれの情動のどこかが癒着しているようにしてずっと生きて来たのに、ヒカリのこともその弟妹のことも、かれらの母親のこともまた、まったく考えず一日を終えたことに気がついたりしていた。むしろ僕は、四国の森のなかの谷間ですごした子供の時分に、長い時のゆっくりした進行をいささかも苦にせず、底の深い淵にでもひたっているような気持だった時期の、その再現を経験している思いでもあったのである。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)






鳩歩む この静かな屋根は
松と墓の間(ま)に脈打って
真昼の海は正に焔。
海、常にあらたまる海!
一筋の思ひの後のこの報ひ、
神々の静けさへの長い眺め

細かな燦めきの清らかな働きが
見えぬ飛沫(しぶき)のダイヤを費ひ(つかい)尽くし、
何たる平和のはらまるるかに見ゆることよ!
一つの陽の影が深い淵の上に休らふ時
「永遠の動因」の純粋な所産――
「時」は輝き、「夢」はただちに「知」! (ヴァレリー「海辺の墓地」中井久夫訳)







ーーもちろんDinu Lipattiの名演や、あるいはNikolayevaの深い淵の底で吃るような演奏があるのを知らないわけではない。だがたまに異なった演奏で聴いてみようではないか。Vladimir HorowitzEdwin Fischerのものだってある。

Peter Profant? 初耳だな、この名前。えっ? 高音が甘美になりすぎるだって? でも少年のころだったら惚れただろう…Jacqueline du PréのBWV564を想い出すな…