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2014年3月2日日曜日

3月2日

日本に暮らしているわけではなく、この数年は一時帰国するのもやめてしまったので、日本の情報にはひどく疎いことは自覚しており、インターネットで情報を探るようになったのもいわゆる発展途上国の僻地といっていい場所に住んでいるので、少し前まではネット環境が十分に整備されておらず、比較的スムーズに活用できるようになったのは二〇〇九年前後以降のことにすぎない。インターネット上にはじめて書き込みのたぐいをしたのは、その頃流行りだしたツイッターが初めてである。日本のTVや新聞、雑誌のたぐいに触れる機会があるわけではなく、また新刊書を手にとるわけでもない。もちろん全く新しい書籍が手元にないというわけではないが、日本に一年に一度一週間から一〇日ほど帰国したおり買い求めた二一世紀以降の新刊書といえば十冊前後でしかない。日本から送付すればいいのではないかと言うひとがいるだろうが、一度検閲を受けて没収された苦い経験があり、それ以降は手元にある書籍のみを反芻することに専念しており、すなわち「時代おくれ」の読み手である。

二一世紀以降買い求めた新刊書は十冊前後としたが、それも新しい書き手のものではなく七〇年代あるいは八〇年代に活躍した作家たちのものであり、いまその書籍名を列挙してみれば、柄谷行人の『トランスクリティーク』、『NAM生成』、蓮實重彦の『表象の奈落』、『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』、中井久夫の『徴候・記憶・外傷』、『日時計の影』、『時のしずく』、ジジェクの『ラカンはこう読め』でしかない。これでは九冊にしかならないが、二一世紀初頭に出版された雑誌『批評空間』をあわせてやっと十冊ほどになる。もちろん文庫本はそれなりに買い求めているが、それはほとんど二十世紀の出版物の文庫である。とはいえ日本から訪れる旅行者が置いていってくれた新しい小説やエッセイのたぐいがないではない。ああしかしながら大江健三郎の『取り替え子」は、二〇〇〇年出版であるから、これもかろうじて含めることができる。ほかにも抜かしている書物があるかもしれない。

そんな時代錯誤の人間が日記のようにして記している書き物なのであるから、真に受けてもらっては困る。ただ思いの外ひとは過去の書物を覚えていない、あるいは知らないのだな、との齟齬感を抱くことが多く、そんなことはとっくに言われてしまっているよと暗に仄めかすために、もっぱら引用を中心に書き綴っており、あるいはときにフローベールの『プヴァールとペキッシュ』の二人の筆耕の「深淵な滑稽さ」の役割を一部のひとに果たしているということはあり得る。

というわけでしばしばコメントをくれる貴君たちよ、この時代錯誤の「おっさん」にかかずらあっておらずに、貴君たちの道を行けばよい。――ところで貴君たちの二十歳前後読んだ書籍をいまでも反芻することがあるかね。また貴君たちがいま誇示する新しい書籍を十年後、二十年後も熱心に読み返す書き物であることを祈る。