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2014年1月11日土曜日

「欲動と享楽の反倫理学」覚書

ポール・ヴェルハーゲ(Paul Verhaeghe)とジジェクをめぐる備忘」より引き続く。
最後に会った時、ミシェル(フーコー)は優しさと愛情を込めて、僕におおよそ次のようなことを言った。自分は欲望désir という言葉に耐えられない、と。 〔…〕僕が「快楽 plaisir」と呼んでいるのは、君たちが「欲望」と呼んでいるものであるのかもしれないが、いずれにせよ、僕には欲望以外の言葉が必要だ、と。

言うまでもなく、これも言葉の問題ではない。というのは、僕の方は「快楽」という言葉に耐えられないからだ。では、それはなぜか? 僕にとって欲望には何も欠けるところがない。更に欲望は自然と与えられるものでもない。欲望は機能している異質なもののアレンジメントと一体となるだけだ。 〔…〕快楽は欲望の内在的過程を中断させるように見え、僕は快楽に少しも肯定的な価値を与えられない。 〔…〕マゾッホの中で僕の興味を引くのは苦痛ではない。 快楽が欲望の肯定性、 そして欲望の内在野の構成を中断しにくるという考えだ。

〔…〕快楽とは、人の中に収まりきらない過程の中で、人や主体が「元を取る」ための唯一の手段のように思える。それは一つの再領土化だ。(ジル・ドゥルーズ「欲望と快楽Désir et plaisir」 、 『狂人の二つの体制 』)

ふたりの偉大な思想家が「欲望」と「快楽」をめぐって語っている
そしてここにいるどこかの「馬の骨」はこういってみよう
欲望? ウンザリだね
快楽のほうがましさ
フーコーの快楽とは享楽(悦楽)も含まれているはずだからな
晩年フィスト・ファックに耽ったフーコーだから

フーコーの死後、その自室から性具・猿ぐつわ等のSM性癖関係の拘束具が数多く出てきたことが伝えられている(出典:ギベール著『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』訳者あとがき)。

《苦痛はまた一つの悦楽LUSTなのだ。呪いはまた一つの祝福なのだ。夜はまた一つの太陽なのだ、――おまえたち、学ぶ気があるなら、このことを学び知れ、賢者も一人の阿呆であることを。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』ーー悦楽(享楽)と永劫回帰

ソクラテスのいう快楽だって実は享楽さ

ソクラテス) 諸君、ひとびとがふつう快楽と呼んでいるものは、なんとも奇妙なものらしい。それは、まさに反対物と思われているもの、つまり、苦痛と、じつに不思議な具合につながっているのではないか。

この両者は、たしかに同時にはひとりの人間には現れようとはしないけれども、しかし、もしひとがその一方を追っていってそれを把えるとなると、いつもきまってといっていいほどに、もう一方のものをもまた把えざるをえないとはーー。(プラトン『パイドン』60B 松永雄二訳)

こっちのほうは欲望ではなくて欲動だな

いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌惡の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!』」
(……)「この話は間違いなく」とぼくは言った、「怒りは時によって欲望と戦うとことがあり、この戦い合うものどうしは互いに別のものであることを示している」(プラトン『国家』439c-440Aーープラトンとフロイトの野生の馬

《古代世界と現代世界の愛情生活における深刻な相違は、古代人が欲動そのものに重点をおくのに対して、現代人はその対象においているという点にある。古代人は欲動を讃美し、これによって下等な対象をも喜んで高尚なものとするのに対し、われわれは欲動の活動自体をさけずみ、ただ対象の優越性によってこれを許そうとするのである。》(フロイト『性欲論三篇』人文書院 p20)

ツァラトゥストラが次に語っているのは「欲動」のことであるぐらいは分るだろうな

君はおのれを「我」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる理性なのだ。それは「我」を唱えはしない。「我」を行なうのである。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「肉体の軽侮者」より 手塚富雄訳)

※参考:資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)

ジジェクの解釈ではドゥルーズの欲望機械は「欲動Trieb」のことらしいから
ドゥルーズも欲望ではなく欲動だったら許すがね
 ゲーテはなんといっていたか
「楽しい日々の連続ほどたえがたいものはない」だってさ

……人間にとって人生の目的と意図は何であろうか、人間が人生から要求しているもの、人生において手に入れようとしているものは何かということを考えてみよう。すると、答はほとんど明白と言っていい。すなわち、人間の努力目標は幸福であり、人間は幸福になりたい、そして幸福の状態をそのまま持続させたいと願っている。しかもこの努力には二つの面、すなわち積極的な目標と消極的な目標の二つがあり、一方では苦痛と不快が無いことを望むとともに、他面では強烈な快感を体験したいと望んでいる。狭い意味での「幸福」とはこの二つのうちの後者だけを意味する。人生の目標がこのように二つに分かれていることに対応して、人間の行動も、これら二つのうちのどちらかをーー主として、ないし、場合によってはもっぱらーー実現しようと努めるかによって、二つの方向に発展してゆく。(……)

快感原則が切望している状態も、それが継続するとなると、きまって、気の抜けた快感しか与ええないのである。人間の心理構造そのものが、状態というものからはたいして快感を与えられず、対照〔コントラスト〕によってしか強烈な快感を味わえないように作られているのだ(註)。

註)ゲーテにいたっては、「楽しい日々の連続ほどたえがたいものはない」とさえ警告している。もっとお、これは誇張と言っていいかもしれない。(フロイト『文化への不満』人文書院 フロイト著作集3 P441)

ふぬけた満足はごめんだね
欲望なんてイカサマだよ

《欲望そのものはすでにある種の屈服、ある種の妥協形成物、換喩的置換、退却、手に負えない欲動に対する防衛なのではあるまいか。》(ジジェク『斜めから見る』)

《desire should be seen as a defence against the drive and jouissance. 》(THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE Paul Verhaeghe)

Trieb, drive, impulse: something drives the subject to a point where he himself does not want to go, where he loses all control.
The drive has an aim that a person is barely aware of, and what can be known about it is often enough for him or her not to want to know any more. I don't want to know any-thing about it'. But he has to know.
……the very first appearance of this jouissance is nothing more than anxiety, the harbinger of one's own disappearance. I disappear, and being takes over. No wonder that jouissance is what the ego does not want. The price is ceasing to exist as an ego. The fact that this anxiety is transformed into ecstasy does not reduce the price to be paid. In this light, desire should be seen as a defence against the drive and jouissance. A defence against something that gives one pleasure, though the status of the word 'one' is not quite clear in this context, and the concept of 'pleasure' is also strange.(Paul Verhaeghe)

《The drive is the source of a pleasure that is not desired by the subject. Therefore desire and drive are opposites like 'Beauty and the Beast'—or rather, like the familiar 'me' in contrast to the 'not-me'.》

しかし、精神分析に由来するのだが、快楽のテクストと悦楽のテクストとを対立させる間接的な手段もある。すなわち、快楽は言葉でいい表わせるが、悦楽はいい表わせない〔le plaisir est dicible, la jouissance ne l'est pas〕、というのである。

悦楽は いい表わせない[内部でいい表わされる]、禁じられている[間で語られるin-dicible]。私はラカン(《忘れてはならないのは、悦楽はありのままに語る者には禁じられている、あるいは、行間でしか語られないということである……》)とルクレール(《……みずからの言葉で語る者には悦楽は禁じられている。あるいは、相関的に、悦楽を享受する者は、あらゆる文字を――存在し得るあらゆる言葉を――彼の讃える無条件の無化作用の中で消滅せしめる》)を念頭に置いているのであ る。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

※ここでの「悦楽jouissance」は、『彼自身によるロラン・バルト』の訳語では、ラカン訳語と同様、享楽だ。

The basic paradox of jouissance is that it is both impossible and unavoidable: it is never fully achieved, always missed, but, simultaneously, we never can get rid of it—every renunciation of enjoyment generates an enjoyment in renunciation, every obstacle to desire generates a desire for an obstacle, and so on. This reversal provides the minimal definition of surplus‐enjoyment: it involves a paradoxical “pleasure in pain.” That is to say, when Lacan uses the term plus‐de‐jouir, one has to ask another naïve but crucial question: in what does this surplus consist? Is it merely a qualitative increase of ordinary pleasure? The ambiguity of the French expression is decisive here: it can mean “surplus of enjoyment” as well as “no enjoyment”—the surplus of enjoyment over mere pleasure is generated by the presence of the very opposite of pleasure, namely pain; it is the part of jouissance which resists being contained by homeostasis, by the pleasure‐principle; it is the excess of pleasure produced by “repression” itself, which is why we lose it if we abolish repression.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")


詩も音楽も、そして匂いも快楽ではなく悦楽だ
享楽よりも悦楽のが字面がいい
ここは「悦楽」じゃなくてはいけない
とかげの舌
女の舌
女のまたのはこび
四十女の匂い
 おばあさんのせき……


・露にしめる /黒い石のひややかに /夏の夜明け

・もう秋は四十女のように匂い始めた

・野原をさまよう時 /岩におぎようやよめなをつむ/ 女のせきがきこえる

・黒い畑の中に白い光りのこぶしの木が /一本立つている

・まだこの坂をのぼらなければならない/とつぜん夏が背中をすきとおした/石垣の間からとかげが /赤い舌をペロペロと出している

・柿の木の杖をつき /坂を上つて行く /女の旅人突然後を向き /なめらかな舌を出した正午

・けやきの木の小路を/ よこぎる女のひとの /またのはこびの/ 青白い/終わりを

・ちようど二時三分に /おばあさんはせきをした /ゴッホ(西脇順三郎)



ーーああすべて悦楽だ

・四人の僧侶/畑で種子を播く/中の一人が誤って/子供の臀に蕪を供える/驚愕した陶器の顔の母親の口が/赭い泥の太陽を沈めた(吉岡実「僧侶」)

・水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く(「感傷」)

・割れた少年の尻が夕暮れの岬で/突き出されるとき/われわれは 一茎のサフランの花の香液のしたたりを認める/波が来る 白い三角波(「サフラン摘み」)

わかるかい?
ニブイ<きみたち>のために
いささか解説的な谷川俊太郎をも抜き出しておこう

散文をバラにたとえるなら
詩はバラの香り
散文をゴミ捨場にたとえるなら
詩は悪臭

ーー谷川俊太郎「北軽井沢語録」より(八月三日)
言葉で捕まえようとすると
するりと逃げてしまうものがある
その逃げてしまうものこそ最高の獲物と信じて(同 九月四日)
詩はなんというか夜の稲光りにでもたとえるしかなくて
そのほんの一瞬ぼくは見て聞いて嗅ぐ
意識のほころびを通してその向こうにひろがる世界を

ーー「理想的な詩の初歩的な説明」より

音楽が悦楽だというのはいいだろうな?
もっともだらだらとした「欲望」の音楽だってあるさ
悦楽の音楽とはこういうことだ

グールドの場合には、なによりもヘルダーリンが望んだ表現の透明さ die Klarheit der Darstellungがある。このような透明な光は熱狂的な憑依体験の対極にあるわけではない。このような光は、静謐なものでもなければ抑制されたものでもない。それは奪い取ることであり、切開を意味するのだ。それでいてこの光は冷たく遠くにある。神的なるものの訪れは火、炎、煙の上がる光景を意味しない。グールドを訪れた神はヘルダーリンを訪れた神と同一である。ディオニュソスではない。熱狂的な暗闇の神ではない。アポロンであり、正しきもの、透明なるものなのだ。(ミシェル・シュネデール)

あの苦痛をともなう喜び
あのわれわれを分割する瞬間的な光
リルケが語ったあの「恐るべきもののはじまり」

彼の演奏について語ろうとしても、いくつかの言葉しか思い浮かばない。遠さ、戦慄、なにか異様なもの。彼はわれわれを試練に遭わせるーーあまりにも透明なあの音、昇華作用を経たあのピアノが耐えられないという人々をわたしは知っている。このピアノを聴くと彼らの皮膚はひきつり、指は痙攣するのだ。試練はときに恐ろしいものを含んでいる。わたしもまた、そのせいで、彼があとに残したあの無の彫刻からできるだけ離れていたいと思うことがある。ーー「暗闇をさまよう者は、歌をうたってその不安をうちけそうとする」より)

匂いが特権的なのは
「一瞬よりいくらか長く続く間」(大江健三郎
しか続かないせいだ
悦楽とはそういうものだ

プルーストにおいては、五感のうち三つの感覚によって思い出が導き出される。しかし、その木目〔きめ〕という点で実は音響的であるよりもむしろ《香りをもつ》ものというべき声を別とすれば、私の場合、思い出や欲望や死や不可能な回帰は、プルーストとはおもむきが異なっている。私の身体は、マドレーヌ菓子や舗石やバルベックのナプキンの話にうまく乗せられることはないのだ。二度と戻ってくるはずのないもののうちで、私に戻ってくるもの、それは匂いである。(『彼自身によるロラン・バルト』)

《小雨が降り出して埃の香いがする》(西脇順三郎『第三の神話』)

まさに、ごくわずかなこと。ごくかすかなこと、ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ。一つの息、一つの疾駆、一つのまばたきーーまさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。静かに。

――わたしに何事が起ったのだろう。聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。わたしは落ちてゆくのではなかろうか。落ちたのではなかろうか、――耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。(『ツァラトゥストラ』第四部「正午」手塚富雄訳)

さてここでも説明的な文章を附記しておこう

《詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、
散文とはその図式的側面を主にした使用である。》
(中井久夫『現代ギリシャ詩選』序文)

T・S・エリオットは、十七世紀の詩人ジョン・ダンについての評論の中でこの詩人は「観念をバラの花の匂いのごとくに感じる」と述べている。この一句には最近あらためて考えさせられるものがあった。観念には匂いと非常に似ているところがある。まず、それはいっときには一つしか意識の座を占めない。二つの匂いが同じ強度で共在することはありえないが、観念もまた、二つが同じ強度で共存することはーーある程度以下の弱く漠然としたものを除いてはーーきわめて例外的で、病的な状態においてかろうじてありうるか否かというくらいのものである。

第二に、匂いは、たしか二十秒くらいしかとどまらない。匂い物質は送られてきても、それに対する嗅覚は急速に作働しなくなってしまう。これは、嗅覚が新しい入力に対応するためで、こうなくてはならないことである。

観念はどうであろう。観念を虚空に把握しつづけることは、それこそ二十秒以上はむつかしいのではなかろうか。とすれば、持続的といわれる幻覚、妄想、固定観念も、たえざる入力によってくり返しくり返し再出現させて維持されていることを示唆する。ただ、この入力は、決して“ 自由意志 ”によるものではない。

最後に、両者とも、起そうとして起せるものではない。観念も、意識的というか人工的に催起させられるものではない。両者とも、基本的には意識を「襲う」ものである。少なくとも重要な気づきは、はげしい香りと同じく、ひとを打つのである、科学的、思想的発見であっても、パースナルな気づきであっても。(中井久夫「世界における索引と徴候」『徴候・記憶・外傷』所収 P20)


表題の意味はわかるだろうな
どこかのニブイ「哲学者」への皮肉さ
などとはわたくしはケッシテいわない
フィストファックがきらいな公衆むけには
あの程度がいい
猿の乾いた笑いを気味悪がる手合いには

語りながら、フーコーは何度か聡明なる猿のような乾いた笑いを笑った。聡明なる猿、という言葉を、あの『偉大なる文法学者の猿』(オクタビオ・パス)の猿に似たものと理解していただきたい。しかし、人間が太刀打ちできない聡明なる猿という印象を、はたして讃辞として使いうるかどうか。かなり慎重にならざるをえないところをあえて使ってしまうのは、やはりそれが感嘆の念以外の何ものでもないからだ。反応の素早さ、不意の沈黙、それも数秒と続いたわけでもないのに息がつまるような沈黙。聡明なる戦略的兵士でありまた考古学者でもある猿は、たえず人間を挑発し、その挑発に照れてみせる。カセットに定着した私自身の妙に湿った声が、何か人間たることの限界をみせつけるようで、つらい。(蓮實重彦「聡明なる猿の挑発」フーコーへのインタヴュー 「海」 初出1977.12号)

《フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。とるにたりない状況でも、すでにそうだった。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ大気の状態の変化とか、一種の<事件>、あるいは電界か磁場など、さまざまなものに見えたものです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の序列に属するものではなかったのです》(ドゥルーズ


70年代のフランスにいけるのだったら
フーコーを見てみたいな
ラカンやバルトに未練がないわけではない
ドゥルーズ?
ただの「やくざの親分」(蓮實重彦)だろ
デリダは?
「小さな衒学者」(フーコー)だよ


日本人のなかで見てみたい人物っているかい?
そうだな
作品の好みとは離れて
(谷崎や荷風ファンなのだが、まあ想像がつく)
大気の状態が変化しそうな人物は志賀直哉かな
「末期の眼」の川端康成も