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2013年7月18日木曜日

「自民党」の表象の奈落


ーーthe signifier falls into the signified.(LACAN=ZIZEK)

◆社会主義のイメージ(かつてのポーランドでのジョーク)。

社会主義は、かつての歴史上の画期的出来事の最高の達成の統合である。
氏族社会から野蛮さ、古代社会から奴隷制、封建制から独裁的支配形態、資本主義から搾取、社会主義からその名前。

◆ユダヤ人のイメージ(ナチスの独裁制でのレッテル)。

金持の銀行家から金融投機、資本家から搾取、法律家から合法的詐欺、堕落したジャーナリストから情報操作、貧乏人から清潔への無関心、性的自由から乱交、そしてユダヤ人からその名前。


◆現在の自民党のイメージ(2013年初夏の表象、あるいはその奈落)。

二〇世紀の数々の政治体制のまれにみる統合。

自由主義から飢える自由(格差是認)、高価な過ちを犯す自由(たとえば経済のために原発再稼動)、戦争の自由(徴兵制復活やら核軍備など)。共産主義から国民の羊化と情報統制、強制収容所。民主主義から名もない一般大衆の付和雷同的「衆愚」とレイシズム(異質なものの排除)。ファシズムから独裁と大衆の喝采(ヒステリー的な態度によって主人を選出。誤りを犯すことがわかっているような無能な主人が選ばれる)。資本主義からバブルと剥き出しな資本の利害。ケインズ主義から自己循環論法(美人投票論、合理性のパラドックス)。自民党からかつてのその名前。


――でも、やっぱり「自民党」しかないわ、みんなみんな自分の食べることで精一杯なんだから。明日のご飯を安心させてくるそうなの自民党しかないんじゃないの? いつおこるかわからない未来の予測なんてどうでもいいわ。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つわよ、だってみんな精一杯生きてるんだから。(参照:「なんのために」ーーー加藤周一『羊の歌』より

《浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。》(小林秀雄「林房雄」)

大惨事は運命として未来に組みこまれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていて も、起こるはずはなかった、ということだ。……たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること――それが起こったという事実こそが、遡及的に その必然性を生みだしているのだ(Jean=Pierre Dupuy, Petit métaphysique des tsunami, Paris, Seuil 2005, p. 19.)。』


《われわれは自由であっても、しかし不幸であることがありうることを認めなければならない。自由とは、よいことばかりを、あるいは災いの少しもないことを意味するものではない。自由であることは、ある場合には、飢える自由、高価な過ちを犯す自由、または命がけの危険を冒す自由を確かに意味するかもしれない。》(ハイエク『自由の条件』)

《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》。《人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置よりも喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明なものによる方が、いっそうよく民主主義的に表現されうるのである。》(カール・シュミット『現代議会主義の精神史的位置』)。

《大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。

これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。紋切型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼らは論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。》(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)

自由・民主主義を、資本主義から切り離して思想的原理として扱うことはできない。いうまでもないが、「自由」と「自由主義」は違う。後者は、資本主義の市場原理と不可分離である。さらにいえば、自由主義と民主主義もまた別のものである。ナチスの理論家となったカール・シュミットは、それ以前から、民主主義と自由主義は対立する概念だといっている(『現代議会主義の精神史的地位』)。民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。

それに対して、自由主義は同質的でない個々人に立脚する。それは個人主義であり、その個人が外国人であろうとかまわない。表現の自由と権力の分散がここでは何よりも大切である。議会制は実は自由主義に根ざしている。(柄谷行人「歴史の終焉について」『終焉をめぐって』所収p162)
自由主義は本来世界資本主義的な原理であるといってもよい。そのことは、近代思想にかんして、反ユダヤ主義者カール・シュミットが、自由主義を根っからユダヤ人の思想だと主張したことにも示される。(……)ハイデッガーもシュミットも標的としているのは、英米の「自由主義」である。普通に「民主主義」と呼ばれているものは本来自由主義であり、ナチズム(国家社会主義)こそ真に民主主義的なのだといいたいのだ。(同上)


※冒頭の文は、以下からの意訳、あるいは示唆をうけて書かれている。


As in LéviStrauss, the quilting point sutures the two fields, that of the signifier and that of the signified, acting as the point at which, as Lacan put it in a precise way, the signifier falls into the signified.This is how one should read the tautology socialism is socialism”—recall the old Polish anticommunist joke: Socialism is the synthesis of the highest achievements of all previous historical epochs: from tribal society, it took barbarism, from Antiquity, it took slavery, from feudalism, it took relations of domination, from capitalism, it took exploitation, and from socialism, it took the name …” Does not the same hold for the antiSemitic image of the Jew? From the rich bankers, it took financial speculation, from capitalists, it took exploitation, from lawyers, it took legal trickery, from corrupt journalists, it took media manipulation, from the poor, it took indifference towards hygiene, from sexual libertines it took promiscuity, and from the Jews it took the name. Or take the shark in Spielberg's Jaws: from immigrants, it took the threat to smalltown daily life, from natural catastrophes, it took their blind destructive rage, from big capital, it took the ravaging effects of an unknown cause on the daily lives of ordinary people, and from the shark it took its image. In all these cases, the “signifier falls into the signified” in the precise sense that the name is included in the object it designates—the signifier has to intervene into the signified to enact the unity of meaning. What unites a multitude of features or properties into a single object is ultimately its name. (In a strictly homologous way, for Badiou, an Event includes its name in its definition.)(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)


表題の「表象の奈落」は、蓮實重彦の本の題名だが、そこで使われている意味とはまったく異なっている。だが、ここではあえてその表現を誤使用した(本来なら、せめてシニフィアンの奈落とでもすべきところか)。