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2013年7月6日土曜日

大江健三郎と三島由紀夫の文体をめぐるメモ

皆さん、芸術家なら自分の作品をエラボレートするのは当り前だろう、といわれるかもしれません。しかし、この国ではそうじゃないんです。エラボレートする作家は──文学でいうならば──じつにまれで、たとえば安部公房のように特別な人なんです。かれの小説の初出と、全集におさめてあるものを比較すればあきらかですが、安部さんはいったん発表したものも、なおみがきあげずにはいられない作家でした。

三島由紀夫の文体は見事だ、というのが定説ですが、あれはエラボレートという泥くさい人間的な努力の過程をつうじて、なしとげられた「美しい文章」ではないのです。三島さんは、いわばマニエリスム的な操作で作ったものをそこに書くだけです。書いたものが起き上がって自分に対立してくるのを、あらためて作りなおして、その過程で自分も変えられつつ、思ってもみなかった達成に行く、というのではありません。三島さんのレトリック、美文は、いわば死体に化粧をする、アメリカの葬儀屋のやっているような作業の成果なんです。若い作家でそれを真似ている人たちがいますから、ここでそう批判しておきたいと思います。(大江健三郎 講演「武満徹のエラボレーション」|東京オペラシティコンサートホール)

《大江健三郎は懸命に三島由紀夫を否定する。ちょうどヘーゲルが懸命にシュレーゲルを否定したように。》(柄谷行人「同一性の円環」)――もっとも柄谷行人がこう書くのは、大江の三島由紀夫文体への「否定」をめぐってではないが、いまはその内容については触れない。大江健三郎はありとあらゆる機会をとらえて三島由紀夫を否定する、そのことが言いたいだけだ。文体に関しては、大岡昇平が指摘されたとされる以下の文のようなことを、大江氏は想起しつつ上のように語ったのかもしれない(丹生谷貴志の文であるが、ツイッター上で拾ったので出典は不明)。

三島由紀夫の死後、大岡昇平は三島の文体に時折露骨なかたちで現れる奇妙なメカニズムを指摘している。三島の文体全般に言えることだが、時折唖然とするほどに空疎な措辞を用いた文章が現れるという点である。例えば、と大岡は『天人五衰』の一文を挙げる。…「宇治市へ入ると、山々の青さがはじめて目に滴った」。…「目の前の現実に対して言葉は既成の言葉の中からほとんど自動的に選ばれる。つまりは美文が生まれる訳である」と大岡は言っている。要するに銭湯の壁画みたいだ、ということである。

同じことが、或いはこの文例よりもさらに空虚な措辞からなる次のような文にも認められる。『暁の寺』最後のクライマックス部分である。「こんな場合にも、ほとんど無意識の習慣で、本多は赤富士を見つめた目を、すぐかたわらの朝空へ移した。すると截然と的れきたる冬の富士が泛んで来た」。…「セツゼントテキレキタルフユノフジ」! …

「既成の言葉の中から自動的に選ばれる」という大岡の評言は、要するに三島は目の前の「現実」に対して、可能な限りそれに“相応しい”言葉の探究をすることなく、例えば旅行用パンフレットに書かれるような「既成のレトリック」の中から…切り取って来るかのようだといった意味だろう。しかしここで重要なのは、三島が、或いは三島が選んだ「文体」が半ば意図的に「現実」との接触を避ける身振りを持っているという点である。正確に言えば、「現実」を前にし、一応そこに向けての接近の身振りをするのだが…そしてそこにおける三島の詳細で微分的な精密さについて否定する者はいないと思われるが、しかし、三島の文体には或る“感覚的に自動的な”飽和点とでも呼ぶべきものがあって、文章が現実の不定型に巻き込まれる程に近づこうとする瞬間に身を引いて自らの中に凝固しようとするかのようなのである。(丹生谷貴志)

「既成の言葉の中から自動的に選ばれる」、――三島由紀夫の文章には、たしかにこういった印象を生む場合がわたくしにもあるのだけれど、まああまり偉そうなことを言うつもりはない、たいして読んでもいないのだから。「截然と的れきたる冬の富士」、こういった漢文ベースの文体、たとえば森鴎外やら永井荷風にも似たような表現はあるのだけれど、なぜこの二人の巨匠の文体にはそういったことを感じないのかのほうが、わたくしには不思議なのだが、その二人の文章だってたいして読んでいるわけではなく、何度も読んだのは、『渋江抽斎』と『断腸亭日乗』なのだけれど、「既成のレトリック」の中から切り取って来るかのような感じを受けたことはない(谷崎からも川端からも受けたことはない、逆に学者の論文などそんなものばかりだ)。

――「琴瑟調わざることを五百に告げた」「淵に臨んで魚を羨むの情に堪えない」「玄碩の遺した女鉄は重い痘瘡を患えて、瘢痕満面、人の見るを厭う醜貌であった」……

――「断膓亭の小窗に映る樹影墨絵の如し」「樹間始めて鶯語をきく」「此日天気晴朗。園梅満開。鳥語欣々たり」……

たぶん「既成のレトリック」の中から切り取って来ること自体が問題なのではなく、丹生谷氏が最後に書いているような《三島の文体には或る“感覚的に自動的な”飽和点とでも呼ぶべきものがあって、文章が現実の不定型に巻き込まれる程に近づこうとする瞬間に身を引いて自らの中に凝固しようとするかのよう》なせいであって、肝心なところで拍子抜けするということなのではないか(描写される時代が漢語表現に適さないということもあるだろう…現代クラッシックの作品が古典的作風で作曲されても、どこか「まがいもの」感が生まれてしまうように…まあこのあたりのことはあまり考えたことはないので、ひどく馬鹿げたことを言っているのかもしれない)。

今どき文学上のリアリズムっていうと、まあ多少文学を考える人はまともに付き合うまいと思うでしょう。リアリズムというのは、人がどこで得心するか、なるほどと思うか、そのポイントなんですよ。つまり人は論理で納得するわけじゃない。論理を連ねてきてどこか一点で、なるほどと思わせるわけです。その説得点あるいは得心点ともいうべきところで、形骸化されたリアリズムが粘るというのが、文学としてはいちばん通俗的じゃないかと思うんです。説得点にかかるところだけはすくなくとも人は真面目にやってほしい。つまりこんな言い方もあるんです。今どき文章がうまいというのは下品なことだと。それをもう少し詰めると、感情的な、あるいは思考の上でのポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる。筋の通ったあり来たりならいいですよ。もしもそういう筋の通った『俗』がわれわれにとって、説得点として健在ならば。しかし時代になんとなく流通するものでもって人に説得の感じを吹き込む、そういう文章のうまさ、工夫、これは僕はすべて悪しき意味の通俗だと思う。これがいわゆるオーソドックスな純文学的な文章にも、ミナサンの文学にも等しくあるわけだ。これをどうするのかの問題でね。(古井由吉・松浦寿輝『色と空のあわいで』ーーありきたりな言葉


といっても、大岡昇平の文体だって、なんだか物足りなさを感じるときがある、とくにスタンダールやレイモン・ラディゲを擬した恋愛もの。安吾のいうとおり、《心理描写が行き届いて明快であるが、それは御両者のつかみだしてきた事柄についてのことで、その事柄として明快に心理をつかみとって描いてみせているけれども、その事柄でない方には目をふさいでいる。一方に行き届いて明快であることが、他には全然行き届かぬという畸型を生じております》。まあプルーストと比べてしまうのは、彼らに酷かもしれないけれど、おなじ心理を描くといっても、判断保留の宙吊り感といったものが少ない、プルーストの小説の登場人物の一人、《コタールは《偉大》でも《卑小》でもない。仮に真実があるとすれば、その真実は「他者」の言葉が彼に与える動揺全体にいきわたる言述の真実である。》(ロラン・バルト)――こんな感じは全然ない。ラディゲにもサガンにもない。スタンダールはどうか、あるんじゃないかね、スタンダールの翻訳者大岡昇平にくらべて格段に。あまりにもの明快さへの不満かな。もっともこのあたりはたんに好き嫌いのせいだけではないかと疑ってみる必要はあるのだけれど。


大岡昇平と三島由紀夫は戦後に文章の新風をもたらしましたが、その表現が適切に、マギレのないようにと心がけて、まさしく今までの日本の文章に不足なものを補っております。明快ということは大切です。

ですが、小説というものは、批評でも同じことだが、文章というものが、消えてなくなるような性質や仕組みが必要ではないかね。よく行き届いていて敬服すべき文章であるが、どこまで読んでも文章がつきまとってくる感じで、小説よりも文章が濃すぎるオモムキがありますよ。物語が浮き上って、文章は底へ沈んで失われる必要があるでしょう。

御両所に共通していることは、心理描写が行き届いて明快であるが、それは御両者のつかみだしてきた事柄についてのことで、その事柄として明快に心理をつかみとって描いてみせているけれども、その事柄でない方には目をふさいでいる。一方に行き届いて明快であることが、他には全然行き届かぬという畸型を生じております。

それも要するに、文章が濃すぎるということだ。文章というものは行き届くはずはないものです。行き届くということは、不要なものを捨てることですよ。すると他に行き届かないという畸型は現れません。

そして、捨てる、ということは、どういうことかと云うと、文章は局部的なものでないということです。むろん、文章は局部的にしか書けないし、その限りに於て文章は局部的に明快で、また行き届く必要がありますけれども、文章の運動というものはいつも山のテッペンをめざし、小説の全体的なものが本質として目ざされておらなければならない。言葉の職人にとって、一ツ一ツの言葉というものは、風の中の羽のように軽くなければなりませんな。

どうしても、この言葉でなければならん、というのは、そんな極意や秘伝があるのか、と素人が思うだけのことですよ。職人にとっては仕事というものは、この上もない遊びですよ。彼の手中にある言葉は、必然の心理を刺しぬくショウキ様の刀のようなものではなくて、思いのままに飛んだり、消えたり、現れたりする風の中の羽や、野のカゲロウや虹のようなものさ。

言葉にとらわれずに、もっと、もっと、物語にとらわれなさいよ。職人に必要なのは、思いつき、ということです。それは漫画の場合と同じことですよ。ここを、ああして、こうして、という問題のワクがまだ小さいウラミがあります。

要するに、文章が濃すぎると思うのですよ。もっとも、私の言うのは文章だけに目をおいて、言ってるのですがね。(坂口安吾「戦後文章論」

この後、安吾は、《文章の新風としては、今度の芥川賞の候補にのぼった安岡章太郎という人のが甚だ新鮮なものでありました。私は芥川賞に推して、通りませんでしたが、この人は御両所につづく戦後の新風ですね。》と書いているのだけれど、わたくしも、安岡章太郎の文体には、なんでもない箇所でも魅せられる。

信太郎は、タバコをのんでいる父親の顔がきらいだった。太い指先につまみあげたシガレットを、とがった唇の先にくわえると、まるで窒息しそうな魚のように、エラ骨から喉仏までぐびぐびとうごかしながら、最初の一ぷくをひどく忙しげに吸いこむのだ。いったん煙をのみこむと、そいつが体内のすみずみまで行きわたるのを待つように、じっと半眼を中空にはなっている……。吸いなれた者にとっては、誰だってタバコは吸いたいものにきまっている。けれでも父の吸い方は、まったく身も世もないという感じで、吸っている間は話しかけられても返辞もできないほどなのだ。(『海辺の光景』)

※附記

大江健三郎は『取り替え子』のなかで、妻がモデルである千樫にこう語らせている(千樫との対話が、実際にそうあったのかどうかは問題ではない。千樫との対話は古義人(大江自身がモデル)の内省であり自己対話に近いとしてよいだろう)。


――あなたがまだ若くて、おもに翻訳を読んでいた頃、早口で発音不明瞭というところもあったけれど、話の内容は本当に面白かったのね。輝くような、風変わりなほど新しい表現があって……

それが永いメキシコシティー滞在の後、翻訳じゃなく外国語で本を読むようになってから、あなたの使う言葉の感じが変わったと思う。新しい深さが言葉に反映している、とは思うことがあるのよ。けれども、なにか突拍子もないおかしさ、面白さの言葉には出会わなくなった。小説に使われている言葉もそうじゃないかしら? 成熟ということかも知れないけれど、以前のようにキラキラした言葉はなくなった。そう考えているうちに、私はあなたの小説を読まなくなってしまったのね。それで、この十五年ほどの小説のことはなにもいえないけれど、そうした変化と、翻訳より原語で読む方が多くなったということと、関係があるかも知れないと思って……原書を読む人こそ、日本語にない面白さを持ち込む、と考えるのが普通かも知れないけれど……

――それは本当にそうかも知れないね。僕の本の売れ行きが下降線を示しはじめたのは、四十代後半からだからね。あまり翻訳を読まなくなった時期と一致するよ。きみのいうとおり、キラキラする面白さが薄れたのかも知れない。翻訳されたものを読む面白さには、原語から読みとるのとは別の、いうならば露骨なものがあるんだよ。あれをこう訳すか、これだけやっていいものか、と驚きながら、自分にはこの日本語は生み出せない、と感服することがよくあるものね。とくに若い有能な翻訳者には、異能といっていいほどの力を示す人がいるよ。(……)

――フランス語の新しい作品を翻訳する、若い人の文章には、突飛な面白さがあるねえ、といった。

――まあ、そうだね、アメリカ西海岸の大学の、直接フーコーの影響下にいる連中などは別として、英語の文章はそれ自体地道だものね。とくにイギリスの学者が書くものは…… 僕の文章がキラキラしなくなったというのは、ブレイクからダンテ研究まで、おもにケンブリッジ大学出版局のモノグラフを読んできたことと関係があるかも知れない……P64-65