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2013年7月1日月曜日

タヌキの跳梁跋扈

過日、「次の世代が、この国で、アジアで、世界で、生き延びうる世界を残す」と語った大江健三郎は、ドイツ議会における「原理的な倫理」の定義を次のように示している。

3.11後、すぐ後で、
「ドイツは原発利用に原理的根拠はない」として、国の方向転換を始めました。
他の国でいま原理的だとか、オラールとかいう言葉はあまりに使われませんが、
ドイツの議員達は次のように「原理的」という言葉を定義しています。

私たちが、次の世代が生き延びることをさまたげない。
次の世代が生きていける環境を無くさない。
その事が今人間のもち得る最大の根本の倫理だ。


というのが彼らの定義であります。


これは岩井克人がかつて環境問題をめぐって語った「未来世代への責任」、あるいは『トランスクリティーク』における柄谷行人の「未来の他者」への責任の倫理ということである。

人類は太古の昔から利己心の悪について語ってきました。他者に対して責任ある行動をとること——それが人間にとって真の「倫理」であると教えてきたのです。だが、経済学という学問はまさにこの「倫理」を否定することから出発したのです。

 経済学の父アダム・スミスはこう述べています。「通常、個人は自分の安全と利得だけを意図している。だが、彼は見えざる手に導かれて、自分の意図しなかった〈公共〉の目的を促進することになる」。ここでスミスが「見えざる手」と呼んだのは、資本主義を律する市場機構のことです。資本主義社会においては、自己利益の追求こそが社会全体の利益を増進するのだと言っているのです。(……)

未来世代とは単なる他者ではありません。それは自分の権利を自分で行使できない本質的に無力な他者なのです。その未来世代の権利を代行しなけれはならない現在世代とは、未成年者の財産を管理する後見人や意識不明の患者を手術する医者と同じ立場に置かれているのです。自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に責任を持って行動することが要請されているのです。すなわち、「倫理」的な存在となることが要請されているのです。(岩井克人「未来世代への責任」

…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。また、過去の人間との対話や合意もありえない。彼らは何も語らない。では、われわれはなぜ責任を感じなければならないのか。実際、何の責任も感じない人たちがいる。国家や共同体に関して「道徳的」な人たちが特にそうである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P192)


このふたつの文は、アングロ=サクソン的な自由主義(カール・シュミット流にいえばユダヤ主義ということになる)に対抗しなくてはならないという主張の系譜だ。《カントが『実践理性批判』で最も批判したのは、「幸福主義」(功利主義)である。彼が幸福主義を斥けるのは、幸福がフィジカルな原因に左右されるからだ。つまり、それは他律的だからだ。その意味で、自由はメタフィジカルであり、カントが目指す形而上学の再建とはそのこと以外にない。》(『トランスクリティーク』p184

「フィジカルな原因」に左右されない--だが、《自分の歯茎が痛めば、その狭い中に全魂が集中するのが人間であり、その瞬間ほど、たとえ地球の反対側で地震が起こるとしても、自分の歯痛ほどではないと考える(……)。結局人は、世界で戦争が起ころうとも、地球に終末が訪れようと、自分が患っている歯痛よりはひどくはないと感じる……》(フロイト


もちろん、このアングロ=サクソン主義に対抗するために20世紀前半に現れたのがファシズムとコミュニズムであるのは周知のことあり、その惨めな結末後は、ふたたびヒュームからプラグマティズムに至るアングロ=サクソン的な伝統の優位、それが、すくなくともこの二、三十年の支配的な哲学――というか反哲学ということになる。


「未来世代への責任」などと言われても、われわれの多くは、それを「抽象的」と感じる。未来世代への責任どころか、身近な「差別」にたいしてだって、次の呟きが正直な反応だろう。

《生活保護にしろ在日にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、就職活動で自分の人生の選択を迫られている時に遠くの土地で起こっている排外デモに気をとめるだろうか。毎日毎日夜遅くまで働かされて家庭のために頑張ってるなかで生活保護をめぐる過剰なバッシングの欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。これは、生命過程の必然性(アレント)のせいではない。後期資本主義という社会制度のせいである。我われの眼差しは、胃袋からやはり社会構造へ。》(「なんのために」ーーー加藤周一『羊の歌』より


………

「お前さん、大江健三郎の「未来世代への責任」派だったな、78歳の大江健三郎は死ぬまで頑張るのだろうけどね、いつまできみら凡人にその意気込みがもつやら……

やつらが、つまりあの国家寄生虫みたいなやつらが原発再稼動の具体的な指示した場合、抵抗運動はふたたび盛り上がりはするだろうけど、あのタヌキたちにそれだけで対抗できるものかね

《歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っているオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……》《野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる》(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)って具合なのが、さらに自民党政権になっていっそう強敵になったからな

……ところで、首都圏大地震とつぎの原発事故のどっちがはやく起こると思うかい」

「たぶん、地震のほうだね、一万人規模の死者がでる災害なら、おだやかな予測でさえもこれだからな、神戸ではそんな予測のまったくない場所でおこったわけだし……」


ーーー地震調査研究推進本部


「ということは、その地震をたいして心配してない都民が、原発再稼動にたいして文句をいわないのは当たり前じゃないかい、原発事故があったって、自分たちは被災しない遠くの出来事と思ってるはずだから。磯崎新が、《このまま東京一極集中が続くと日本はつぶれてしまうでしょう。祭政一致という概念があらゆる錯誤を起こしてきた。祭祀と政治が一体化した明治以降、統治の中心であり、経済活動の中心でもある。何もかも集まっている。もっと機能を外に出した方がいい》なんていったって何処吹く風さ」

「そうさね、そもそも、あとは野となれ、山となれ、だからな、ほとんどの人は。今さえよければいい、というのか、やっぱり明日の飯が大事だからね。まあ日本中どこへ行っても、いつ大地震があるか分らないのだから、十年後の未来なんて考えようがないんじゃないか。十年後でもそうなんだから、未来の責任とか、未来の子どもたちのために、とか、放射能の半減期が何万年以上でふつうの事故とはわけが違うなんて言われても、どうもな……『ツナミの小形而上学』のデュピュイの、《カタストロフィまだ起こっておらず、それはあいまいな「未来」でしかない。人びとは現在の現実的関係のなかで生きていて、まだ訪れていない「未来」を基準に行動しようとはしない》ってやつだな」

「ほかにも、こんなのがあるぜ、

中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。他山の石はチェコ、アイスランド、オランダ、せいぜい英国であり、決して中国や米国、ロシアではない。(「日本人はどこがダメか」というアンケートへの答え)

――って具合だな、日本って国は」


「李鵬だったかな、日本などという国は20年後には消えてなくなる、と言ったのは。

まあいずれにせよ、原発停まって困る人、商売あがったりになるっていうのか、失業も含めてだな、原発は裾野のひろい産業というのがほんとうなら、原発にすがりついて再稼動に必死になる人はそれなりの数いても、脱原発派ってのは、老いた知識人やら、なんやら、原発がとまってもたいして困らない人たちなんだよな、ほとんどが。それと庶民的正義感のはけ口に利用してかっこつけている連中。正味のところ、脱原発派に原発推進派ほど必死になってる人間はすくないんじゃないか……

ところで大江健三郎のあの情熱というのは、どこから出てくるのだろうね、オレは敬愛しているには違いないが。オレにはないなあ、あの熱意のかけらも。

クンデラの『不滅』って小説があるんだが、ゲーテが死後の不滅を願って、種々の画策をするって話があるのだけれど……。ある時期から《われわれは熱烈に、不滅のことに気を配りはじめる。不滅のためにタキシードをあつらえたり、ネクタイを買ったりするのだ。それも他人がスーツやネクタイを選ぶことになるのではないか、選びかたが悪いのではないかと心配しながら。》そうやって、ゲーテは回想録『詩と真実』を書こうと決めたり、忠実なエッカーマンを家に招いて、肖像を描かれる人間の親切な監督のもとで『ゲーテとの対話』が制作されたってのは信憑性があるなあ、《異論の余地なく可能なものである大きな不滅に、対面させる職業がある。それは芸術家と政治家の職業である》などと書かれて、ミッテランのことも書かれているのだけれどね、大江健三郎は、ひょっとして死後の不滅をも視野にいれながら、活動してんじゃないかって、最近ふと思うこともあるなあ

それが悪いことというつもりはなくて、日本の政治家さんよ、もっと死後の不滅を願ってくれよ、と言いたいところなのだが、そんなやつは、全然いないんだよな」

「で、どうしろっていうんだい」

「脱原発の動きが実際的になるのは、原発稼動が復活すると、明日の飯に困ってしまう人がそれなりの数になる必要があるんじゃないかね。たとえば全面的な損害保険を義務づけて原発の電気代跳ね上がって……」

「ばかだなあ、あのタヌキ爺たちがそんなことするわけないだろ、終わりをたえず先送りしていくえげつない資本主義を剥き出しにしてる奴らが。そもそも俺たちの大半が、未来世代への責任どころか、未来世代に責任を押し付ける「幸福主義者」たちだからね」


………


倫理とは、言ってみれば、金もうけのために隣人を裏切るなということです。ところが、資本主義はそうではない。人よりも会社だから、だますギリギリのところでもうけても、良いことだとされる。金融資本が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するようになり、いよいよそれが甚だしくなってきています。(震災後論④池澤夏樹さん

だが、金儲けの論理から、いかに逃れうるか。金銭を取得することだけが金儲けではない。

《あらゆる科学だろうと哲学だろうと結局取引関係にいくわけじゃないですか  だから取引関係に基づいて科学も経済も すべてができている これこそ問題じゃないですか?》(高橋悠治


他者に認められようとする振舞いも「金儲け」論理である。

自分の時間やエネルギーを売って、鈍重な自足を買う。《公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼は己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。》(ヴァレリー


柄谷行人は『トランスクリティーク』の冒頭で、カントの「君の人格ならびにすべての他者の人格における人間性を、けっしてたんに手段としてのみ用いるのもならず、つねに同時に目的として用いるように行為せよ」をあげつつ「これはたんに抽象的なものではない」としている。これは逆に「抽象的」ではないかどうか怖れつつ、すくなくともそれを自問自答しつつ書かれているとしてもよいだろう。

道徳的=実践的とは、カントにとって、善悪の問題ではなくて、「自由」(自己原因的)であること、また他者を「自由」として扱うことを意味する。道徳法則とは、「君の人格ならびにすべての他者の人格における人間性を、けっしてたんに手段としてのみ用いるのもならず、つねに同時に目的として用いるように行為せよ」ということである。だが、これはたんに抽象的なものではない。カントはそれを歴史的な社会の中で、漸進的に実現すべき課題として考えていた。(……)他者をたんに「手段」としてのみ扱うような資本制経済において、カントのいう「自由の王国」や「目的の国」がコミュニズムを意味することは明らかであり、逆に、コミュニズムはそのような道徳的な契機なしにありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』「序文」)