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2013年7月5日金曜日

ああ、とりわけ、とりわけ、ウラヤマシイ

さて、俗物性とか凡庸、キッチュ、ファシストの卵とかを書き綴った文を読んでなにも苛立つ必要はないのであって、ましてや「さしあたっての急務」として、誰かが単なる馬鹿であったり俗物であったりすることを穿鑿する目的で書いているつもりは毛頭ない。そもそもその誰かが馬鹿かどうかは知らねど典型的なマヌケであることはすでに実証ずみであるなどといい募るにも、<わたくし>は「紳士」過ぎる存在である。あるいはまた次のように嘲弄するほどには「親切」心を持っていはしない。

……つまり林達夫の文章の内容は、丸谷才一の抽象的讃美にもかかわらず、まさしく人間精神の普遍性への確信が揺らぎはじめた後の世界にふさわしく自分の思考を組織しなおそうとする契機を語っているのである。また、かりにそれが誤読であって、なお精神の普遍性の回復へと向けて夢を追いもとめる決意が語られているというのが正しい解釈であるとするなら、そんな文章を綴った人間は単なる馬鹿であるし、そんな人間の「思考の構造とリズムを尊重し、それに寄り添ひながら、あるいはそれをいつそう鮮明なものにしながら文章を書く」ことが「達意」に通じる道だなどと説くものも、単なる馬鹿というほかないだろう。

だが、さしあたっての急務は、『文章読本』の著者が単なる馬鹿であるかどうかの穿鑿にあるわけではないし、また、教育装置としての風景の恐ろしさは、とても馬鹿とは思えない人間の思考をも「知」的に分節化する点にあるのだから、いましばらくは、現代の風景論的な展開にいま少しつきあわねばならない。それは存在から「知」を奪い、あらゆる人間を痴呆化させるからではなく、むしろ「知」の流通を活性化させながら思考の体系化をめざすかにみえて、逆に思考を単調なる物語の一挿話としてそ知らぬ顔で分節化し、イメージによる相互汚染を普遍性と錯覚させてしまう点が恐ろしいのだ。(蓮實重彦「風景を超えて」『表層批判宣言』)

そう、「教育装置としての風景の恐ろしさは、とても馬鹿とは思えない人間の思考をも「知」的に分節化する点にある」のだから、どこかの馬の骨が、紋切型の発声練習を人前で立て続けに曝していようと、あるいは俗物、凡庸、キッチュ、果てはファシストの卵の資質のストリップ・ショーの実演に専念しつつそれに無自覚であろうと、目くじらを立てるつもりはないのだ。ただ「閉じた眼」のせいか他人の難聴ぶりがよく聞こえてくるに過ぎなく、「王様は裸だ」の子供のように馬の骨の髄まで沁み込んだ俗物、キッチュ、ファシストの卵の展覧会に居た堪れないだけである。


この蓮實重彦の風景論はすでに似たような内容を何度か反復して引用しており、ここで性懲りもなく再度強調するならば、大切なのは、「存在が風景を読むのではない。風景が存在を読みとってゆく」ことを知ることであり、かりにも存在が風景を読みとるばかりであったら、われわれの世界はいつまでも天動説のままであるだろう。そしてなによりも肝心なのは、風景の、制度の、イデオロギーの、ーーそれはシステムとかパラダイム、エピステーメといってもよいーーそれらの分節機能に従って語らされてしまっているのに気づくことだ。しかし、こんな教育する風景をめぐって繰り返して語ることほど退屈なはなしもまたとあるまい。「あたりに行きかっているあまたの言説は、ほどよく身支度を整えた自意識過剰の哲学的なそれから無邪気な日常的な会話にいたるまで、またとうぜんのことながら文学という誇らしげな言葉の群であろうと、そのことごとくがそれと意識されざる風景論を形成している」のは周知なのだから、たまたまどこかの馬の骨のツイッター上での発話のみが特別にキッチュを誇っているわけでもない。ちょうど典型的な凡庸さを示していたから俎上に乗せたまでのことだ。ただし鮮度がひどく悪く、その臭気はなんともやりきれなく鼻を抓むより他しようがなかったわけだ。

《それにくらべて女は、鮮度が第一、小骨をぬいたり、醋でころしたり、味醂につけたりしてみても、いたみが早く、このみもまちまちで扱ひがむづかしい》(金子光晴)

いずれにせよ説話論的磁場の汚染がひどい時空で語ってしまえば、その発話はほとんどがどこかで覚えこんできた台詞に過ぎない紋切型になってしまうにもかかわらず、「自分の言葉で表現」しているつもりの錯覚に陥っていることに無自覚な「マヌケ」がうようよしている、そんな嘲弄をついうっかり口から漏らしてしまう下品な誘惑に抵抗することにいささか難儀をしたには相違ないことをここであっさりと白状しておく、ーーこれだって、「きみ」が土人でないならば退屈な話のはずである。《安堵と納得の風土の中に凡庸さが繁殖する。そこに語られる言葉が紋切型というやつだ》(『凡庸な芸術家の肖像』)

説話論的磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっと意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。

近代、あるいは現代と呼ばれる同時代的な一時期における自我、もしくは主体とは、この錯覚に与えられたとりあえずの名前にすぎない。(蓮實重彦『物語批判序説』)

まあ、ここはこんな退屈な話はもうやめにして、前投稿ですこし触れた「偽日記」の書き手の文を抜き出しておこう。「自分の中に棲む人と世の中に棲む人」の話だ。この書き手のように、後者の人間が存在するのを最近になって気がついて驚いたということは、わたくしの場合ないが、すくなくともある種のいわゆる「高級な文学」を読み称揚している人間までもが、後者でもあり得るのは、最近になって気がついて驚いたということはある。「文学」やら「音楽」、そして「芸術」全般にぞっこん惚れ込んでいるらしき人間のなかにも、「社会的な関係の実現こそが自己実現だ、という風に感じている人が少なからずいるのだと知った」というわけだ。オレがウブだったせいだろう。

《幸福な凡庸性のうちに生き愛しほめることができたなら。…もう一度やり直す。しかし無駄だろう。やはり今と同じことになってしまうだろう。-すべてはまたこれまでと同じことになってしまうだろう。なぜならある種の人々はどうしたって迷路に踏み込んでしまうからだ。》(『トニオ・クレーゲル』)

このトーマス・マンの小説のなかの嘆息は、「自分の中に棲む人」が「世の中に棲む人」を羨望すると読むこともおそらくできるだろうけど、それは「世の中に棲む人」の仲間にはどうしてもなりきれない「不幸」の嘆きであり、「文学」を書いたり読んだりする資質というのは最低限こういうものだと思い込んでいたのは、オレの「先入観の無思想=俗物性」だったわけだ。ましてやマグリッド・デュラスやシモーヌ・ヴェイユがお気に入りの人間のなかにさえ、「世の中に棲む人」系がいるなどとは、目かくしして文学を読んでいるのか、誤読しているだけなのか、たんに馬鹿に過ぎないのか、自らとまったく懸け離れた資質であるため憧憬しているのか、それともとりわけ優れた才能があり新しい読み方をしているのか、窺い知ることはできない。《彼女は連帯を求めはしない。そして孤立を恐れない。むしろ僕の記憶のなかのデュラスは、連帯の可能性は孤(個)に徹することによってはじめて生まれると信じ、その確信に支えられて探求の道を歩み続けている》 (岩崎力「記憶のなかのデュラス」)、《独りでいることを学べ。/それだけが真の友情を得るにふさわしい。/晴朗に心楽しく独りでいることを学べ。》(シモーヌ・ヴェイユ/ カイエ1

人には、自分の中に棲む人と、世の中に棲む人と、ざっくりと二つの方向があるように思う。ただ、このことに気づいたのはずいぶん歳をとってからで、ぼくは自分が前者だと思うので(とはいえ、それほど「確固たる前者」とはとても言えないが)、人は基本的に皆前者なのだとずっと思っていたのだけど、どうもそうではないらしいと気がついて驚いたのはけっこう最近のことだ。(……)

人は、社会の中に生きていて、社会がなければ生きられないのだから、社会的な関係は不可避であり、いわばしかたなく(すごくめんどくさいけど)社会的な関係性のなかに入ってゆく(しかない)のであって、しかしそれとはまったく別の、自分としての生があって、こちらの方でこそ「生きて」いて、これはまったく個人的な、自分の内側と、あるいはごく私的な関係のなかにこそあるものだ、と、人はみんな思っているのだと思っていた。しかし、社会的な関係の実現こそが自己実現だ、という風に感じている人が少なからずいるのだと知った時には大変に驚いた。このことをすごく上手く言い当てているのが、斉藤環が昔言っていた「ひきこもり系」と「自分探し系」という分類だと思う(ただこのネーミングはあまり適当ではないと思う)。ひきこもり系はコミュニケーションは苦手だが、自己イメージが割合強固なので一人でいることが苦にならない(「わたし」が自分の中に棲む)。むしろ一人でいたい。自分探し系は、コミュニケーション能力は高いが、自己イメージが明確ではないので、他人との関係によって、そのなかに自分を見いだす(「わたし」が社会的関係の中に棲む)。つまり、「自分探し(に限らず、何かしらの探求)」を、内に向かって行うか、外に向かって行うかの違いだと言える。あるいは、常に「わたしたち」としての「わたし」(「わたしたち」のなかの「わたし」)を語る人と、あくまで「わたし」として「わたし」を語る人との違いともいえる。おそらくこの違いは資質の違いとしかいいようのないものなのだろう。(「偽日記」)

《自分探し系は、コミュニケーション能力は高いが、自己イメージが明確ではないので、他人との関係によって、そのなかに自分を見いだす(「わたし」が社会的関係の中に棲む)。》--前記事で、この「世の中に棲む人」系、あるいは「自分探し系」を、ふと思いつきのようにして「キッチュ」系と書いてしまったが、それが妥当なのかどうかも、ここで穿鑿するつもりはない。


どうもネット上では、金子光晴のいう「君のやうな女」は見つからず、それが残念なところである、とここで唐突に呟いておこう、神経ではりはりしたお嬢さんはこりごりなのだがね

《君のやうな女が、きつと僕には、相性なのだ。とりわけ、とりわけ、このごろのくたびれかたでは、神経ではりはりしたお嬢さんなど、お茶一ぱいのつきあひも、命がちぢむ》(金子光晴「愛情69・愛情20」)


ああ、ウンザリだ、《すべて「決まり通りに」反応することが要求されるのだ。こうした重圧のもとで、人々はじつは共感していないのに共感したふりをする。じつは共感しているのに、共感していないそぶりをする。自分の気持ちからずれた共感ゲームをえんえん続けるのである。》(中島義道『「人間嫌い」のルール』ツイッターBOTより)

ーーそうじゃないかい、きみらのやっていることは。だが、「世の中に棲む人」系だか「キッチュ」系の人物は、共感ゲームをなんと巧みにこなしていることだろう。ウラヤマシイ、ああ、とりわけ、とりわけ、ウラヤマシイ


中島義道氏というのは、人生指南系のいささかうさんくさい啓蒙的哲学者かと思っていたが、なかなか愉快な人物のようだ。
私の嫌いな10の人びと

1、笑顔の絶えない人
2、常に感謝の気持ちを忘れない人
3、みんなの喜ぶ顔が見たい人
4、いつも前向きに生きている人
5、自分の仕事に「誇り」を持っている人
6、「けじめ」を大切にする人
7、喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
8、物事をはっきり言わない人
9、「おれ、バカだから」という人
10、「わが人生に悔いはない」と思っている人


「いつも前向きに生きている人は、自分だけそっとその信念に生きてくれれば害は少ないのに、往々にしてこの信念を周囲の者たちに布教しようとする。いつも前向きに生きている人は、とにかく後ろ向きに生きている人が嫌いなのです」だとさ、いいこというじゃないか。


信念の布教だけはやめようじゃないか、そこのいつも前向きでにこやかな「文学愛好者」よ。いやそれも「世に棲む人」系で、かつ文学を目隠しして読んでいる手合いならやむえないことだ。

ーーーなんども書くが、特定の人物に向けて書いているわけではない。勘違いはしないでもらいたい。


※参照:なぜ口を閉じ耳を開けておかないのだろうか。馬鹿なんだろうか(ジョン・ケージ)