なんというのか、いくらなんでもマズイんじゃないか、さる批評家の論文でゴタゴタしているようだが、まああの若い批評家のマヌケさ加減はそのつぶやきの片言隻語につねに滲みでており、そんなものは無視したらよいのであって、それに得意面で論評や批判をしている、ふだんデリダやらド・マンやらをえらそうに読むふりをしている手合いのほどよい聡明さを無邪気に誇るはしたなさは。ただひたすら「脱構築」やらの理屈を応用しているだけであり、そもそもあの論評の内実は、デリダ、ド・マン以前の構造主義的思考がまったく抜け落ちているんじゃないかい?
蓮實)ポスト・モダニズムを新しいと思っている人たちが、現実にはかなりいるわけですよ。そういうときに、柄谷さんは錯覚を晴らすべく教育者として振舞いますか。
柄谷)振舞いません。ただ、文壇の作家や評論家と話していると、ほとんど啓蒙したくなる(笑)。一つ一つ“あやまり”を正したくなる。啓蒙が必要なのではないかと、思ってしまうんです。
(……)
柄谷)引用というものがわかっていない、だから僕もある所で困ったことがあった。要するに引用だからよくないと皆が言うのです(笑)。これは、作品のよしあしとは別のことで、僕はそんなにいい作品だと思っていなくても、こういう批判を聞くと、むりにでも支持したくなった。そんなことを言われたら、僕はほとんど教師の立場になるね(笑)。
蓮實)近代文学がフローベールにはじまったというなら、フローベルはまさに引用をはじめた人であるわけでしょう。
柄谷)そうですよ。リアリズムが物語のパロディだと言うことは、リアリズムが引用だということです。しかもそのことを忘れさせるのがリアリズムなんだけれども。
蓮實)僕もあれを読んでいて、この人たちにはやはり嫌がられても自分から進んで出ていって、一時間講義しなければいけないんじゃないかという気がしましたね。少なくとも世界文学に対して、山口昌男程度の関心を示せと僕は言うね。大江健三郎的な関心を示せとは言わないけれども、知ったかぶりをしてほしいと思うんですよ、批評する人たちは少なくとも。(……)その知ったかぶりさえできないのはまあ批評のプロじゃないよ。(『闘争のエチカ』蓮實重彦・柄谷行人対談集 P143-144)
いや、ほんと、構造主義の本家じゃなくていいから、柄谷行人か蓮實重彦の80年前後の本、一時間でもいいから、読めよ、マヌケたち! ようするに構造主義の「マ」が抜けてんだよ、オレもマヌケさではひけをとらないつもりでいたが、最近の「お勉強家」たちのあの頓珍漢ぶりというのは、唖然とするぜ
柄谷)そもそもリアリズムの文学って、どういうものだったんだろうかと思ってしまう。『浮雲』だって、ロマンスのパロディですし、大岡昇平の『野火』にしても、ロマンスのパロディでしょう。武田泰淳にしてもそうですね。
たとえば「滅亡」というのは、こうあるはずだというロマンスがあるわけね。つまり自己完結性の物語がある。ところが、武田泰淳が書いているのは、「滅亡」というものがないということですね。滅亡とか極限状況というのは、ロマンティックなものです。しかし、極限状況というのは、実は極限状況がないということであった、というのがリアリズムです。リアルなものは、そこにあるのではなくて、物語が破れる一瞬にあるだけです。『金閣寺』はいうまでもないけど、『豊饒の海』もそうですね。三巻までロマンスがあって、最後の『天人五衰』で、それがパロディ化されてしまう。三島自身は、自決することで、自分を「物語」化してしまうんですけど。
僕はいやですね。あまりに見えすいていて。《小説》はこういものではないと思うんです。それは構造分析をこえた何かです。しかし、構造分析そのものがないと、それもわからないでしょう。やはり構造主義の欠如が大きいね。やってないんだもの。ひとつにはポスト構造主義が早すぎたんではないか。P164
連中への「嘲弄」とはかかわりはないが、つまり初老のかたくなりつつある頭の柔軟体操とは関係しないが、――《抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。》(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)――、柄谷行人が《リアルなものは、そこにあるのではなくて、物語が破れる一瞬にあるだけです》と語っているのは、あたかもラカン派の如く、であるな。
現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être, Paris: Presses Universitaires de France 1999. 25 Ibid., p. 138. 26 Balmès also notes this asymmetrical circularity in the relationship between the Real, reality, and symbolization: reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility (see, for example, ibid., p. 177).ーーzizek『LESS THAN NOTHING』
………
しかし、日本語のはなし言葉から離れていると、なかなか嘲笑の文句がでてこないんだよな、しかるべき文化圏に属するものであれば、誰もが暗記していつでも口にする用意が整った罵詈罵倒の文句が。
しかるべき文化圏に属するものであれば、誰もが暗記していつでも口にする用意が整っていた台詞であり、その意味で、それをあえて言説化してみることはほとんど何も言わずにおくことに等しい。(蓮實重彦『物語批判序説』
小林秀雄の文をいくらか思い出して、暗記しなおそう。
【浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解】
林房雄の放言という言葉がある。彼の頭脳の粗雑さの刻印の様に思われている。これは非常に浅薄な彼に関する誤解であるが、浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(「林房雄」)
【発見は少しもないが、理屈は巧妙に付いている様な事を言う所謂頭のいい人】
「俺の放言放言と言うが、みんな俺の言った通りになるじゃないか」と彼は言う。言った通りになった時には、彼が以前放言した事なぞ世人は忘れている。「馬鹿馬鹿しい、俺は黙る」と彼は言う。黙る事は難しい、発見が彼を前の方に押すから。又、そんな時には狙いでも付けた様に、発見は少しもないが、理屈は巧妙に付いている様な事を言う所謂頭のいい人が現れる。林は益々頭の粗雑な男の様子をする始末になる。(「林房雄」)
【保守派は、現実の習慣のうちに安んじて眠っている。進歩派は、理論のうちに夢みている。】
……保守派も進歩派も、実人生の見えないロマンチストに過ぎぬと、はっきり考えた人なのだ。保守派は、現実の習慣のうちに安んじて眠っている。進歩派は、理論のうちに夢みている。眠っているものと、夢みているものとは、幾らでもいるが、覚めている人は少い。人生は動いて止まぬ。その微妙な動きに即して感じ考え行う人は、まことに稀れである。(「菊池寛文学全集」解説)