《浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。》(小林秀雄「林房雄」)
「呪いの時代」などという指摘があり、内田樹氏の著書を読んでいるわけではないので、詳しいことは分からないが、インタヴュー記事を読むかぎりでは、「敬意」の復活などと主張しているが、敬意よりもいつわりのへりくだりによる猫なで声の頷き合いを蹴散らかすのが先決だ、「愚かさの進歩」の歩調を速めないためには。ただし知的につぶやけよ
知性は情動に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうとーーーこの知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども知性の声は、聞き入られるまではつぶやきをやめないのであり、しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由のひとつである。(フロイト『幻想の未来』)
………
抑圧された者、蹂躙された者、圧服された者が、無力の執念深い奸計から、「われわれは悪人とは別なものに、すなわち善人になろうではないか。そしてその善人とは、暴圧を加えない者、何人をも傷つけない者、攻撃しないもの、返報しない者、復讐を神に委ねる者、われわれのように隠遁している者、あらゆる邪悪を避け、およそ人生に求むるところ少ない者の謂いであって、われわれと同じく、辛抱強い者、謙遜な者、公正な者のことだ」──と言って自ら宥めるとき、この言葉が冷静に、かつ先入見に囚われることなしに聴かれたとしても、それは本当は、「われわれ弱者は何といっても弱いのだ。われわれは"われわれの力に余る"ことは何一つしないから善人なのだ」というより以上の意味はもっていない。(ニーチェ『道徳の系譜』第一論文)
……最近ネットなどを見ていると、妙に気を使い合ったりして、あまり人の名前を出して批判したりはしない。他方、批判が一回出てしまうと、それが非難の応酬に繋がってあっという間に絶縁、といった、狭い所でお友達どうし傷つけ合わないようにという感じになっている。
しかし、コミュニケ-ションは常にディスコミュニケーションを含むし、議論は常に相互批判を含むから、それができにくくなっているとしたら忌々しき事態。人格・個人に対する批判ではないという前提で、相互に攻撃すればいい。ある程度けんかしなければお互い成長はしない。けんかするとお互い傷つくが、傷だらけでなんとかやっていくのが社会。別に仲良くやっていく必要はない。けんかし、けんかした上で共存していくというのが重要だ、ということは知っておくべき。(浅田彰氏講演録「知とは何か・学ぶとは何か」)
《すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて何もできなくなるという、最近よくあるポリティカル・コレクトな態度(……)そのように脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるし、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思う》(『NAM生成』所収 シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」における浅田彰発言)
他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。(ジジェク「ラカンはこう読め!」p173)
――情熱は定義からしてその対象を傷つけるのだ。生ぬるい偽の楽しさなど吹っ飛ばせ! もっとやれ! ディスコミュニケーションを。販促活動上、そんなことはできないなどと間違ってもいうな! (いや営業活動が大切なのはわかってるがね)
…しかし、こんなまわりくどい言い方をするには及ばない。こうしたものたちをひとことで定義するごく簡明な言葉があるからだ。それは「抒情」とか「才能」とか「革命」とかと同様に、今日では、疾走したり逃走したりの速度を誇っているカルイ連中からとことん馬鹿にされている反時代的な言葉なのだが、要するに、生ぬるい偽の楽しさをおのずから崩壊させてしまう事件の体験を指して、人はふつう情熱と呼ぶのである。サルトルのジャン・ジュネ論の全体がそれをめぐって旋回し、またゴダールがその悲劇的作品のタイトルに貸し与えた「パッション」の一語こそ、「軽さ」の時代の真の敵と言うべきである。(松浦寿輝「情熱について」)
私たちがますますもって必要としているのは、私たち自身に対するある種の暴力なのだということです。イデオロギー的で二重に拘束された窮状から脱出するためには、ある種の暴力的爆発が必要でしょう。これは破壊的なことです。たとえそれが身体的な暴力ではないとしても、それは過度の象徴的な暴力であり、私たちはそれを受け入れなければなりません。そしてこのレヴェルにおいて、現存の社会を本当に変えるためには、このリベラルな寛容という観点からでは達成できないのではないかと思っています。おそらくそれはより強烈な経験として爆発してしまうでしょう。そして私は、これこそ、つまり真の変革は苦痛に充ちたものなのだという自覚こそ、今日必要とされているのではないかと考えています。(『ジジェク自身によるジジェク』)
ただし、挑発に素直に乗るなよ、戦略が必要なんだから(それにオレの挑発に乗ったって致し方ない、世間の通念、スノッブの通念を叩かないとな)。
まず軽いジャブ程度に、未来嘱望されるショパン、リスト弾きとして以下の文に強いディスりを寄せろ! 時代錯誤の記事かもしれないが、オレの世代前後は、すくなからず、まだこの偏見に囚われている「マヌケ」がいるぜ(まあ、これは古い世代のへそ曲りのオレの挑発だから乗りたくなかったら、乗らないでもいいぜ)
サロンはもともとスノッブなしでは成立しない(……)。ショパンがサロンの人間だったということは、彼が芸術を自分の本心を打ちあける手段と考えることから、遠く離れていたという意味である。彼は、人間の間にまじっている限り、言いたいことの大部分は言わずに生きていた。彼は「友人としての人間」を信じず、また信じないでもすませられるようなエチケットの確立したソサイエティにまじって、非の打ちどことのない挙止の中に身と心を包んで、生きていた。(……)
ショパンは、きき手を、より敏感にする。ショパンの音楽は、元来がそれほど音楽的な人でもなく、また音楽がなければ生きられないといった習慣のない人をも、その音楽をきいている限り、音楽の魅力に敏感なきき手にかえる力をもっている。
……いずれにしろ、私たち日本人には、全体の一見単調な反復の中に、細部の微妙な変化、洗練、巧緻といったものを、かぎつけ、見出し、それを享受する能力が発達しているというのが、私の考えである。(吉田秀和『私の好きな曲』)
――まあ、それだから、江戸伝統以来の「精神性」のない文化伝統のある日本人にはお似合いだ、という意味合いの言葉が続くわけであって、ショパン好きな人には、噴飯物の文であろう。
吉田秀和は「マズルカ」と「練習曲」のいくつかだけを称揚するのだが、少し前、ツイッター上で「ショパン」好きな人が、ワルツ、ポロネーズ……、と挙げていき、「マズルカ」だけは挙げていなかったので、ついこの吉田秀和の文を思い出したのだ……。
《黒鍵》とか《告別》とか《木枯し》とか《革命》などとあだ名されるものは、妥協の産物であって、
誰に妥協したのか? 大衆の好みへのそれであり、出版社、あるいはピアニストの好みへのそれである。
と書く。氏はかなり嫌味になっている。ここでは、ショパンを嫌う態度そのものがスノッブだ、とプルーストがすでに大昔に書いていることを脇に置いて、さらに引用を続ける。
ちょうど、ラヴェルとドビュッシーというと、ラヴェルの同じように(ショパンと)人工の極ともいうべき完璧な書法に感嘆しながらも、破綻があり、より独断的でさえあるかも知れないドビュッシーに、本当の天才を感じ、特に、ドビュッシーのより自由で豊かな精神の動きを愛さずにいれらなかったように、ショパンを、ベートーヴェンより深刻なものとうけとったり、シューマンよりすぐれた芸術家とみることは、私にはどうしてもできない。(……)ショパンは精神の問題を避けて、芸術をつくりすぎた。
もっともリストに比べればまだましだ、ともいう。
ショパンは、生活の次元での他人への思いやりという点では、どうやら、あまり寛大な人ではなかったらしいが、それは彼の心情の偏狭さ、冷酷さ、あるいは自己中心主義よりもむしろ虚弱な健康が許さなかったのと、彼の心情の貴族性というか精神的集中度の非常な高さが、人々のありふれた考え方に応じて周囲をみることを許さなかったという事情によるのかも知れない。(……)その点で、ショパンは、たとえばリストと極端にちがっていた。リストは、あまりにも他人の好むところがわかりすぎ、それを無視して、自分を忠実に守る力が弱すぎた。それにまた、あまりにも「成功の味」を知りすぎていたので、それに酔いすぎ、それから離れることがむずかしすぎた。
ひどい貶しようである。
今でもショパンやリスト好きというのは、格好悪い、彼らを貶すのがインテリの証だと思っているスノッブがいるだろう。私もその類の偏見をもっていた(いる?)ことを認めないわけにはいかない。
反論は最晩年のリストの曲だけ挙げて、誤魔化すなよ、その話はきき飽きたぜ
それと、まあ、かりにこうであっても、
批評は、何一つ新しい使命をもたらさない作家を、彼に先立った流派にたいする彼の横柄な口調、誇示的な軽蔑のゆえに、予言者として、祀りあげる。批評のこのような錯誤は、常習となっているから、作家が大衆によって判断されること(大衆にとって未知である探求の領野に芸術家がくわだてた事柄を、大衆が理解することも不可能でないとしての話だが)をむしろ好む傾向ともなるのであろう。というのも、大衆の本能的生活と大作家の才能とのあいだには、本職の批評家と皮相な駄弁や変わりやすい基準とのあいだより以上に、多くの相通じるものがあるからで、大作家の才能は、他のいっさいのものに命じられた沈黙のただなかで敬虔にききとられた本能、よく把握され、十分に仕上げられた本能にほかならないのである。(プルースト「見出されたとき」)
戦略家として振舞うには(別に振舞いたくなかったらいいのだけれど)、有閑知識人に対応しないとな、なんだかんだいって、影響力があるのは彼らのほうだからな。浅田彰あたりに、好意的な評価をもらったら一発だぜ、オレが古いのかもしれないが、どうもオレの感覚では、あの類の「知識人」が、ショパン、リストの演奏会にコメントするなどとは、よっぽど輝かしい演奏でないと、ありえないと思うんだよな
私は知っていた、――あまりにも長期にわたってかがやかしい名声を博していたものを闇に投じたり、決定的に世に埋もれるように運命づけられたかと思われたものをその闇からひきだしたりする批評の遊戯なるものは、諸世紀の長い連続のなかで、単にある作品と他の作品とのあいだにのみおこなわれるものではなく、おなじ一つの作品においてさえもおこなわれるものであることを。(……)天才たちがあきられたというのも、単に有閑知識人たちがそれらの天才たちにあきてしまったからにすぎないのであって、有閑知識人というものは、神経衰弱症患者がつねにあきやすく気がかわりやすいのに似ているのである。(プルースト「ゲルトマントのほう 二 」)
それともショパンやリストにあきたふりをする時代は終わったのかい、それだったらいいけど。
(オレは観たことないのだけれど、スコラ 坂本龍一 音楽の学校(浅田彰、岡田暁生、小沼純一など)とかで紹介される作曲家や曲が、いまの標準的スノッブ向け音楽じゃないのかね。彼らはショパンやリストにあまり触れそうもない面々だよな、よく知らないけど。まあ、別の観客層ってのもあるのだろうけど、ピアノ学習者層とか教師とか、その友人家族こみで…それとスノッブじゃない層だね、このあたりは浮世離れの身でピントはずれじゃないかと怖れつつ書いてんだけどね)。
(オレは観たことないのだけれど、スコラ 坂本龍一 音楽の学校(浅田彰、岡田暁生、小沼純一など)とかで紹介される作曲家や曲が、いまの標準的スノッブ向け音楽じゃないのかね。彼らはショパンやリストにあまり触れそうもない面々だよな、よく知らないけど。まあ、別の観客層ってのもあるのだろうけど、ピアノ学習者層とか教師とか、その友人家族こみで…それとスノッブじゃない層だね、このあたりは浮世離れの身でピントはずれじゃないかと怖れつつ書いてんだけどね)。
いずれにせよ、まあ、誰からでもいいけど、本だっていまは書評をもらわないとまずいのだから、演奏評をもらう戦略が必要じゃないかい? 以前に関西在住の谷川俊太郎の仕事をしている詩人からの評があったけれども、まずは、ああいった類の批評がもっとあってほしね、オレだったら。(あるいは、伊などでの批評があるなら、それを翻訳して振り撒くとかね)
かつては、できるそばから読みきかせてくれるのを待っている小さな親密なサークルが作家の周囲にあった。一般に現代では読者の顔がみえにくい。現代の本は書評を待って一人前――成年に達するといえようか。逆にいえば、書評されない本は永遠に未成年である。(中井久夫)
ーーしかし時代が変ったね、オレが二十前後の時代だったら伊在住の男前のピアニストだったら、黙っていても、つまり戦略なしでも、売れ過ぎて困るはずだったのだろうけど、今は戦略などを考えなくてはいけないなんて、な。
まあ、ここまでは半ば冗談で、オレのこの文に反応しても致し方ないのであり、狙うのはすでに音楽通としてポジションを獲得しているスノッブだね、戦略家としては、彼らの批評を流通させることじゃないかね
ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
もちろん、以上は、本来は次のようにあるべきだ、という前提で書いてるのだけれどね。
シネフィルに代表されるような限定された興味と趣味の共同体の内部で、最新流行の「センスのいい映画の見方」(蓮實重彦経由の古い映画の見方も含めて)を、あるいは「天皇の語り方」を追いかけていこうとするスノビスムが、作品に負のバイアスをかけているということ、むしろ、作家はそういうスノッブであることをやめ、孤独な「蛮人」になるべきだということである。金井美恵子がこう言った、浅田彰がそれにこう反応した、などという根も葉もない下らぬ噂話にうつつをぬかすのは、閉ざされたスノッブ村の「土人」でしかない。(浅田彰)
で、いま孤独な「蛮人」になり切れる人なんて、なかなかいないよな、どこの領域でも。
「あの子がいては言いにくかったものだからね、あれはたいへん素直で一所懸命やってくれる。だが残忍性が足りないと思うんだ。顔は気に入った、だが教えられたことを復習するような調子で、ぼくを極道と呼ぶんだよ。」(シャルリュス)