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2013年7月13日土曜日

時代区分と錯覚

たとえば、われわれは明治文学とか大正文学とかいった言い方をする。すると、あるまとまったイメージが浮かび上がる。江戸時代についても同様で、元禄とか文化文政とかいえばわかったような気がしてしまう。だが、こうした了解はわれわれを奇妙な錯覚に閉じこめるのである。(……)

私は、一九七五年にイエール大学で明治文学について教えていたとき、そのことに気づいた。たとえば、日本で「近代文学」が成立してくるのは、明治二十年代から三十年代にかけてであるが、私はそれまでこの時期が西洋で「世紀末」と呼ばれる時期であることを考えてみもしなかった。あるいは、大正時代が、第一次大戦(大正三年)やロシア革命(大正六年)と同時代であることを考えなかった。よく知っていたにもかかわらず、想到しなかったのである。それは明治・大正・昭和といった元号による区分が、いかに外部との関係を忘却させ、一つの自立的な言説空間を組織してしまうかということを示す例である。(柄谷行人「一九七〇年=昭和四十五年」『終焉をめぐって』所収)

こういったことはいくらでもある。これは時代の区分による錯覚とはすこし異なる話かもしれないが、わたくしは、プルーストと夏目漱石が同時代人であることをまったく想到していなかった、どちらもそれなりによく読み返す作家であるにもかかわらず。ようやく最近になって気づいたのであり、つまり内部あるいは外部との関係をすっかり忘却していたということになる。

プルースト1871710 - 19221118
夏目漱石 186729日(慶応315日) - 1916年(大正5年)129日)


ーーヴァレリーはプルーストと同年生まれだが(1871年10月30日 - 1945年7月20日)、これも活躍時期が異なっているためか、長い間、ヴァレリーのほうがわれわれの時代に近い人だと思っていたなどということがある(「テスト氏」や「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法」が、一九世紀末に書かれたことを知っていなかったわけではないのだが)。いわば、プルーストは明治・大正時代人であり、ヴァレリーは大正・昭和の人と思い込んでいたということになる。

ヴァレリーは一八九二年に詩作を廃し、一九一二年に四十一歳にして友人の促しによって詩に回帰している。実際には『若きパルク La Jeune Parque』1917上梓以降、あるいは『精神の危機』などで、デカルト的伝統の最後の後継者としてフランスの知性の代表とされるようになったわけだ。

ヴァレリーは日清戦争、日露戦争への関心もあったことが知られており、つまりは、かくの如し。《二〇代に書いたエッセー「方法的制覇」で、ほぽ半世紀後の日独伊枢軸同盟を、第一次世界大戦後に出した「精神の危機」で、西欧の没落とともに、今日のグローバリゼーシヨンとアジアの勃輿を予告したヴァレリーは、マルクシズムの歴史観から自由なだけ、現代世界の歴史や政治に対しても柔軟で、含蓄に富んだ考察をのこしている。》(恒川邦夫「国際シンポジウム 東と西の対話 : ポール・ヴァレリーの眼差しの下に1996)

ここにある「方法的制覇」1897の前にも「鴨緑江Le Yalou」1895~?があるのだが、実際に読まれだしたのは、1938年の全集版以降らしい(それ以前には、1928年にファクシミレ版で30部の私的刊行などーー「ポール・ヴァレリー『鴨緑江』ーーあらたな読解の試み 田上竜也」による)

ほんとうは、やはり明治時代人なのだ、《ヴァレリーの認識は非常に早い。ふつうは日露戦争のあとなのに、日清戦争のときから言っているんですから》(浅田彰発言・柄谷行人との対話「「歴史の終わり」と世紀末の世界」所収)--なにを? ヨーロッパの没落を。


さて、漱石とプルーストに戻ってふたりの文を抜き出して比べてみよう。

詩人とは自分の屍骸を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。その方便は色々あるが一番手近なのは何でも蚊でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、厠に上のぼった時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は安直に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の悟りであるから軽便だと云って侮蔑する必要はない。軽便であればあるほど功徳になるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否いなやうれしくなる。涙を十七字に纏まとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉さだけの自分になる。

これが平生から余の主張である。(夏目漱石『草枕』1906)


《涙を十七字に纏まとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉さだけの自分になる》とされるこの漱石の『草枕』の断片をプルーストの『失われた時をもとめて』(1913-1927)とともに読んでみる。

プルーストは、《われわれの悲しみが協力した作品は、われわれの未来にとって、苦しみの不吉な表徴〔シーニュ〕であるとともに、なぐさめの幸福な表徴である、と解釈もできる》とする。

悲しみが協力した作品が未来の苦しみの不吉な表徴だと解する第一の見方からすると、作品はもっぱら一つの不幸な愛と考えられ、その愛はさらにほかの不幸な愛を宿命的にまえぶれし、その結果、生活は作品に似ることになり、詩人にはもう書く必要がほとんどなくなるほど、彼はすでに書いたもののなかにこれから起ることの先どりされた形を見出すだろう。そのようにして、アルベルチーヌへの私の愛は、それがどのような相違を見せようとも、ジルベルトへの私の愛のなかにすでに書きこまれていたのであ(る)。(「見出された時」井上究一郎訳 文庫 P381
しかし、第二の見方からすれば、作品は幸福の表徴なのだ、なぜなら、作品は、どんな恋愛のなかにも普遍は特殊と並存することをわれわれに教えるとともに、また作品は、悲しみの本質を深めるために悲しみの原因である相手を閑却させながら、悲しみにたいする一種の強化訓練によって、特殊から普遍に移ることをわれわれに教えるからである。そういえば、のちになって私が経験しなくてはならなかったように、人は、愛して苦しんでいるときでも、天職がいよいよ自覚されたとなると、仕事の時間中、愛する女がより広大な現実のなかに溶けこむのを非常にはっきりと感じて、ときどき彼女を忘れてしまい、仕事をしながら、自分の恋のことをあまり苦しまなくなる、……同上 P382

ここでの、《愛する女がより広大な現実のなかに溶けこむのを非常にはっきりと感じて、ときどき彼女を忘れてしまい、仕事をしながら、自分の恋のことをあまり苦しまなくなる》と書かれるとき、漱石の《まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否いなやうれしくなる》とほとんど同じことが語られているといってよいのではないか。

……われわれはその苦しみを普遍的な形のもとに考えなくてはならないのであって、そう考えることは、苦しみの束縛からある程度われわれをのがれさせ、すべての人をわれわれの苦痛の共有者にするのであって、そのことはいわば一種のよろこびにならないわけではないのである。(プルースト「見出された時」P383

ドゥルーズならこの箇所を引用してこう書く。

われわれが反復するのは、そのたびごとに、ひとつの個別的な苦しみである。しかし、反復それ自体は常に楽しいものであり、反復という事実は、ひとつの一般的な歓びを形成する。あるいは、事実は常に悲しく、個別的であるが、そこから抽出される観念は一般的で楽しいものである。なぜならば、愛の反復は、苦しみを歓びに変えるような意識の把握にわれわれが近づく、進行の法則と不可分だからである。われわれは、苦しみが対象に依存しなかったことを認める。それはわれわれが自分自身に向ってする《芸》であり、《道化》でありあるいはむしろ、イデアの罠と媚態と、本質の陽気さであった。反復するひとには悲劇的なものがあるが、反復の行為には喜劇的なものがあり、もっと深いところでは、法則に含まれた反復、あるいは法則の理解からえられる歓びが存在する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』宇波彰訳 P91


もちろんこういったことは同時代の作家でなくても、優れた作家のあいだには、いくらでもあることだ。

たとえばエリオットの「伝統」概念とは、インターテクスチュアリティとほぼ等しい。(参照:創作家と批評家ーー夏目漱石『作物の批評』より

それは、一つのテクストは、過去のテクスト総体のなかで書かれ、かつそれは過去のテクストの意味を変える、という考え方であり、プルーストによって漱石のテクストの意味が変るということもあり得るし、その逆もしかり。

漱石の、《まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない》という文は、フロイトのユーモア概念とのインターテクスチュアリティをみることもできるだろう。

誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。(フロイト「ユーモア」 フロイト著作集3 P408

《重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。》という文は、漱石晩年のエッセー『硝子戸の中』の、《私自身は今その不快の上に跨がって、一般の人類をひろく見渡しながら微笑しているのである。今までつまらない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、あたかもそれが他人であったかの感を抱きつつ、やはり微笑しているのである。》との文との驚くべき類似を見せている。

私は今まで他の事と私の事をごちゃごちゃに書いた。他の事を書くときには、なるべく相手の迷惑にならないようにとの掛念があった。私の身の上を語る時分には、かえって比較的自由な空気の中に呼吸する事ができた。それでも私はまだ私に対して全く色気を取り除き得る程度に達していなかった。嘘を吐いて世間を欺くほどの衒気がないにしても、もっと卑しい所、もっと悪い所、もっと面目を失するような自分の欠点を、つい発表しずにしまった。私の罪は、――もしそれを罪と云い得るならば、――すこぶる明るいところからばかり写されていただろう。そこに或人は一種の不快を感ずるかも知れない。しかし私自身は今その不快の上に跨がって、一般の人類をひろく見渡しながら微笑しているのである。今までつまらない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、あたかもそれが他人であったかの感を抱きつつ、やはり微笑しているのである。(夏目漱石『硝子戸の中』)

『草枕』は1906年、『硝子戸の中』は、1915年に上梓されており、そのときプルーストの『失われた時を求めて』Le Temps retrouvé(1913-1927)は発表半ば、フロイトの『ユーモア』(1928)は、いまだ書かれていないが、漱石はまるで二人を読んだようにして書いているといっておこう。

さて柄谷行人に戻る。

元号で時代を区切ることは錯覚は(ママ)与えると私はいった。しかし、どんな区切りも錯覚を与える可能性があることに注意しなければならない。たとえば、ひとは戦前と戦後という区切りを平然と使っている。たしかに、第二次世界大戦は一つの区切りであり、その後の米ソ二元的体制の終焉を現在化した一九八九年の出来事も区切りである。しかし、こうした区切りだけがすべてではないし、第一義的なものでもない。敗戦によって日本は変ったが、ほとんど変っていない領域もあるし、また目立った変化といっても、事実上戦前・戦中にすでに起こっていたものが多い。それなら、こうした区切りを否定すべきでだろうか。

しかし、区切りとは歴史にとって不可欠である。区切ること、つまり、始まりと終りを見いだすことは、ある事柄の意味を理解することである。歴史学は、ほとんど“区切り”をめぐって争っているといってよい。というのは、区切りがそれ自体事柄の意味を変えるからだ。たとえば、「中世」という概念がある。それをいいだしたのは、一八世紀ドイツの凡庸な歴史家だが、以後歴史家は、“どこまでが中世か”という区切りの問題をめぐって争ってきた。あるものは、一八世紀、たとえばニュートンさえも“中世人”であるといい、他の者は、ヨーロッパ十二世紀に“近代”が始まっているといっている。だが、彼らは「中世」という区切り自体までは放棄しないのである。

今日では、エピステーメー(フーコー)とかパラダイム(クーン)という区切りが語られている。他方、柳田國男が、『明治大正史』でやったように、明瞭な区切りのない領域で歴史を見ようとする学派(アナール学派)もある。しかし、事情は別に変っていない。「パラダイム」によっていわれているのは、体系的・教科書的な知として語られる科学に、非連続的な区切りをもたらすことであり、「エピステーメー」によっていわれているのは、超越的主体や理念による区切りに対して、出来事としての言説が織りなす非連続的な移行としての区切りを立て直すことである。アナール学派の場合は、目立って見える政治的な歴史的区分に対して、微分的領域における変容や交錯を見るのだが、これも結局はもうひとつの区切りを提示するのであり、それによって従来の区分=意味づけを変更するのである。(柄谷行人「一九七〇年=昭和四十五年」)

最近、新しい視点で中国、日本の歴史の見直しを熱心に提示している威勢のいい若い中国史の研究者がいる。たしかに思い掛けない指摘を含んでおり、当初は惹きつけられもした。だが、それは必ずしも「真理」ではないだろう。それは、中国の世界におけるポジションが高まったことによる”環境”に促されての観点であり、《したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておく》必要があり、それの気配が微塵もないのなら、腐りやすい果実のひとつに過ぎない。


ところでクラシック音楽の世界でも、バロック、古典派、ロマン派、ドビュッシー以前以後、シェーンベルク以前以後などの区切りがあるだろう。

マーラーは、まだ率直に、そして直接にホモ・センチメンタリスに訴えかける最後の大作曲家である。マーラー以後、音楽において感情はうさんくさいものになる。ドビッシーはわれわれを魅惑しようとはするが、心を揺りうごかそうとはしないし、ストラヴィンスキーは感情を恥じている。(クンデラ『不滅』P311-312

あるいはシェーンベルクやウェーベルンは、新ウィーン楽派という名のとおり、どうしてブラームスやマーラーからの切断を読むことができるだろう、という見方だってある。ドビュッシーだってしかり。アナール派のように呟くこともあるプルーストならこう書く。

そのドビュッシーは、彼女自身が数年経ってからもそう考えていたほどそんなにワグナーからとびはなれていたわけではなかった、それというのも、われわれが一時的に征服されていた相手から自由になって、これを完全に凌駕するには、やはり相手が征服に使った武器をふたたびとってやるよりほかないからなのである、しかしそれにしてもドビュッシーは、表現の十全な、あまりにも完成された作品にたいして、人々が飽きはじめていた時期のあとで、それまでとは反対のある欲求を満足させようとつとめていたのであったが、カンブルメール若夫人はそういう事情を認識していなかったのだ。(プルースト「ソドムとゴモラ Ⅰ」井上究一郎訳 p367)

もう一度、柄谷行人に戻るならば、

レヴィ=ストロースは、「歴史はいくつもの歴史領域で形成された一つの不連続集合である」といっている(『野性の思考』)。いいかえれば、「歴史とは一つの方法であって、それに対応して判然たる一つの対象物があるのではない」。大切なのは、それゆえ、自分がどのレベル・領域で語っているのかを自覚していることだ。さらに、どんな区切りもそれ自体始まりと終り(目的)を見いだすことである以上、それがなんらかの目的論的配置を避けられないことを自覚しておくことだ。(柄谷行人「一九七〇年=昭和四十五年」1988 初出)


同じような語り口で書かれる上の文からは五年前の文章を付け加えよう。

人間が作ったものと自然が作ったものの差異はなにかという問いは、それ自体歴史的である。実際この問いが生じるのは、またテクネーの意味が問われるのは、 きまってテクノロジーが飛躍的に発展するときである。(……)サンボリストたちの問題意識は、19世紀のテクノロジーに密接に関係するのである。今日において、構造主義は、いうまでもなく、コンピューター・サイエンスの所産である。逆に、現代のテクノロジーに無関係にみえるような哲学者の言説においても、 本質的にこの関係が存する。たとえば、ジャック・デリダがアルシエクリチェールについて語るとき、分子生物学が遺伝子をエクリチュールとしてみているとい う事実の上である。

このことは何を意味するのだろうか。第一に、われわれはもはや伝統的な用語によって語るべきではなく、すくなくとも現代のテクノロジーの達成を前提としておかねばならない。さもなければ、それはわれわれを伝統的な思考の圏内に閉じこめてしまうだろう。だが、同時に、われわれは歴史的な過去に遡行しなければならない。それは、現代のテクノロジーが与えている「問題」が、そのなかで解かれるべきものであるどころか、一つの反復的な症候にすぎないことを知っておくべきだからだ。さらに、もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』 講談社版1983)


《われわれはもはや伝統的な用語によって語るべきではなく、すくなくとも現代のテクノロジーの達成を前提としておかねばならない》をめぐれば、たとえば1950年代に彗星のようにあらわれてその後の演奏スタイルの革新をもたらしたグレン・グールド。

ピアノ演奏のそれまでの「共同体の規則〔カノン〕」を覆す天才的解釈(=演奏〔インタープリテーション〕)の代表者のひとりとしていまでも大きな影響力をもっているといってよいだろう(そもそも1932年9月生まれのグールドは、生きていたら、まだ80歳なのであり、われわれの同時代人だ)。

だがそのグールドさえ、現代のテクノロジーの達成の成果から、あのスタイルが生まれたのだし、そこから一生逃れなかった、つまり「自己模倣」に終ったとする高橋悠治がいる。

再録音した『ゴルトベルク変奏曲』のアリアの遅さ ほとんど停止して次の音が予測できないほどの それでもあたりに漂う沈黙を押しのけて気力だけで 次の音に辿り着くように見える 自転車が倒れないようにできるだけ遅く漕ぐことに必要な技術と似たものがはたらいている ここでは あらかじめ決められた構成や 全体の予想からはずれて 一瞬ごとに生まれては消える音と沈黙のバランスが揺れている

それでも第1変奏に入ると それは錯覚にすぎなかった 全曲のテンポ配分が比率で決められていて それに従うなかで あの異常な遅さと感じられるテンポが現れただけ 1956年の最初の録音の「30のばらばらな小曲」を自己批判して 計算されたテンポ変換で全体を統一しようという意志の厳密な実行結果にすぎなかった グールドはそれを算術的対応と呼ぶが それは1950年代にエリオット・カーターの発明したテンポ変換法とおなじもの

グールドはやはり1950年代に自己形成し そこから一生逃れられなかったのだろう スタッカートで分離された均質な音と 極端に速いか極端に遅いテンポの対照 数学的と言うよりは数字的な精密な細部決定の徹底 それらは同時代アメリカの音列技法による音楽 ディジタルなコンピュータ・アートに向かう制御の思想とおなじ根から生まれた それでも音符を書いたり 電子音響を合成することは 時間をかければできる 演奏現場から遠ざかり 録音に特定した作業と言っても 楽器の演奏は身体なしではできないし 身体の制御は機械とおなじではないから このような原則を身体に強いれば そこから複雑な心身問題が起こるだろう

グールドの全身は呪縛されたように 肘からさきの手とそれを見つめる近視の眼に集中し 上半身は音楽の歩みに誘われて おそらく意識することもなく時計回りにゆるやかに回転している 演奏している音楽だけが世界であり その他のものから切り離されて そのなかにどこまでも没入することはできるけれど それはしょせん そうしている間だけそこに浮かんでいる時間の泡にすぎない その幻覚を演奏中全力で維持していくことと それ以外の毎日の輝きのない時間をすごさなければならない現実との落差は 身体にとって 鈍く重く 耐えられないほどゆっくり締め付けてくる打撃であるだろう

音楽のように特化したものをたよりに 統一原理をもとめることは 現実の分断とそれによる身体の破壊を招きかねない 一つの身体の上で心臓と脳が争っている どちらか弱いほうが破れるまで  --「グレン・グールドふたたび  高橋悠治

「身体にとって 鈍く重く 耐えられないほどゆっくり締め付けてくる打撃」、---晩年のグールド、その表情は昔の美青年の面影はまったく消えうせてしまい、驚くほど虚ろだ。肉体は奇妙なまでに鈍くなり、重荷をかかえているかのようだ。わずかに官能の瞬間があり心のなかで微笑むと、その鈍重な身体の裂け目からあの美青年が垣間見える稀な瞬間がないではないが……

《…新聞で死因が脳内出血であることを知った。とうとう冷たくなることに成功したのだなと思った。》(シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』)


※高橋悠治も、新しい刺激的なことを言い続けているようにみえるが、自らのサイトにある「音楽の言の葉リミックス」を覗いてみると、過去の音楽家の言葉をリミックスしている内容が多い。ただし、彼の「言葉の肉体」ーー音調、抑揚、音の質、さらには音と音との相互作用たとえば語呂合わせ、押韻、音のひびきあいなどという言語の肉体的部分ーーを通して語っているところが魅惑的なのだ。

「聴衆にとって名演奏家が発揮する幻惑とは、サーカスの妙技に群衆を惹きつける魅力と似たところがある。」(ドビュッシー)

「幸いなことに、驚くべきテクニックの見世物だけでピアニストの名声が作れる時代は過ぎ去っている。これは多くの機械による音楽装置のおかげかもしれない。公衆は機械でやれるものを拒んでより以上に精妙な美しいもの、より以上芸術家の魂に近いものを渇望している。しかしこのことはテクニックの必要が減じたのではなくて、むしろ今日ほどに正しいテクニックが要求されている時代はかつてないのである。」(ヴィルヘルム・バックハウス:ピアニスト、原田光子訳)

若い音楽家たちとなら
いっしょに音楽することができると思ったのも
幻想に過ぎなかった
若いのは外見だけでほとんどは
いまなおヨーロッパの規範に追随して技術をみがき
洗練されたうつろな響を
特殊奏法やめずらしい音色や道化芝居でかざりたてて
利益と地位だけが目当てのものたちばかりだった(高橋悠治