Socio-cultural stereotypes of womanliness and virility are in the process of radical transformation. Men are being invited to open up to their emotions, to love and feminise themselves; women on the contrary are undergoing a certain ‘push to masculinisation’: in the name of legal equality they’re being driven to keep saying ‘me too.’(Jacques-Alain Miller: On Love)
ミレールのいうように、女性性と男性性のステレオタイプは大変貌のさなかであろう。
ところで、女性の男性の領域への侵略は成功しつつあるのにーーもちろん、日本ではいまだ女性管理職の寡少やら育児環境の不備などがあるのだろうーー、それに比べて男性の女性の領域への侵略は未だうまくいっていないとするエリザベート バダンテール、--日本では『母性という神話』の翻訳があるーー、彼女の文を引用してジジェクは次のように書いている。
Badinter is at a certain level right to point out that the true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")
「男とはなにか」「夫とはなにか」「父とはなにか」――それら「男性の自己同一性が以前に比べて揺らいできている」のにたいして、反対に、「女とはなにか」「妻とはなにか」「母とはなにか」と問うてみれば、女性のアイデンティティ、その揺らぎようは格段にすくないといってよい。
現代社会では、「男性が外で働き、女性が家事・育児をする」から、「両方が働き、家事・育児を分担する」ことはある程度常識化しているには相違ない。もっとも共稼ぎの場合、女性のほうに家事・育児の負荷が多大にかかってしまっている現実はある。
専業主婦である女性が消え去ることはまだ当分のあいだはないだろう(参照:タガメ女)。他方、「女性が外で働き、男性が家事・育児をする」、つまり専業主夫というのは、いまだ稀な例であろうし、いささかの滑稽感は消え去らない。わざとらしく、気味がわるい。
専業主婦である女性が消え去ることはまだ当分のあいだはないだろう(参照:タガメ女)。他方、「女性が外で働き、男性が家事・育児をする」、つまり専業主夫というのは、いまだ稀な例であろうし、いささかの滑稽感は消え去らない。わざとらしく、気味がわるい。
母子間には初めから個人と個人とを隔てる深淵が存在するのだろうか。バリントが「調和的渾然体 harmonious mix-up」という時、双方の間に「間」はないはずである。子離れということはある。なければならない。けれども、それは切開手術によってなされるような、つらいものではないだろう。ただ、時期を失するとぎこちなくなるのは多くの事柄と同じである。
男性は母子関係をエデンの園のように思いがちだ、伝説はエデンの園からの追放を性と結びつけがちだけれども、それは後の話で、出生こそ、エデンの園からの追放に相応しい。林檎は性的な何ものよりもまろい乳房に似ていないか。
ところが、父子関係のほうは「間」から始まる。時々外から子宮の戸を叩き、やがてわが子を不確かな手に抱きとるところに始まる。ぎこちない関係である。肩車しようと、抱っこしようと、ぎこちなさは変らない。よくタバコくさいといわれるが、父の匂いは一般に馴染みにくい匂いである。母と違って抱き寄せられる時に抵抗がある。「父子一体」ということばには「母子一体」にはないわざとらしさ、気味わるさがないだろうか。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」『時のしずく』所収)
あるいはまた、女性が「ひきこもり」となっても、家庭内に家事労働というアイデンティティーの場が残されていることがあるだろうが、男性の「ひきこもり」に逃げ場はなく、すぐさまただの「ひきこもり」者のレッテルが待っている(これも例外はあるのだろう)。
ああ、女たちはウラヤマシイ、男たちのなんというミジメサよ、――オレがカタカナで書くときは、何を意味するのか気をつけろ!――、《恐るべき家族の神秘…おびえて、疲れ果てて、のべつ調子外れで、女性化され、虚弱化され、干からびて、女々しく、飼い馴らされ、母性化された男たちの眼差し、ぶよぶよのオッパイ》(ソレルス『女たち』)--、家事専任の男たちへの社会的蔑視を取り除こう(無理だよな)、現代社会の男たちの新しいアイデンティティこそ、フェミニストたちが思慮すべきものだ(連中がそんなことにかまけるわけがあるかい)…というわけで、ミレールでも引用してゴカマシておくぜ
フロイトの理論によると、両性の準拠となるシニフィアンは一つだけしかありません。ファルスがそうです。
女性のシニフィアンが無いという考えは女性解放論者達を大変苛立たせました。しかしながら彼女達が、男が現実上このシニフィアンに対応するものを持っているということは男にとって有利なことだ、と考えるのは間違っています。
ラカンの目には-これは確かに現実だと思えますが-それはむしろ困惑のもとなのです。それによって男は女よりもはるかに義務、そして超自我の奴隷としてしばられています。女は常に神秘であった、とフロイトは書いています。そして次のように加えます。「私は、女性は男性と同じ超自我を持っていない、そして彼女達は男よりもこの点ずっと自由で、男の行動、活動に見られるような限界が無い、という印象を持っている。」(ジャック=アラン・ミレール『El Piropo』)
さて、もうもうひとつ、頃合の引用をすれば、次の如し。
素顔が本物で仮面は贋者であるという信念や感覚、自己同一的な内面が本当の私であってそれ以外はすべて外面的で皮相的なものにすぎないとする信念や感覚は、「近代という時代そのものの病い」である。(小泉義之『倫理学』ーー坂部恵−ラカン−ジジェク、を貫通する倫理概念について)
もちろん、これはことさら目新しい主張ではない。小林秀雄は戦争中(昭和十七年)、すでにこう書いている(長いが削るのが忍びない、とくに「仔猫の屍骸」の箇所が)。
当麻寺に詣でた念仏僧が、折からこの寺に法事に訪れた老尼から、昔、中将姫がこの山に籠り、念仏三昧のう ちに、正身(しやうじん)の弥陀の来迎を拝したといふこの寺の縁起を聞く、老尼は物語るうちに、嘗て中将姫 の手引きをした化尼と変じて消え、中将姫の精魂が現れて舞ふ。音楽と踊りと歌との最小限度の形式、音楽は叫 び声の様なものとなり、踊りは日常の起居の様なものとなり、歌は祈りの連続の様なものになつて了つてゐる。 そして、さういふものが、これでいゝのだ、他に何か必要なのか、と僕に絶えず囁いてゐる様であつた。音と形 との単純な執拗な流れに、僕は次第に説得され征服されて行く様に思へた。最初のうちは、念仏僧の一人は、麻雀がうまさうな顔付をしてゐるなどと思つてゐたのだが。
老尼が、くすんだ菫色の被風を着て、杖をつき、橋掛りに現れた。真っ白な御高祖頭巾の合い間から、灰色の眼鼻を少しばかり覗かせているのだが、それが、何かが化けた様な妙な印象を与え、僕は其処から眼を外らす事が出来なかった。僅かに能面の眼鼻が覗いているという風には見えず、例えば仔猫の屍骸めいたものが二つ三つ重なり合い、風呂敷包みの間から、覗いて見えるという風な感じを起させた。何故そんな聯想が浮かんだのかわからなかった。僕が漠然と予感したとおり、婆さんは、何もこれと言って格別な事もせず、言いもしなかった。含み声でよく解らぬが、念仏をとなえているのが一番ましなんだぞ、という様な事を言うらしかった。要するに、自分の顔が、念仏層にも観客にもとっくりと見せたいらしかった。
勿論、仔猫の屍骸なぞと馬鹿々々しい事だ、と言ってあんな顔を何んだと言えばいいのか。間狂言になり、場内はざわめいていた。どうして、みんなあんな奇怪な顔に見入っていたのだろう。念の入ったひねくれた工夫。併し、あの強い何とも言えぬ印象を疑うわけにはいかぬ、化かされていたとは思えぬ。何故、眼が離せなかったのだろう。この場内には、ずい分顔が集まっているが、眼が離せない様な面白い顔が、一つもなさそうではないか。どれもこれも何という不安定な退屈な表情だろう。そう考えている自分にしたところが、今どんな馬鹿々々しい顔を人前に曝しているか、僕の知った事でないとすれば、自分の顔に責任が持てる様な者はまず一人もいないという事になる。而も、お互に相手の表情なぞ読み合っては得々としている。滑稽な果敢無い話である。幾時ごろから、僕等は、そんな面倒な情無い状態に堕落したのだろう。そう古い事ではあるまい。現に眼の前の舞台は、着物を着る以上お面も被った方がよいという、そういう人生がつい先だってまで厳存していた事を語っている。
仮面を脱げ、素面を見よ、そんな事ばかり喚きながら、何処へ行くのかも知らず、近代文明というものは駆け出したらしい。ルッソオはあの「懺悔録」で、懺悔など何一つしたわけではなかった。あの本にばら撒かれていた当人も読者も気が付かなかった女々しい毒念が、次第に方図もなく拡がったのではあるまいか。僕は間狂言の間、茫然と悪夢を追う様であった。(小林秀雄「当麻」)
Man wants to be loved for what he truly is; which is why the archetypal male scenario of the trial of woman's love is that of the prince from a fairy tale who first approaches his beloved under the guise of a poor servant, in order to insure that the woman will fall in love with him for himself, not for his princely title. This, however, is precisely what a woman doesn't want-and is this not yet another confirmation of the fact that woman is more subject than man? A man stupidly believes that, beyond his symbolic title, there is deep in himself some substantial content, some hidden treasure which makes him worthy of love, whereas a woman knows that there is nothing beneath the mask-her strategy is precisely to preserve this 'nothing' of her freedom, out of reach of man's possessive love...( ZIZEK” Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation “)
ーーと引用するより、ここではこっちのほうがよさそうだ、《大多数の男は男であるからこそ生きるのがキツイのに、その「男」を捨てることができないという宿命にあります。ここには深くかつ単純な理由が潜んでいて、男は「ただ男であるがゆえに女よりすぐれている」という神話(迷信)から解放されていないからなのです。(中島義道『ぐれる!』)
男は「ただ男であるがゆえに女よりすぐれている」という神話(迷信)を抱いている連中が現在どれほどいるのかは知らないが(意識的に)、フロイトーラカン理論ではこれは根が深いとされる(すくなくとも無意識的には)。幼児期、男児はソーセージをもっていることを誇り、女児は蝦蟇口しかないことに劣等感をもつ。
彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』 高橋義孝訳 新潮文庫下 P86)
幼い少女は、一時的であるにせよ、ファルスを奪われたという意味で自分は去勢されたと考えます。少女は自分を去勢した相手を、まず最初 は自分の母親であると認識し、そして――これ〔=この転換〕が重要な点なのですが――、続いて自分を去勢したのは父親である、と認識するようになります(ラカン『ファルスの意味作用』)
これはフロイトーラカン理論を受け容れるかどうかの最初の分水嶺のひとつであり、ソーセージと蝦蟇口に違和を抱くひとがあるにしても、幼児期に体験する「言語化できない」三つの謎、「女性性」、「父性」、「性的関係」を認めないわけにはいかないのではないか。つまりフロイト曰く、the gender of its mother and thus of women in general, the role of the father and the sexual rapport between his parents.に関わるものであり、その三つのラカン変奏は、La Femme n'existe pas(「女」は存在しない)、 L'Autre de l'Autre n'existe pas(「他者」の「他者」は存在しない)、 Il n'y a pas de rapport sexuel(性関係はない)、ということになる。
他方、女性には、社会的仮面などどこ吹く風。公私の区別などありはしない(これは、日本語におてはとくに男と女の文体の影響もあるのかもしれない。実際、女性文体で書くと、わたくしの場合、公私の区別なく「自由」に書けるのは、どういうわけか?ーーそのフィクション性だけのためか)。これらの現象は、ある程度の社会的ポジションを得た人たち(たとえば大学教師たち)などのツブヤキを眺めていると如実に感じられるわ…あら、いやだ…昔の癖がでちゃったわ…
It is not that man stands for logos as opposed to the feminine emphasis on emotions; it is rather that, for man, logos as the consistent and coherent universal principle of all reality relies on the constitutive exception of some mystical ineffable X (“there are things one should not talk about”), while, in the case of woman, there is no exception, “one can talk about everything,” and, for that very reason, the universe of logos becomes inconsistent, incoherent, dispersed, “non‐All.” Or, with regard to the assumption of a symbolic title, a man who tends to identify with his title absolutely, to put everything at stake for it (to die for his Cause), nonetheless relies on the myth that he is not only his title, the “social mask” he is wearing, that there is something beneath it, a “real person”; in the case of a woman, on the contrary, there is no firm, unconditional commitment, everything is ultimately a mask, and, for that very reason, there is nothing “behind the mask.” Or again, with regard to love: a man in love is ready to give everything for it, the beloved is elevated into an absolute, unconditional Object, but, for that very reason, he is compelled to sacrifice Her for the sake of his public or professional Cause; while a woman is entirely, without restraint or reserve, immersed in love, there is no dimension of her being which is not permeated by love—but, for that very reason, “love is not all” for her, it is forever accompanied by an uncanny fundamental indifference.(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)
ここで突然、同じ世代の著名なピアニスト、ポリーニ(1942生れ)とアルゲリッチ(1941生れ)を思い浮かべてみていいかしら? ポリーニさん、律儀なピアニストの社会的仮面の下に共産主義者としての姿を、そのインタヴューなどで露わにするのよ、彼のプロフェッショナルな演奏家の姿からまったく窺えない”ほんとのボク”ってわけね
《ポリーニはピアノを演奏する時のように、明瞭に、妥協をせず、言葉を濁すことなく語ります。「人間の顔をした社会主義」を信奉していた人は、何をベルルスコーニのイタリアで失ったのでしょうか。》
(苦笑)泣いていいのか笑えばいいのか、わかりませんね(笑)。私を含め多くの人々にとって困難な状況となっていることを示すために、一つの例を挙げます。イタリアでは、多くのひどい情勢に加え、さらに次の重要な段階に進もうとしています。来月、イタリア議会は憲法の改正を決議するでしょう。この改正案が通れば―多分通ることになると思いますが―首相、つまりベルルスコーニは、議会を解散する権限を持つようになります。ほとんど独裁的な力を有することになるわけです。警察、学校、医療といった公的機関も地方分権化されることになります。我々の国は極めて危険な状態にあるのです。近々、憲法改正に反対する声明文が発表される予定です。クラウディオ・アッバード、グイド・ロッシ、私も含めて、多くの人が署名をしたものです。
《ポリーニのこの言葉で、インタヴューを終わりにしましょう。》
このようなことをするレベルの人たちには、文化というものが何も理解できないのでしょう。
他方、アルゲリッチは、何人かのダンナと喧嘩したり、恋愛のいざこざがあったり、体調が悪かったりしたら、コンサートをあっさりすっぽかす。音楽と私生活の区別などどこにもない。
ラカン派のいう男女の相違の典型例として、あまりにも対照的な二人だが、これほど典型的でなくとも、このような男と女の振舞いの相違とは巷間にもしばしば見られる。若い世代の男性は、徐々にこのような公私の区別など曖昧化しているのだろうが、そうはいっても弁護士やら医師、学者など社会的位置の高い比較的安定した職業についている若者たちの発話を垣間見ると、職業からくる堅苦しさと打ち解けた真実の”ぼく”の間の心理的揺れ動きの具合が手にとるようで…なんというのか…男っていつまでも、かわいいボウヤだわ、って感じる瞬間ね。
ーーと書いて、ここでの文脈とはあまり関係がない美しい文に出会ったので引用しておこう。
ピアニストであるということは、かくも難しいことなのだ。誰もあなたに期待してない、誰もあなたを必要としていない。ジャック・ラカンならこう言っただろう。ピアノを弾くということは、自分が持っているかどうか自信のないものを、本当に欲しがっているかどうか自信のない人に与えることである。(『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』)
これは、ラカンの愛の定義、「愛とは自分のもっていないものを与えることである」(「セミネール Ⅷ」)―― その意味するところは、「愛するということは、あなたの欠如を認めて、それを他者に与える、他者のなかにその欠如を置く」ということである、の変奏であるだろう。
………
ついでにジジェクの『ラカンはこう読め』から、有名な画家ゼウキシスとパラシオスの逸話の箇所を抜き出しておこう(「補足資料:ラカン「女=ファルス」をめぐって」より)
ラカン的な視点からすると、最も根源的な見かけとは何か。妻に隠れて浮気をしている夫を想像してみよう。彼は愛人と密会するときは、出張に行くふりをして家を出る。しばらくして彼は勇気を奮い起こし、妻に真実を告白するーーー自分が出張に行くときは、じつは愛人と会っていたのだ、と。しかし、幸福な結婚生活といううわべが崩壊したとき、愛人が精神的に落ち込み、彼の妻に同情して、彼との情事をやめようと決心する。
妻に誤解されないようにするためには、彼はどうすべきだろうか。出張が少なくなったのは自分のもとに帰ってきたからだと妻が誤解するのを阻止するには、どうすべきだろうか。情事が続いているという印象を妻に与えるため、彼は情事を捏造し、つまり二、三日家を空け、実際には男友達のところに泊めてもらわなくてはならない。
これこそが最も純粋な見せかけである。見せかけが生まれるのは、裏切りを隠すために偽りの幕を張るときではなく、隠さなくてはならない裏切りがあるふりをするときである。この厳密な意味において、ラカンにとっては幻想そのものからして見せかけである。
見せかけとは、その下に<現実界>を隠している仮面のことではなく、むしろ仮面の下に隠しているものの幻想のことである。したがって、たとえば、女性に対する男性の根本的な幻想は、誘惑的な外見ではなく、この眼も眩むような外見は何か計り知れない謎を隠しているという思い込みである。
このような二重の欺瞞の構造を説明するために、ラカンは、古代ギリシアの画家ゼウキシスとパラシオスの、どちらがより真に迫った騙し絵を描くことができるかという競争を引き合いに出す。ゼウキシスはすばらしくリアルな葡萄の絵を描いたので、鳥が騙されて突っつこうとしたほどだった。パラシオスは自分の部屋の壁にカーテンを描いた。訪れたゼウキシスはパラシオスに「そのカーテンを開けて、何を描いたのか見せてくれたたまえ」と言ったのだった。ゼウキシスの絵では、騙し絵がじつに完璧だったので、実物と間違えられたのだったが、パラシオスの絵では、自分が見ているこの月並みなカーテンの後ろには真理が隠されているのだという思い込みそのものの中に錯覚がある。
ラカンにとって、これはまた女性の仮装の機能でもある。女性は仮面をつけ、われわれ男性に、パラシオスの絵を前にしたゼウキシスと同じことを言わせる……「さあ、仮面をとって、本当の姿を見せてくれ!」(……)
男は女に化けることしかできない。女だけが、女に化けている男に化けることができるのだ。なぜなら女だけが、自分の真の姿に化ける、つまり女であるふりをすることができるのだから。
ふりをするという行為がひたすら女性的な行為であることを説明するために、ラカンは、自分がファルス(男根)であることを示すために作り物のペニスを身につけている女性を引き合いに出す。
ーーーこれがヴェールの背後にいる女性です。ペニスの不在が彼女をファルス、すなわち欲望の対象にします。この不在をもっと厳密に喚起すれば、つまり彼女に、仮装服の下に可愛い作り物のペニスをつけさせれば、あなたがたは、いやむしろ彼女はきっと気に入るにちがいありません。(エクリ)
この論理は見かけ以上に複雑である。それはたんに、偽のペニスが「真の」ペニスの不在を喚起するということだけではない。パラシオスの絵の場合とまったく同じように、偽のペニスを見たときの男の最初の反応は、「そんな馬鹿げた偽物は外して、その下にもっているものを見せてくれ」というものである。かくして男は偽のペニスが現実の物であることを見落としてしまう。女が「ファルス」であることは、偽のペニスが生み出した影、つまり偽のペニスの下に隠されている存在しない「本物の」ファルスの幽霊である。まさしくその意味で、女性の仮装は擬態の構造をもっている。というのも、ラカンによれば、擬態(物まね)によって私が模倣するのは、自分がそうなりたいと思うイメージではなく、そのイメージがもついくつかの特徴、すなわち、このイメージの背後には真理が隠されているということを示唆しているように思われる特徴である。パラシオスと同じく、私は模倣するのは葡萄ではなく、ヴェールである。「擬態は、背後にあるそれ自身と呼びうるものとは異なる何かを明らかにするのです」(エクリ)。ファルスの地位そのものが擬態の地位である。ファルスは究極的に人間の身体にくっついているいぼみたいなもので、身体にふさわしくない過剰な特徴であり、だからこそそのイメージの背後には真理が隠されているという錯覚を生むのである。