恒川邦夫訳によるヴァレリーの「テスト氏との一夜」(1896年ヴァレリー二十代半ばの作品でヴァレリスムの原点ともいわれる)は、pdf版43頁のうち19頁以降が訳註であり、つまり本文を超えた分量が注釈となっている。そこでは小林秀雄訳と村松剛・菅野昭正・清水徹訳のふたつの翻訳と比較参照が多くなされており、それらとの差異を提示して、恒川氏が自ら書くように「ヴァレリーに関心を抱く人々にとって一種の知的挑発」となっている。
恒川氏曰く、《知的なものが恐ろしい勢で商業主義にとりこまれていく時代にあって、人間の精神活動のもっとも根源的な姿を探究し、知的営為のなんたるかを身をもって示したヴァレリーの思索はいまなお新鮮な衝激力を失っていないばかりか、ますます大きな意味を持ちつつあると思われる。》ーーこれは、一九八五年に書かれているのだが、いまはまさにいっそうのその通りであるのか、それともそれを通り過ぎて頓珍漢な妄想的書き物に見えてしまうのかは、読み手の資質による。
ーー《公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴーー大いなる個人的快楽ーーになぞらえるにいたるのだ。》
pdf版というのは注が読みにくいので、以前は読み飛ばしていたのだが、今回、すこし念入りに読み返してみた。http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/9903/1/HNjinbun0002400030.pdf
註において、穏やかな調子であれ、批判にされされるのは、それぞれ著名な翻訳者たちの訳文であり、仏文を解さないものにとって、その正否は判然としないが、すくなくとも、いかに訳者によって異なった訳がなされているかがよく分る。
いまひとつだけ例を挙げれば、次の通り。
”Que peut un homme ? Je combats tout, ― hors la souffrance de
mon corps, au delà d’une certaine grandeur.”
ーー「ひとりの人間に何ができるか? 私はあらゆるものを制圧する―― ただし、或る限度を越えた、私の身体の苦痛以外は。」(恒川訳)
――「人間に何が出来る。僕は、あらゆるものと戦います――自分の身体の苦痛を乗り切っても、ある定量を踏み越えても。」(小林訳)
村松剛・菅野昭正・清水徹訳でも同様、「肉体の苦痛をのりこえて」と意味が逆になっている。
「私の身体の苦痛以外は」――、ここでは、フロイトの歯痛の話を挙げておこう。
器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心を自分の愛の対象から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。(……)W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我への関心とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト「ナルシシズム入門」『フロイト著作集5』p117)
――自分の歯茎が痛めば、その狭い中に全魂が集中するのが人間であり、その瞬間ほど、たとえ地球の反対側で地震が起こるとしても、自分の歯痛ほどではないと考える。つまり人は、世界で戦争が起ころうとも、地球に終末が訪れようと、自分が患っている歯痛よりはひどくはないと感じる。それはテスト氏でも変わらないということになる。
『テスト氏』は多くの人に影響を与えているのだろうが、最近拾ったアンドレ・ブルトンの言葉のみ繰り返しておこう(アンドレ・ブルトンとその女たち)。
アンドレ・ブルトンがマルセル・デュシャンについ て初めて私に話してくれた時、 それはヴァレリーに関してであった。 「私の目には」 、 とブ ルトンは私に言った、 「1896年、 すなわち私の生まれた年に、 私がほとんどそらんじてい た作品 『テスト氏との一夜』 を刊行したヴァレリーは、 かつてランボーの周りに形成され えたような神話に固有の威光をまとっている ように映ったのです。 何らかの頂点に到達したとたんに、 作品がいわば作者を 「拒絶」 した のだと言わんばかりに、 ある日突然、 自分の 作品に背を向ける人物という神話」 。 こうし た振る舞いが彼の魅力となっていたのだ。 こ の眩暈を覚えるような光のなかに映し出され たヴァレリーは、 「何年ものあいだ、 若輩の詩人のどんな質問にもいちいち面倒がらずに答 えてくれたのです」 。 とブルトンは私に告白 した。 「彼は私が自分自身に対して気難しく なるようにしてくれました。 私がそうなるのに必要なあらゆる労苦を、 彼はいとわなかっ たのです。 私がいくつかの高度な規律に絶えず気を配るようになったのは、 彼のおかげで す」
さて以下は、「テスト氏の一夜」から、音楽の陶酔と脆弱な精神を語られる箇所を抜き出す。
……みんな自分の席に着いていて、身動きする自由もあまりなかった。わたしはそこに分類体系を、人間集団のほとんど理論通りの単純な構造、いわゆる社会秩序をみて楽しんでいた。この立方体の中で呼吸している人々はすべてこの立方体を律している方則に従い、大きな輪を描いてどっと笑い、グループごとに感動し、個人の内密にかかわるようなことーー独自無双のものーー人にはみせない心の動きを集団単位で大挙して感じようとし、口では言い表わせない感動の高みへはせのぼろうとしているのだ、そう思うとわたしは愉快でならなかった! わたしはそうした人々の折り重なる上に、列から列へ、軌道を描いて視線をさまよわせ、彼らのなかに同じ病い、同じ理論、同じ悪癖を持った人々を探し、一同に会してみたらとあらぬことを考え、空想をたくましくするのだった……ひとつの音楽がわれわれすべての心をとらえ、場内に満ち、やがて絶え入るように小さくなった。
音楽が消えた。テスト氏は呟いていた。「われわれが美しかったり、非凡だったりするのはつねに他者にとっての話だ! われわれはすぺて他者に食われているのだ。」
(……) 彼は低い声で早口に言った。「みんななんて夢中になって楽しみ、大人しく言いなりになっていることか!」
(……)「……崇高なものが彼らを単純化している。断言してもいい、彼らは次第次第に同じものに向って思考していくようになる。危機や共通の限界を前にすると彼らはみんな平等になるのだ。ただし、法則はそれほど単純ではない……なぜならその法則にはわたしが考慮のうちに入っていないのだからーーそしてーーわたしはげんにここにいる。」
彼はつけ加えた。「照明が彼らを一つに保っているのだ。」
わたしは笑いながら言った。「あなたもでしょう。」
彼は答えた。「あなたもだ。」
(……)彼は言った。「だれも瞑想にふける人がいなくなってしまった。」
(……)「それにしても」とわたしは答えて言った。「あれほど強烈な音楽からどうしたら逃れられるでしょう! それになぜです? あの音楽には特別な陶酔感を覚えます。その陶酔を軽蔑しなけれぱいけませんか? わたしはそこにひとつの旙大な精神的営為のあとを垣間見るような気がします。そしてそうしたとてつもない仕事が突如としてわたしにも可能になるような思いにとらわれるのです……あの音楽はわたしにさまざまな抽象的感覚をひきおこし、わたしが愛するあらゆるものの甘美な形象を味わわせてくれますーー変化、運動、混合、流動、変形……この世にああした麻酔剤的効用を持つものが存在することをあなたは否定なさるのですか? 見る者を酔わる樹木、活力を与えてくれる人々、心をしぴれさせる娘たち、唖然として言葉を失なわしめるような蒼宥とか?」
テスト氏は声高になって言い返した。
「おやおや、あなた! あなたの樹木のーあるいはあなたがおっしゃったその他もろもろのもののー《才幹》などわたしにはどうだっていいことだ。わたしは言わぱわたしの自我の内で暮らしていて、自前の言葉をしゃべり、世間でいう並はずれたことというのが大嫌いなのだ。そんなものは脆弱な精神が必要とするものだ。……」
冒頭にある《個人の内密にかかわるようなことーー独自無双のものーー人にはみせない心の動きを集団単位で大挙して感じようとし、口では言い表わせない感動の高みへはせのぼろう》と誘惑する音楽を嫌う系譜の作家たちというものがある。《「私」よりも「私たち」について表現する集団的で大衆的な激しい音楽》(ロラン・バルト)――いわばそこにファシズムのにおいを嗅ぎつける人たち。ミラン・クンデラもしかり(参照:知的スノッブたち、あるいは音楽のユートピア )。
もっとも「陶酔」がかならずしもいつも悪いわけではないだろう。たとえば、つねに精神の明澄さをたもつかのようであるヴァレリーの詩に「言葉を超えたエクスタシー」がどうしてないといえよう。
たとえばそれは、ロラン・バルトであれば、「感情ではなく感情のしるしをたえず押しつける」音楽が非難されるとか、あるいは別に、快楽と悦楽(=享楽)にもかかわる。
快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。
悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』ーー「ベルト付きの靴と首飾り」より)
《Outside English, the concept remains, though the word choice is similarly complicated. French thinkers have two primary terms related to ecstasy (jouissance and plaisir), which cover many of the related ideas, while “l’extase” now seems relegated to naming the club drug. Jouissance and plaisir are commonly translated as “bliss” and “pleasure,” and the OED’s “intense delight” of “rapture” looks to be more a function of “pleasure” than of “bliss”, as “bliss” is far closer to the English use of “ecstasy.” Lacan, Zizek, Barthes, and Kristeva each has more to say on the relationship between jouissance and plaisir. Both “bliss” and “jouissance” remain useful, whatever the language. In German, Nietzsche uses rausch for Dionysian ecstasy, and it might translate as something like “rush” or “buzz”》(. philosophicalecstasy)
グールドは音楽が快楽を志向するものでありうるなどとは思ってもみなかった。(……)彼によれば、エクスタシーとは、音楽、演奏、演奏家、聴衆を、たがいに内面を共有するという意識の織物において結び合わせる繊細な糸なのである。
(……)
グールドはアーティストとしてみずから求めるべきものの中心に、消え去ってゆくという感情をおいた。芸術はつねにはかないものであり、作品とはまもなく死滅するなにかだといってもよい。彼の演奏だと、あたかも曲はいま作られたばかりでありながらも、やがてすぐ消えてゆく運命にあるという気がすることが多い。彼の演奏は最初にして最後の言葉を連想させるが、そのエクスタシーの緊張感は、存在と非存在を分ける稜線上でのあやうい平衡から生れる。(ミシェル・シュネデール)
あるいは、ジュネのいう次のような感覚の状態の「開き」を誘う「ジュイサンス」だって、音楽や芸術作品にはあるだろう、--《わたしには、もろもろの物象が輝くばかりの明澄さで知覚されると思われるようになった。あらゆる物が、最もありふれたものまでも、その日常的な意義を失っていたので、わたしは終いには、いったい、コップは水を飲むものである、とか、靴は穿くものであるというのはほんとうだろうかと考えるまでになった。》(ジャン・ジュネ『泥棒日記』新潮文庫 p184 朝吹三吉訳)
※附記
現代的
私が私自身の中で語る言葉〔ランガージュ〕は私の時代のものではない。それはもともとイデオロギー的嫌疑を免れないものだ。だから、私はそれと戦わなければならないのだ。自分が見い出す言葉が気に入らないから、私は書く。引き算によって。同時に、この一つ手前の言語活動は私の快楽の言語活動でもある。私は、毎晩、ゾラやプルーストやヴェルヌや『モンテ=クリスト』や『一旅行者の回想』や、時には、ジュリアン・グリーンでさえも読む。これが私の快楽だ。しかし、悦楽ではない。悦楽は絶対的に新しいことと共にしかやって来ない。なぜなら、新しいことだけが意識を揺るがす(傷つける)からである(たやすいこと? どんでもない。十中八、九、新しいことは新奇さのステレオタイプでしかない)。
「新しいこと」はモードではない。批評全体の基礎となる価値だ。世界に対するわれわれの評価は、もはや、少なくとも直接的には、ニーチェにおけるように、高貴と卑賤の対立には左右されない。「古いこと」と「新しいこと」との対立だ。(「新しいこと」のエロス論は十八世紀に始まった。長い変貌の道程。)現代社会の疎外を免れるには、もはやこの手しかない。すなわち、前方への逃走である。古い言語活動はすぐに評判が悪くなる。言語活動は繰り返されるとすぐに古くなる。ところで、禁欲的な言語活動(権力の保護のもとに生まれ、広まる言語活動)は、規定からいって、繰り返しの言語活動である。言語活動の公的制度はすべて繰り返しの機構である。学校、、スポーツ、広告、量産作品、シャンソン、ニュースは、いつも、同じ構造、同じ意味、そして、しばしば同じ単語を繰り返す。ステレオタイプは政治的事実だ。イデオロギーの主要な顔だ。それに対して、「新しいこと」は悦楽である(フロイト曰く、《成人においては、新奇さが常に悦楽の条件である》)。こうして、次のような現代の力の布置が生まれる。すなわち、一方には、(言語活動の繰り返しと結びついた)大量の平板化――悦楽の埒外にある、しかし、必ずしも、快楽の埒外ではない平板化――。もう一方には、「新しいこと」への(周辺部の、常軌を逸した)熱中――言述の破壊にまでいきかねない、気違いじみた熱中、ステレオタイプに抑圧された悦楽を再び歴史的に出現させようとする試み。
対立(価値のナイフ)は、必ずしも、公認され、命名された対立物(唯物論と観念論、改良主義と革命、等々)の間にある訳ではない。しかし、いつでも、どこでも、例外と規則の間にはある。規則、それは濫用だ。例外、それは悦楽だ。例えば、時には、「神秘主義者」の例外を支持することもあり得る。規則(一般性、ステレオタイプ、個人言語、すなわち、凝着した言語活動)でなければ、何でもいい。
しかし、全く反対のことも主張し得る(私が主張するのではないが)。すなわち、繰り返し自体が悦楽を生むというのだ。民族学上の実例は沢山ある。偏執的なリズム、呪文的な音楽、連祷、儀式、仏教の念仏、等々。過度に繰り返すこと、それは喪失に、記号内容のゼロに到ることである。ただそれだけだ。繰り返しがエロティックになるためには、それが形式的で、逐語的である必要がある。われわれの文化においては、この公然たる(過度の)繰り返しはまた常軌を逸し、音楽の周辺部に押しやられたものとなる。量産文化の劣悪な形式は小心な繰り返しである。内容やイデオロギーの図式や矛盾の湮滅を繰り返しながら、表面的な形式は変化させるのだ。いつも新しい本、放送、映画、三面記事。しかし、いつも同じ意味だ。
要するに、単語は、対立する極端な二つの条件において、エロティックになり得る。すなわち、徹底的に繰り返すか、あるいは、逆に、思いがけず、その新奇さによって滋味豊かになる場合である(ある種のテクストにおいては、単語が輝いている。それは突飛で、痛快なものである。――衒学的であっても構わない。だから、私は、私なりに、ライプニッツの次の文に快楽を見出すのだ。《……あたかも懐中電灯が、歯車を必要とせず、ある時間指示能力によって、時刻を示しているかのように、あるいは、あたかも製粉場が、石臼に類するものを必要とせずに、粉砕質によって、穀物を砕いているかのように》)。二つの場合とも、悦楽の物理学は同じだ。溝、碑銘、シンコペイション。すなわち、掘られるもの、砕かれるもの、あるいは、蠢くもの、不調和なもの。
ステレオタイプとは、魔力も熱狂もなく繰り返される単語である。あたかも自然であるかのように、あたかも、奇妙なことに、繰り返される単語は、その度に、それぞれ異なった理由で、そこにふさわしいかのように、あたかも模倣することが、もはや模倣と感じられなくなることがあり得るかのように。図々しい単語だ。凝着性を求めていて、自分の固執性を知らない。ニーチェは、《真理》とは古い隠喩の凝固したものに他ならない、といった。ところで、この理屈でいくと、ステレオタイプとは《真理》に到る現実の道筋であり、案出された装飾を、記号内容の、規範的な、強制的な形式へと移行させる具体的な過程なのである。(新しい言語学を想像してみるといい。それは、もはや、単語の起源、すなわち、語源論も、それの伝播、すなわち、語彙論さえも研究せず、それらの凝固の過程、歴史的言述に沿ったそれらの厚みの具合を研究することになろう。この学問は、真理の歴史的起源以上のもの、それに修辞的、言語的性格を明らかにして、多分、体制にとって危険なものとなるだろう。)
(新しい単語、あるいは、耐えがたい言述の悦楽と結びついた)ステレオタイプに対する警戒が絶対的不安定性の原理である。それは何物も大事にしない(どんな内容も、どんな選択も)。二つの重要な単語の結びつきが当たり前になると、すぐ吐き気を催す。あるものが当たり前になると、私はすぐ放棄する。それが悦楽だ。空しい苛立ちだろうか。エドガー・ポーの小説の中で、催眠術をかけられた瀕死の病人、ヴァルデマー氏は、繰り返される質問(《ヴァルデマーさん、眠っていますか》)のおかげで、仮死状態のまま生き延びる。しかし、この延命は耐えがたい。偽りの死、残酷な死、それは終りではないものだ。果てることのないものだ(《後生だからーー早くーー早くーー眠らせて下さいーーそれとも、早く、覚まして下さい、早くーー私は死んだのですよ》)、ステレオタイプとは、このような、死ぬことのできない状態だ。吐き気を催すような。
知的分野においては、政治的選択は言語活動の停止だーー従って、一つの悦楽だ。しかし、言語活動は復活する。最も凝着した形で(政治的ステレオタイプ)。その時はこの言語活動を呑み込まなければならない。吐き気なしに。
別の悦楽(別の縁)。それは明らかに政治的なものを非政治化し、明らかに政治的でないものを政治化することである。――ところが、どうだ、皆、政治的であるべきものを政治化している。ただそれだけさ。(ロラン・バルト『テクストの快楽』より)