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2013年7月12日金曜日

熟柿と後家

体調復帰祝いに庭球仲間すっぽん持参にて久振りに鼈鍋の宴裏庭にて張る。齢の離れた艶福家の檀那を病で喪った美肌の妖後家をも励ます会なり。

傷心の妖女は酔醒しのためにとて、熟柿とマンゴー(菴摩羅果)の山を持参す。遠目に姿すらりとした三十女は、漁村育ちのがっしりと堅太りした骨太な軀を、胸元や着物の裾から覗かせてふだんの身だしなみのよさをいささか崩し、馴れない純米酒に酩酊して真っ赤になった頬額とアマリリスの唇にて熟柿を頬張るなり。「真っ赤に熟し切って半透明になった果実は、あたかもゴムの袋のごとく膨らんでぶくぶくしながら、日に透かすと琅玕の珠のように美しい」

マンゴーは三文字か四文字か

《三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。》(中井久夫 後詳引用)


上岡龍 ○ 郎が放送禁止用語についてのトークで、「関西の番組では、おまんこは放送できるけど、おめこはあきまへん。」――だそうだ。(女性器の呼称について

桃栗三年柿八年梅は酸い酸い十八年

桃栗三年後家三ヶ月

腿膝三年、尻八年

尻酒三年栗と栗鼠菊座はすいすい海女と栗鼠


ーー「微熱あるひとのくちびるアマリリス」(吉岡実)


わたくしは、「掌に載せて、一顆の露の玉に見入った」。そして自分の手のひらの中に、妖女の「霊気と艶光が凝り固まった気がした」。

掌に砂を載せて掌を閉じる
眼に砂を載せ掌を握る。
悲しみである。
思い出す。四月。初めて感じた、きみの重み、きみの身体
人体は粘土と罪より成る。
誕生の日のようなアマリリスの祝日
思い出す、きみの苦痛。きつく唇を噛んだ跡
肌の深い爪跡にその時の痕が永遠に残るだろう


(エリティス「青い記憶の歳」より 中井久夫訳)

《これは少年愛である。アマリリスはアヌスの美の隠喩である。――》



「何もお構い出来ませぬが、ずくしを召し上がって下さいませ」
と、主人は茶を入れてくれたりして、盆に盛った柿の実に、灰の這入っていない空の火入れを添えて出した。

ずくしはけだし熟柿であろう。空の火入れは煙草の吸い殻を捨てるためのものではなく、どろどろに熟れた柿の実を、その器に受けて食うのであろう。しきりにすすめられるままに、私は今にも崩れそうなその実の一つを恐々手のひらの上に載せてみた。円錐形の、尻の尖った大きな柿であるが、真っ赤に熟し切って半透明になった果実は、あたかもゴムの袋のごとく膨らんでぶくぶくしながら、日に透かすと琅玕の珠のように美しい。(……)私はしばらく手の上にある一顆の露の玉に見入った。そして自分の手のひらの中に、この山間の霊気と日光が凝り固まった気がした。(……)歯ぐきから腸の底へ沁み徹る冷たさを喜びつつ甘い粘っこい柿の実を貪るように二つまで食べた。私は自分の口腔に吉野の秋を一杯に頬張った。思うに仏典中にある菴摩羅果もこれほど美味ではなかったかも知れない。(谷崎潤一郎『吉野葛』)


女は酩酊さめやらず、だれかの慰めの言葉が気に障ったのか、唐突に「ほおっておいてほしいの」ときつく言い放つと、ふらふらと席を立ち、「けやきの木の小路を/よこぎる女のひとの/またのはこびの/青白い終りを」、築山のむこうに辿り、山影にて着物の裾を尻端折り、怪訝な顔を浮かべたひとりの老少年の《柿の木の杖をつき/坂を上っていく/女の旅人突然後を向き/なめらかな舌を出した正午》(『鹿門』)


三人の子を育てた
「長い歳月の起伏をみせて
そのちいさい稜線の終るところ
まるい尻のくぼみから
生き生きと湯気の立つ」(石垣りん)
サフラン色の抛物線を生垣に投げかけた


「割れた少年の尻が夕暮れの岬で
突き出されるとき
われわれは 一茎のサフランの花の香液のしたたりを認める
波が来る 白い三角波」吉岡実「サフラン摘み」より)


「女から
生垣へ
投げられた抛物線は
美しい人間の孤独へ憧れる人間の
生命線である」(西脇順三郎)


「世界は光る、きらりと、
朝まだき露の滴が山裾の野に光るように。

今、影が伸びる、神のため息のように、長く、いっそう長く。」(エリティス「アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩」中井久夫訳)


ほかの老少年も「くちなしの藪がしげる窓/からのぞいてみた。 」(西脇順三郎)

「さんざしの藪の中をのぞくのだ/青い実ととび色の棘をみている/眼は孤立している」


病みあがりのあるじも連れ小水す

鼈宴名残の酒臭し バラ色の海綿体に映るはわが酔顔なり 青空に描かれる噴水の放物線に仰天す

「わが馬ニコルスのキララで包まれた陰頭が青空へせり上る」(吉岡実)

そして興奮の絶頂、狂乱の最中、声がしわがれ、女性的な生殖のアルトに変わる時、きまってヘリオガバルスが現われる。太陽の宝冠を戴き、火のように燦く無数の宝玉をちりばめたマントを身にまとい、金に浸して金泥に覆われた、不動の、硬直した、無用にして無害な男根を露にし、恥骨の上には一種の鉄の蜘蛛をつけているが、サフラン色の粉を塗った臀を過度に動かすたびに蜘蛛の足は彼の皮膚を擦りむいて血を流させるのだ。(『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』アントナン・アルトー, 多田 智満子訳)


生徒|吉岡実

木造の古い小学校の便所の暗がりで
女生徒は飛びあがりつつ小水をするんだ
もし覗く者がいるなら それは虎の仮面をかぶった神
男生徒は夏の校庭を影を曳きながら 歩きまわる
半ズボンの間から 回虫を垂らしつつ 永遠に






《従妹の姿態をモデルに最初の人形を組み立てたハンス・ベルメールにとって恋愛とは、ナルシシズムと近親相姦願望を相手のなかに投影できる可能性だった。(……)

ブルトンは「皺のない言葉」(『失われた足跡』所収)にて、「私たちのいちばん確実な存在理由が賭けられた」場合、「言葉は愛の行為をおこなう」と述べている。》(宮川尚理「「愛を行なう」言葉たち : ウニカ・チュルンのアナグラム詩」による)。http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=14619



「夏草の茂る林のなかの大きな木の幹の陰で、なやましくも脱皮する少女、草むらに寝そべり、幼い陰茎に蝉をとまらせ恍惚としている少年」(吉岡実)


「川の瀬の岩へ
女が片足をあげて
「精神の包皮」
を洗っている姿がみえる
「ポポイ」
わたしはしばしば
「女が野原でしゃがむ」
抒情詩を書いた
これからは弱い人間の一人として
山中に逃げる」(吉岡実「夏の宴」--西脇順三郎先生に)


ブルトン:強姦とは何か?
ペレ:速度の愛。

ブルトン;理性とはなにか? 
エリュアール;それは月に食われる雲

マルセル・フェリー(ブルトンの愛人):孤独とはなにか?
ブルトン:王座の足もとに座る女王。

S. M.:眼とは何?
A. B.:香水工場の徹夜番の女。

S. M. :興奮とは?
A. B. :小川の中の汚点。

――――「愛を行う」言葉たち(宮川尚理)より


わたしの女の 砂岩と石綿の尻
わたしの女の 白鳥の背と尻
わたしの女の 春の尻
グラジオラスの性器
わたしの女の 金鉱床とかものはしの性器
わたしの女の 海草とボンボンの性器
わたしの女の 鏡の性器
わたしの女の 涙をいっぱいに溜めた眼
紫の武具と磁針の眼
わたしの女の サヴァンナの眼
わたしの女の 牢獄で飲むための水の眼
わたしの女の つねに斧の下にある薪の眼
水準器の眼 空気の土の火の平衡器の眼


ーー自由な結合(抜粋)  アンドレ・ブルトン (松浦寿輝訳)


今朝、妻に促されて、血圧と尿酸値を測れば、傍らの女の「驚愕した陶器の顔の母親の口が/赭い泥の太陽を沈めた」(吉岡実)

またしばらく節制なり


…………


私は、詩の翻訳可能性にかんしての議論は表層言語の水準では解決できないものであると考えている。訳詩というものがそもそも果たして可能かという議論はいつまでも尽きない永遠の問題である。これが、ゼノンの逆理に似ているのは、歩行は現実にできているのだが、それを歩行と認めるかどうかという問題だからだ。ゼノンの逆理に対してディオゲネスは「立って歩けば解決できる」と言ったが、それでもなお「歩いているというのは何かの間違いだ」「ほんとうは歩けないはずだ」という反論はありうるだろう。つまり、詩の訳はできているし、あるのだが、それでもなお「それは原詩とはちがう」「ほんとうは詩の訳はできない」ということはできる。

私は、多くのものが他のもので代表象〔ルプラザンテ〕できる程度には詩の翻訳は可能であると考える。それだけでなく、もっと強く、原文を味到できる人も、その人の母語が別の言語であるならばその人の母語によって訳詩を読むことにかけがえのない意義があると考える。

その詩を母語としない外国語学の専門家が原文を母語のように味到できるという可能性は絶無ではないが、言語の生理学からは非常に至難の技である。ましてや詩である。

人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。

それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。

いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。

この戦慄は、訳者の戦慄と同じでなくてもよい。むしろ多少の違和感があることこそあなたの中にそういう戦慄を蘇えらせる契機となる。実際、訳詩家は翻訳によって初めて原詩の戦慄を翻訳に着手する以前よりも遥かに深く味わうものである。そうでなければ、経済的に報われることが散文翻訳に比してもさらに少ない詩の翻訳を誰が手掛けるだろうか。

翻訳以前の原詩は、いかに精密であり美しくてもアルプスの地図に過ぎない。翻訳は登頂である。ただに頂上を極めることだけではなく、それが極められなくとも、道々の風景を実際に体験する。翻訳を読むことは、あなたが原文を味到することが十分できる方〔かた〕であって、その翻訳にあきたりないところがあっても、登頂の疑似体験にはなる。愛するすべての外国語詩を原語で読むことは誰にもできない相談であるから、訳詩を読むことは、その言語に生まれついていない人には必ず独立の価値があって、それをとおして、原詩を味わうのに貢献すると私は思う。(中井久夫「訳詩の生理学」)