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2013年7月21日日曜日

風がちがうのよ (須賀敦子)

まずは須賀敦子の「作品のなかの「ものがたり」と「小説」――谷崎潤一郎『細雪』」(追悼特集「須賀敦子」河出書房1998)からだが、以下抜き出すのはその冒頭と末尾、須賀家のエピソードの叙述である。

たたみの上に波うって部屋いっぱいにひろがる色の洪水、姿見のまえで、あの帯にしようか、こっちのほうがいいかと、はてしなく続く色あわせ模様あわせ。そんな姉妹たちのそばで、つぎの帯を両手にもって、辛抱づよく待っている女中。夙川の家での母たちの外出は、いつもそんな大騒ぎのなかで準備された。『細雪』が書店に出はじめたころ、母と、これも戦争で時期のおくれていた叔母が、息をするたびに帯がキュウキュウ音をたてるという箇所を読みあっては、「谷崎さん男やのに、よう、こんなこと気ぃついたわねえ」と、うれしそうに話しながら感嘆していたのを、なつかしく思い出す。半世紀ちかくまえのことである。
 いよいよ結婚のきまった、いちばんうえの叔母が、新しい姓をなんども筆で練習していた二階の部屋のおなじ文机のうえに、ある日、谷崎の「盲目物語」を見つけて、こんなうつくし本があるのかと、息をのんだのがつい昨日のように思い出される。


…………

◆中井久夫「阪神間の文化と須賀敦子」(『時のしずく』所収)より


「風がちがうのよ」とそのひとは編集者に語ったそうである。そのひととは須賀敦子。風がちがうところは彼女が育ったかつての阪神間・夙川のあたりである。

風のちがいは端的であった。湿潤な日本の風には何かの醗酵臭が混じる。それは稲束の温もりのこもった干し草の香りであったり、魚のすえた匂いであったり、腐葉土の菌臭であったりする。それに一九六〇年以前、高度成長が始まる前の日本は人口の大半が農民の農業国だった。下肥のすえた匂いは東京の市街部を含めて全国にみちみちていた。それが彼女の育ったあたりにはまるきりなかった。

(……)

風の匂いが変わるのはほとんど正確に南郷山の踏切を越えたところからであった。電車の窓をすとんと落してふんだんに風を入れる五月初めならば、当時日本全国をおおっていた、あのひりつくような匂いがかき消え、代わって、松の樹脂の香りと花の匂いと風化花崗岩の湿り気と微かな海の塩とを交えた爽やかな風がどっと車内に満ちた。

その風は、老木が削りたての杉板そのままのきつい香りを放つ間を太平洋からの強い風がふんだんに吹きすぎる鎌倉の風でもなく、高燥な大気が落葉松のしめった匂いをひきしめている軽井沢の風でもなかった。かつての阪神間の風、須賀さんの風である。この地域の、なにものをまとわりつかせず、いつも洗い立てのような風化花崗岩の白い砂が、この風のかおりを守っていた。

(……)
かりに少女時代の彼女の幻を追うならば、やや浅黒い肌の少女が、朝早く家を出て、夙川教会の傍を通っていったはずだ。聖心女学院小林分校まで、通学に一時間はかかっただろう。白いブラウスに紺のスカート、ボタン留めの黒靴を履いて、冬季ならその上に紺のセーターを羽織っただろう。たぶん線路沿いの桜並木を歩き、坂を下って夙川の駅に着いただろう。そして踏切をわたって上りホームのゆるやかな階段を登っただろう。踏切は、古い枕木を縦に並べただけのもので、中年の踏切係のおじさんがいて、簡単な鉄枠の遮断機を左右に動かして開閉していたはずだ。

彼女は切り通しをゆっくり下ってくる神戸線梅田行きに乗って、一駅先の西宮北口で今津線・宝塚行きに乗り換える。今津線の電車はずっと旧式である。天井からは古風な鈴蘭灯が下がっていただろう。電車はゆっくりと六甲の東の急峻な山裾をめぐってゆく。二駅目の甲東園で関西学院と神戸女学院の生徒が降りて車内がすく。聖心小林分校は四駅目の「小林〔おばやし〕」にある。

須賀さんは「丘の上の学校」と書いておられるけれども、およそなだらかな丘などではない。駅を降りて線路を渡る。駅の出入口はただ一つ、学校とは反対側の東側である。線路に沿って南に少し戻り、ガードを潜ると急な登り道になる。その入り口にアカシア並木が初夏には甘い香りを漂わせていただろうが、低い門柱を境に学校構内に入ると、右手はさまざまな木が繁る間に池が水草を浮かべていただろう。左手はコンクリート壁でその上方は竹が密生する崖である。この昼も暗い急斜面の道を生徒はあえぎ登る。坂道がもう尽きようとするところの正門にたどりついて、校庭まで少し逆戻りする。しかし校庭に出るとにわかに東に眺望が開ける。白い校舎の窓からはさらに広がってみえただろう。北大阪の平野はまだひろびろとして田んぼで、晴れた冬の朝など、遠く大阪城がそびえたっていたにちがいない。遅刻生は、朝礼の行われている前を通って靴をはきかえにゆかなければならなかった。一学年三〇人、小学生も含めて全部同じキャンパスであって、教鞭をとる人は一般科目も修道女である。


さて「阪神間」とは何だろうか。地理的には大阪と神戸の間のことである。しかし、阪神神戸線の西宮北口までは大阪文化圏に属する。阪神文化圏とは、あの「匂いのちがうところ」、私の友人の定義では、六甲山の急な崖の南、東は南郷山から西は阪急ならば御影と灘区に入って今の阪急六甲の中間までであるという。(……)

古く開けたこの地域は数キロを隔てると方言が違う。古い時代ばかりではない。大正以後に作られた阪神間の言葉はその東の北大阪方言とも、その西の神戸方言ともかなり違う。それは、古くから京都言葉を大幅に取り入れた船場方言という大阪上流商家のことばが基礎になっており、その上に新しい東京山手方言―標準語が重ねられている。その中でも住吉・岡本・芦屋と、夙川から東北部、つまり西部と東部とには微妙な違いがある。東部のほうが、東京の人が聴くと、東京言葉に近いと感じられるだろう。学校ごとの学校方言もあって、私の卒業校がかつて使っていた言葉で他に通用しない単語や語法もあった。須賀さんの言葉の絹漉しの味には、イギリス人のような、この言語的差異への感覚が幼い時からあってのことではないだろうか。皆が皆ではないが、この地域独特の容貌さえあって、それとわかる人にはわかる。これは地域内で通婚を繰り返して何世代かになるからか、それとも気候のせいだろうか。他地方から転勤してきた人も、観察していると、数年で輪郭がまろやかになることが多い。(……)

どのようにして、こういう例外的な世界ができたのか。
核は、大阪の伝統的商業中心地「船場」の豪商たちが、大阪・神戸間の鉄道が日本で二番目に敷設されると、別荘を郊外地に作り始めたことにある。やがて、別荘が自宅となって大阪に通勤するようになった。須賀さんの家の発祥が船場に近い道頓堀にあり、なお根をそこの伝統文化に残していることが、エッセイに散りばめられた挿話の中にはっきりと示されている。これはこの地域ではごく普通のことである。

船場の文化は、江戸期に、一つは天文学・暦学者・地理学者、医学者、哲学者を輩出させていた。江戸の官学的蘭学は大阪の町人ディレッタントの蘭学の移入によるところが大きい。英国産業革命期におけるウェッジウッドらの「ルナー・ソサエティ(月下学会)」に似て、京阪の町人学者は、昼間は商店主であり番頭である。江戸の洋学者が仕官の途を意識したのと様かわって、報酬や地位を目指さない内発的なものであり、鎖国にもかかわらず眼を海外に開きつづけた商人の旺盛な好奇心によるアマチュアリズムである。(……)


ーーここで引用者が顔を出して、ロラン・バルトの「アマチュアリズム」をめぐる文を挿入する。

「「愛アマチュア好家」(amateur)」(絵や音楽やスポーツや学問を嗜みながら、名人の域をねらうとか勝ち抜こうなどという魂胆はない人)。「愛好家」は、自分の享楽に連れ添って行く(「amator」とは、愛し、そして愛しつづける人、ということだ)。それは決して英雄(創作の、業績の、ヒーロー)ではない。彼は、記号表現の中に「優雅に」(無報酬で)腰を据えている。音楽や絵画の、そのまま決定的な材質の中に落ち着いている。彼の実践には、通常「ルバート」(属性のために物を搾取すること)は一切含まれない。彼は、反ブルジョワ芸術家である―たぶん、いずれそうなるはずである。(「ロラン・バルトと音楽のユートピア 」 安永 愛URL http://hdl.handle.net/10297/5471より)
バルトにとって、音楽のアマチュアであるということは、プロフェッショナルか、アマチュアかという二項対立の社会的・職業的カテゴリーと必ずしも一致するものではない。事実バルトは、歴とした職業的ピアニストの演奏に「アマチュア」芸術を見出している。「アマチュア」芸術とは、バルトにとっては、究極といってよい賛辞なのであり、「アマチュア」芸術の名に値するのは、彼が師事した声楽家のシャルル・パンゼラや、若くして亡くなったルーマニアのピアニストのリパッティらに限られている。バルトによれば、表現の素材(音楽においては音)に沈潜し、その素材との戯れの只中から僥倖のように「表現」をもたらしてしまうといった演奏家のみが「アマチュア」芸術家の名を冠しうるのである。しかし、弾く者と聴く者とが分断され、「プロフェッショナル」が聴き手を圧倒することが当然とされてしまった現代においては、そうしたタイプの演奏家は非常に希少な存在になってくる。(同 安永愛)

こうして安永愛は、ロラン・バルトの「音楽のユートピア」を次のようにまとめている(より詳しくは、参照:知的スノッブたち、あるいは音楽のユートピア (ロラン・バルト))。

① 勝ち抜こうとか、極めようとかいう魂胆とは無縁に、芸術の素材との接触の歓びのままに導かれるアマチュア性の重視。資本や名誉のゲームと無縁な営みへの共感。

② 孤独と内面性の重視。

③ 性役割や家族幻想からの解放への欲求。

④ コード化された社交空間の軽視。

⑤ 真率なる愛の空間への欲求。


ーーさて中井久夫に戻る。

…………

船場の文化は、茶道、華道をはじめ、江戸期京都の伝統文化を取り入れ爛熟させている。須賀家に帯を売りに来る出入りの商人は、京都の商人ではないにしても、京都の商品を持ってきているはずである。言葉がすでに純粋の大阪弁ではない。特に女性には京言葉を学ばせており、その女性に育てられた男性も含めて、船場言葉は京都の影響下にあり、それは阪神間に引き継がれて独特の言葉を形成している。この腐葉土的な言葉の豊かさは、「文体の地下水」と須賀さんが表現しているものの豊かさである。ふっくらして、やわらかく、きりっとした休止と大胆な飛躍があり、勘どころに「すごい」とか「とびついてしまった」という日常の感情表現の言葉を使って、しかも品位を損なわない文体である。

むろん、阪神間に育てばそれだけで須賀さんの文体になるわけではない。その底になくてはならない確として論理性を得るためには、東京文化を通過し、外国語をものにしなければならないだろう。須賀さんの言葉のよさはイタリア語が常にその裏打ちをしているからだという、池澤夏樹さんの指摘は正しい。そして、須賀さんによればイタリア語は「きまじめな言葉」である。ラテン語をきまじめに活かし継承しているイタリア語は「阪神間」の文化に底流する江戸期町人の、漢文から出て独自の論理的骨格をつくったきまじめな文体に通じている。(……)

しかし、阪神間は、源氏物語のように都のみやびの一元的中心ではない。阪神間は須賀さんが『細雪』で分析しておられるように常に東京との緊張に生きてきた。実際、須賀さんの父君も、東京に転勤し、彼女は青春時代の前半を東京で送る。(……)

一般に、阪神間に育った者は東京に出て初めて「欧米の近代的自我の欠如体としての日本人」としての自己と格闘している当時の東京の知識階級の、青ざめて目のすわった自我と痩せて鋭い標準語と「小骨の多い」論理に遭遇する。そして、東京世界においては前提である競争と競合と瑣末的な差異の重視とが、ある時期の阪神間に育った者には最大の苦手である。須賀さんの東京時代には登校拒否に近い時期があり、「学校の青い塔が焼けてしまったほうがいい」と真剣に思う時期があった。彼女はほとんど島流しに遇った感じを持ちながら生きていたようである。戦争がたけなわとなって、彼女は、疎開のために夙川の家に戻り、小林分校に戻って、旧友と再会してほっとする。彼女も「阪神間」の引力圏内がもっとも「自分のもとにいる」と感じる人であった。

「阪神間」と「東京」との違いはアマチュアリズム対プロフェショナルの差でもある。彼女がフランスに向かう同じ船の留学者先生たちを見る目はよそよそしい。他律的な競争と権力指向との世界に馴染まないとすれば、人のやらない、自分の好きなことをするしかない。旧制甲南高校は、ほとんど官僚を出してこなかった。その分、学者と医師との比率が旧制高校の中で格段に高く、それも外国大学の教授(特に数学)が目立つのも、須賀さんが結局はイタリア語に向われたのも、そういう面がありはしまいか。

須賀さんは、ギンズブルグに文体の同質性を発見して、ただでもいいから訳そうとする。彼女は晩年大学教授になるが、好きなものしか訳さないという一線を守った点で、外国ではいざしらず、日本ではアマチュアに属するであろう。


ーー須賀訳(『ある家族の会話』、1995年、白水社)では、

「ニグロみたいなことをするなっ!ニグロじゃあるまいし!」そういって父は私たちを叱った。この「ニグロ沙汰」には、実にいろいろな種類のことが含まれていた。タウンシューズで歩くこと。汽車の中や道で、近くにすわった人や通行人に話しかけること。窓から近所の人と話すこと。応接間や人前で靴をぬいだり、ラジエーターに足をのせて温めること。山歩きのときに、のどが渇いた、疲れた、足の皮がむけた等々、泣き言をいうこと。ピクニックに、煮物や油のべとべとしたものや手拭などを持参すること。これらがすべて父にいわせると「ニグロ沙汰」であった。(ギンズブルグ『ある家族の会話』須賀敦子訳)

あるいは、

きっちり足にあった靴さえあれば、自分はどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。(須賀敦子『ユルスナールの靴』)

《しかし、阪神間も須賀さんの時代のままではない、彼女は現実のトリエステを訪ねて、夫から聞かされてきた詩人サバの世界が彼女の中で勝手にふくらんだものだったと気づくが、それは、長く遠ざかっていた阪神間を、夙川の街を、再訪した時の彼女の思いが重ね合わされていなかったか。彼女は晩年を東京で送る。》

閉じこもった悲しみの日々にわたしが
自分を映してみる一本の道がある

そうサバがうたった旧ラッザレット街には、香料やコールタールの匂いが立ちこめていて、帆船や汽船で使うロープや漁網を売る店がならんでいる。万国旗を縫う女たちが、道路を通るサバの目にとまる。

つらい、人生という罪をつぐなっている彼女たち。

だが、私が見た旧ラッザレット街は、とりすました中流階級の住宅がならぶ、だまりこくった昼下がりの家並みと、三、四軒のくすんだ衣料品店(ブティックというにはあまりにうらぶれた)のウィンドウを覗きながら、たぶん遠い町か村に残してきた女ともだちに想いをはせる、若い兵士に出会っただけの、なんということはない平凡な通りだった。むかしとおなじなのは、交差する細い道のむこうに、道幅の分だけの細い海のきれはしが見えることだけだった。(須賀敦子「トリエステの坂道」)

 さて、もういちど中井久夫の須賀敦子追悼文集におけるエッセイにもどる。

《人との出会い、そして年をへだてての再会、あるいは消息を聞く彼女の筆づかいには、まぎれもなく「無常」の感覚がある。彼女のエッセイが私たちの心を打つのはこの清冽な無常感あってのことと私は思う。(……)彼女の本のどれを読み終えても、いちばん長く残る余韻はこの無常感である。》


…………

さて、これだけの引用だと、「阪神間」生れの須賀敦子のお嬢さん的側面ばかりが強調されてしまっていることになりかねない。

《あるとき「日本へ帰って十年間はどん底だったわよ」「私、くず屋をしてたこともある」とだしぬけに言い出し、目をくりくしさせた。》(森まゆみ 須賀敦子追悼集より)

これはエマウス運動にかかわる。

エマウス運動というのは、一九四九年、第二次世界大戦が終ったばかりのパリで、通称アベ・ピエールとよばれる神父さんたちが、当時、巷に溢れていた浮浪者の救済、更正対策として、かれらと共に廃品回収をはじめたのに端を発している。なにかの理由で社会の歩みからはみ出してしまった人たちが集まって、廃品回収をしながら共同生活を営み、その労働から得た収益の一部を、自分たちよりも更に貧しい人たちの役に立てようと努力しているのが、この運動の主体となっているエマウス・コミュニティーである。日本では、神戸と大阪で二十年来活躍している暁光会のクズ屋さんたちがこれにあたる。(須賀敦子「エマウス・ワーク・キャンプ」(須賀敦子『宮代』1973 21号初出、聖心女子大学同窓生会宮代会)

須賀敦子はエマウス運動を早くから知り、参加の意志を強く持っていた。

日本ではロベール・バラード神父が、“蟻の町のマリア”といわれたスラムの活動家北原怜子と出会って多くを学び、昭和三十一年、神戸生田川のほとりに小屋をたて、屑拾いの仕事をしながら共同生活をはじめた。暁光会と名付けられている。聖心を卒業したころすでに、この暁光会に参加を申し出たが、「女の子はいらない。文学をやりなさい」と追い返されたという。(「カトリック新聞」昭和四十八年十一学十八日付)

このインタヴューには五十代の写真とはまるでちがう、無造作なロングヘアーにブルージーンズという、いかにも活動家らしい写真が載っている。そして、
「聖心の学生は、二つのタイプがあるわね。まったくのお姫さまで何事にも従順なタイプと、きびしい規則の中で、なんとかしようと反骨心おう盛なタイプ。どちらも箱入りおじょうさんだけど……」なととインタビューに応えている。(森まゆみ「「心に伽藍を建てるひと」――須賀敦子の人生」)


 【もうひとつの顔】

「須賀さんは「パワフルな子供」だった 丸山猛 インタヴュー」(同追悼集から)

須賀さんと知り合ったのは、彼女がイタリアから戻ってしばらくたったころと思います。ぼくが開いている古書店にお客さまとしていらして、いろいろ話をするようになりました。 たぶん、コルシア書店のイメージとだぶらしていたんじゃないかとぼくは思っています。うちの会社は、運命共同体というかコミューンみたいなかたちで運営しているんです。あの人は生活者としての原点みたいなものを常に持ち合わせていた人ですが、それをぼくらに見ていたのじゃないかと思います。(……)

あの人は、自分の自由を抑えるものは何者も許さないというような、自分の美意識がはっきりありましたね。美意識の鋭い子供。そしてパワフルであるから、人に被害を与えることもある。

ただ、あの人はおそろしく悲しい人だなと思ったのは、そのような自分を、よく知っているんですよね。常にぼくにこぼしていたのは、「友だち少ないんだよ」という言い方で、「そうだよな、あなたの性格だとね」というと、「そうなんだよ」と。結局、自分のおそろしいほどのわがままとか、そういうのをよく知っているんですよね。孤独というんですか、ものすごくありましたね。それから、老後に向かっていくときの女一人の頼りなさとか。でも、あの人はそういうことを対外的には口が裂けてもいわない。自分で立っていくんだ、と。強過ぎる人ですからね。


「トリエステ」  ウンベルト・サバ(須賀敦子訳)

……
活気に満ちた おれの町には
おれだけのための 片隅がある
憂愁のある 引込み思案な
おれの人生のための 片隅が

……やはりそうだったのだ。すべての芸術作品とおなじように、サバの詩は、まんまと私を騙しおおせていたのに違いない。そして長いあいだ私のなかで歌いつづけてきたサバのトリエステは、途方もない拡がりをもつ一つの宇宙に育ってしまっていて、明るい七月の太陽のもとで、現実の都市の平凡な営みは、ただ、ひたすらの戸惑いをみせているにすぎないのだった。(須賀敦子「ウンベルト・サバ」)

「市」 カヴァフィス  中井久夫訳

いってたな「ほかの土地にゆきたい。別の海がいい。
いつかおれは行くんだ」と。
「あっちのほうがこっちよりよい。
ここでしたことは初めから結局駄目と決っていた。みんなだ。
おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。
こんな索漠とした心境でいつまでおれる?
眼にふれるあたりのものは皆わが人生の黒い廃墟。
ここで何年過したことか。
過した歳月は無駄だった。パアになった。


きみにゃ新しい土地はみつかるまい。
別の海はみあたるまい。
この市はずっとついてまわる。
(……)
まわりまわってたどりついても
みればまたぞろこの市だ。
他の場所にゆく夢は捨てろ。
きみ用の船はない。道もだ。
この市の片隅できみの人生が廃墟になったからには
きみの人生は全世界で廃墟になったさ

私の馴染んだこの部屋が/貸し部屋になっているわ/…/いかにも馴染んだわ、あの部屋/戸口の傍に寝椅子ね/その前にトルコ絨毯/かたわらに棚。そこに黄色の花瓶二つ/右手に、いや逆ね、鏡付きの衣裳箪笥/中央にテーブル。彼はそこで書き物をしたわ/大きな籐椅子が三つね/窓の傍に寝台

何度愛をかわしたでしょう。/…/窓の傍の寝台/午後の日射しが寝台の半ばまで伸びて来たものね/…あの日の午後四時に別れたわ/一週間ってーーそれからーー/その週が永遠になったのだわ (カヴァフィス「午後の日射し」中井久夫訳)