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2013年7月4日木曜日

私は「音楽」を愛する人間が嫌いなんです

糞壺に小便ひびく夜寒かな(吉岡実)


恋人よ。
たうとう僕は
あなたのうんこになりました。

そして狭い糞壺のなかで
ほかのうんこといっしょに
蠅がうみつけた幼蟲どもに
くすぐられてゐる。 

あなたにのこりなく消化され、
あなたの滓になって
あなたからおし出されたことに
つゆほどの怨みもありません。

うきながら、しずみながら
あなたをみあげてもよびかけても
恋人よ。あなたは、もはや
うんことなった僕に気づくよしなく
ぎい、ぱたんと出て行ってしまった。


                金子光晴 「もう一篇の詩」『人間の悲劇』

葛山麓糞袋もたぬかかし達(吉岡実)


「その糞尿譚では、ラブレーがよく使う言葉で「ボワヨー・キュリエ」というのがあるんですよ。解剖学的にいえば直腸のことなんでしょうが、ぼくは『糞袋』と訳すんです。そこでぼくがラブレーに一番打たれるのは、お前たちがどんなに高尚なことを言おうと、どんなに気取って深刻面をしようと、みな「糞袋」をもっている人間だということを忘れるなということを言っている点ですね。彼の作品は全体が、そのことのヴァリエションじゃないかと思うんです。神学者に対しても、宮廷の貴婦人に対しても、彼はそれをサチール(風刺)の物差しとしておりますね。カトリック教会に対しても、新教会に対しても、そんな無理をいってもだめですよ。人間は糞袋だといっているわけです。」(渡辺一夫

 ーー渡辺一夫は、もちろん大江健三郎の直接の師であり、あるいは加藤周一の精神的な師のひとりである。《私は、渡辺一夫という、一九四五年にはっきり出直すことを決心した知識人を裏切るまい、その渡辺さんをまっすぐ継がれる加藤周一の考え方に結びつきたいと考えて、文学をやってきました。》(「鼎談 加藤周一が考えつづけたきたこと」より大江健三郎)

大江健三郎の小説のグロテスクなものへの愛は、生得的なものだとはいえ、初期の彼の小説は、渡辺一夫=ラブレーのスカトロジーに促されての自由奔放さという面もあるだろう。

《「ああ、おれはシャワーを浴びたいんだよ、風呂にはいってシャワーを浴びたいんだよ。おれは気持悪いよ。おれは、女とやった次の朝はいつでも風呂にはいってシャワーを浴びるんだかなあ! 自分の精液やら女のバルトリン腺の糞やらが、おれのペニスを糊づけしてしまったみたいだよ。ああ、おれ、気持悪いよ!」

若い俳優も他のみんなもプロパンガスがすっかりなくては浴室も使用不能であることを知っていた。そしてみんな自分の皮膚が汚れきっているという不快な掻痒感にとらえられた。憎悪感の鎖は肉体的な自己嫌悪でいろどられ二重になった。俳優は道化てみるほかなくなった。

「なあ、おれは気持悪いよ、体じゅうが匂うよ! ひとりでペニスとヴァギナをもっていて、しかもふたつともに、凄く匂うやつをもっている気分だよ!」》(『性的人間』)

ーーと引用すれば、クンデラのキッチュをめぐってメモするつもりなのだから、彼の文をも引用しておこう。
「そうじゃないよ、テレザ。今度はいつもと違うよ。こんなふうに具合が悪かったことは一度もなかった」
テレザはいった。「じゃあ、いうわ。髪を洗ってきて」
トマーシュは何をいわれたか分らなかった。
テレザは悲しげに、攻撃的な調子ではなく、優しいとさえいえるくらいの口調でいった。「あなたの髪はもう何カ月もひどい臭いがするの。女の人のデルタの臭いだわ。いいたくなかったけど、毎晩毎晩誰だか分らないあなたの愛人のデルタの臭いをかがなければならなかったの
彼女がそういい終えると、彼の胃はふたたび痛み出した。トマーシュは絶望的になった。あんなに洗っているのに! かすかな臭いすら残らないように、身体、手、顔とあんなに注意深くごしごしこすっているのに。他所の浴室では香りのある石けんを避けており、どこへ行くにも自分用の自然のまま石けんを持っている。でも髪のことは忘れていた。そう、髪のことは考えてもみなかった! 
そして、彼の顔の上にまたがり、顔と頭のてっぺんで彼女を愛してくれとせがむ女のことを思い出した。トマーシュは今その女を憎んだ。あんなばかげた思いつき! 何も否定することはできなかった。ただばかみたいににやりとして、頭を洗いに浴室に行くしか彼にできることはなかった。(『存在の耐えられない軽さ』)

さて、ここまでは前置きであって(またなんという長い前置きだろうか)、以下が本題であるクンデラの引用である。


つい最近まで糞という語が本の中で ××と書かれていたとしても、これは道徳的な理由からではない。糞が不道徳であるなどと、まさか主張なさりたくはないであろう! 糞との不同意は形而上的なものである。排便の瞬間は創造の受け入れがたさを日々証明している。あれかこれかで、糞が受け入れられるか(もしそうなら便所を閉めるのを止めよう!)、われわれは受け容れがたい方法で創造されているか、二つに一つである。

以上のことから、存在との絶対的同意の美的な理想は、糞が否定され、すべての人が糞など存在しないかのように振る舞っている世界ということになる。この美的な理想を俗悪なもの(キッチュ)という。

これはドイツ語の単語で、センチメンタルな十九世紀の中頃に生まれ、すべての言語にひろがったものである。ところがしばしば使われているうちにもともとの形而上の意味を失ってしまった。すなわち、文字通りの意味でも比喩的な意味でも、キッチュは糞の絶対的否定になった。キッチュはそれ自身の観点から人間の存在において本質的に受け入れがたいものをすべて除外する。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

クンデラにとっての、キッチュな人間、あるいは俗物は、自分の視野のなかから、人間存在にあって本質的に受け入れがたいものをすべて排除する連中だ、《キッチュな人間のキッチュな欲求。それは、あばたをえくぼと化する虚偽の鏡の覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求である。》(クンデラ「七十三語」)

キッチュという言葉は、どんなことをしてでも、大多数の人びとに気に入ってもらいたいと望む者の態度をあらわしています。気に入ってもらうためには、あらゆる人びとが理解したいと望んでいることを確認し、紋切り型の考えに仕えなければなりません。キッチュとは、紋切り型の考えの愚かしさを美しさと情緒の言葉に翻訳することなのです。キッチュは、私たち自身にたいする感動の涙を、私たちが考えたり感じたりする平凡なことにたいする 涙を私たちに流させます。

どうしても気に入られ、そうすることによって大多数の人びとの関心を得なければならないという必要を考えてみれば、マス・メディアの美学はキッチュの美学にならざるをえません。マス・メディアが私たちの生活のすべてを包囲し、そこに浸透するにつれて、キッチュは私たちの美学にそして私たちの日常の道徳になっていきます。最近まで、モダニズムは紋切り型の考えとキッチュにたいする非順応的抵抗を意味していました。今日では、モダニティはマス・メディアの途方もない活力と一体になっていますし、モダンであるということは、時代に乗り遅れないようにするためのすさまじい努力、このうえなく型どおりであるよりもさらに型どおりであろうとするためのすさまじい努力を意味しています。モダニティはキッチュというドレスを身にまとったのです。(クンデラ『小説の精神』)


ナボコフがしばしば語る「ポーシュロスチ」、――「感動的で深遠で美しい」小説などのことを文学のポーシュロスチと呼ぶーー、それは「俗物」的とほぼ同義であるが、キッチュに連なる。

俗物( philistine)は成熟した大人であって、その関心の内容は物質的かつ常識的であり、その精神状態は彼または彼女の仲間や時代のありふれた思想と月並みな理想にかたちづくられている。(・・・)「ブルジョア」という言葉を、マルクスではなくフロベールの用例に従って私 は用いる。フロベールの意味での「ブルジョア」は一つの精神状態であって、財布の状態ではない。ブルジョアは気取った俗物であり、威厳ある下司である。 
 順応しよう、帰属しよう、参加しようという衝動にたえず駆り立てられている俗物は、二つの渇望のあいだで引き裂かれている。一つは、みんなのするようにしたい、何百万もの人びとがあの品物を褒め、この品物を使っているから、自分も同じものを褒めたり使ったりしたい、という渇望である。もう一つは排他的な場、何かの組織や、クラブ、ホテルなどの常連、あるいは豪華客船の社交場(白い制服を着た船長や、すばらしい食事)に所属し、一流会社の社長やヨーロッパ の伯爵が隣に座っているのを見て喜びたい、という渇望である。(『ロシア文学講義』)


キッチュが呼びおこす感情は、もちろんそれを非常に多数の人が分け合えるようなものでなければならない。従ってキッチュは滅多にない状況に基づいてはならず、人びとが記憶に刻み込んだ基本的な姿に基づいていなければならない。恩知らずの娘、問題にされない父親、芝生を駆けていく子供、裏切られた祖国、初恋への思い出。》
キッチュなものは続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ! 

第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類を感激を共有できるのは何と素晴らしいんだろう!

この第二の涙こそ、キッチュをキッチュたらしめるものである。

世界のすべての人びとの兄弟愛はただキッチュなものの上にのみ形成できるのである。

世の中に政治家よりこのことをよく理解している人はいない。政治家は身近にカメラがあると、すぐ一番近くの子供に駆け寄り、その子を高く持ち上げて、頬にキスする。キッチュなものはあらゆる政治家、あらゆる政党や運動の美的な理想なのである。

……この見地からすれば、いわゆる強制労働収容所(グラーク)も、全体主義的キッチュなものがごみを捨てるための浄化槽のようなものとみなすことが可能である。(『存在の耐えられない軽さ』)

クンデラにとっては「音楽を愛する人間も俗物」(後詳述)である(クンデラの主要小説のテーマは、キッチュ批判、俗物批判、紋切型批判としてよい、そしてそれは、フローベール、ブロッホ起源のものだ)。

《フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあれば、またもっとも言語道断なことは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさもまた進歩する! ということです。》(クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』所収)

フローベールは、一八五二年の暮れ、年上の女友達に書簡で、『紋切型辞典』の構想を書き綴り、「あらゆる主題について、 アルファベット順に、礼節をわきまえた慇懃無礼な人間たりうるために人前で口にすべきすべてのことがらが列挙されるはず」と予告しおり(蓮實重彦『物語批判序説』による)、それはまた、「多数派がつねに正しく、少数派がつねに誤っていると判断されてきた事実を示す」のが目論見であり、あるいは「文学については、凡庸なものは誰にでも理解しうるが故にこれのみが正しく、その結果、あらゆる種類の独自性は危険で馬鹿げたものとして辱めてやる必要がある、ということを立証したのです」と書かれていることからもわかるように、クンデラが語る「愚かさ」は、同じフローベール読みである蓮實重彦文脈では「愚鈍」ではなく「凡庸」であって、次の一節でそれはいっそう明瞭になる(蓮實の「愚鈍」とは、無知に徹することで物語を宙に迷わせること)。

フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、先入見の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの先入見のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの先入見はコンピューターに入力され、マス・メディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。(「エルサレム講演」)

もっとも、だれであっても、いささかの凡庸さ、俗物性を免れるわけではない。たとえばラカンの”I am only relatively stupid”は、「わたくしは、ただほどほどに俗物(凡庸)なだけです」、とすることができるだろう。
《Vers un signifiant nouveau” with: “I am only relatively stupid—that is to say, I am as stupid as all people—perhaps because I got a little bit enlightened?”  One should read this relativization of stupidity—“not totally stupid”—in the strict sense of non‐All: the point is not that Lacan has some specific insights which make him not entirely stupid. There is nothing in Lacan which is not stupid, no exception to stupidity, so that what makes him not totally stupid is only the very inconsistency of his stupidity. The name of this stupidity in which all people participate is, of course, the big Other.》(ZIZEK" LESS THAN NOTHING)

ーーこの文は、ラカンの非-全体の論理を理解するうえでも、愉快な例である。(参照:「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より)


あるいは、《篁さんの音楽こそは純粋芸術で、キッチュなどとは無縁だなどというのじゃあるまいね? 篁さんに最後の愛想をつかされることがあったとしたら、古義人がついにセンチメンタルになって、そう言い張ろうとする時だったぜ》(大江健三郎『取り替え子』)--「篁さん」とは、もちろん武満徹がモデルである。そしてこの発話文は伊丹十三がモデルの吾良の自死後、古義人が録音テープで聞く彼の声であり、この文の直前にはランボーを引用してこうもある、《とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。> いま、このくだりがおれにはじつに身にしみるよ。古義人、きみもそうじゃないか? おれたちのような職業の人間にしてみれば……キッチュの新しい花、キッチュの新しい星を切り売りしてきた人間にしてみればさ、年の残りも少なくなって、こういう覚悟に到るほかはないじゃないか!篁さんはどうだったろう? 》

いずれにせよ、人はその多寡は別にして、生きていくためには、キッチュ、あるいは俗物でなければならない。

音楽はヨーロッパ人に感性を教えたばかりでなく、もろもろの感情と感性的自我を尊ぶ能力をも教えた。(……)音楽。魂をふくらませるポンプ。異常発達し、並はずれて大きな風船となったいくつもの魂がコンサートホールの天井を下をただよい、信じがたい雑踏のなかでぶつかりあう。 
マーラーは、まだ率直に、そして直接にホモ・センチメンタリスに訴えかける最後の大作曲家である。マーラー以後、音楽において感情はうさんくさいものになる。ドビッシーはわれわれを魅惑しようとはするが、心を揺りうごかそうとはしないし、ストラヴィンスキーは感情を恥じている。(クンデラ『不滅』P311-312

ーーホモ・センチメンタリスについては、ホモ・ヒステリクス(クンデラ、ロラン・バルト)を参照。《ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。



《僕はショパンの葬送行進曲を聞きながら死ぬより、 子供の片言を背景にして死にたいね。 そしてこれも言っておこう。 悪のすべては、 死の賛美であるあの葬送の行進から来ているのだとね。 葬送がもっと減れば人は、 もっと死ななくなるだろう。 》(『不滅』)


ほかにも、 《『笑いと忘却の書』 の中には、 ヤナーチェク音楽院の院長を務め、 ベートーヴェンに関する研究を残した音楽学者であったクンデラの父の死の場面が描かれているが、クンデラは、それを「インターナショナル」を歌うピオニール協会の子供たちを交錯させながら描いている。 フサークが 子供のみなさん! みなさんは未来です 「子供のみなさん、けっして後ろを見てはいけません!」と叫ぶ声が父の病室にまで届いてくる。子供をうまく政治的な祝祭に取り込む共産主義の、一種硬直した盲目的進歩主義が、一人の人間の死と重ね合わせられることによって、 浮き彫りになっていく。 そして、 クンデラの父が亡くなる 1年前、息子に連れられ散歩に出かけた折り、ソ連軍占領下のチェコで、至るところに据え付けられたスピーカーから無節操に流れる騒音と化した音楽、 「歴史の重荷を忘れ、生きる喜びに身を任せるよう人々を誘う」その騒音を耳にしたのち、父が「音楽の愚かさだよ」という言葉で、何かを伝えようとする、というエピソードが語られる。辛そうに、やっとの思いで発せられた父の言葉を息子であるクンデラは解釈しようとするのだが、その件は以下のようである。》

彼はそれで何を言いたかったのか? 一生の情熱であった音楽を侮辱したかったのだろうか? いや、そうではない。音楽の原初の状態というものが、音楽の歴史に先立つ状態というものが、初めての問い、初めての省察、一つのテーマと一つのモチーフとの戯れという考え以上の状態というものがあると言いたかったのだと私は思う。音楽のそうした原初形態(思想のない音楽)のなかに、人間の実体と不可分の愚かさが反映される。 音楽がそうした原初的な愚かさを越えた所にまで高められるためには、 精神と心情との計り知れない努力が必要だった。 それなのに、 数世紀に渡ってヨーロッパの歴史に張り出していたその素晴らしいカーブが、 ちょうど打ち上げ花火のように軌道の頂点で消えてしまったのだ。 音楽の歴史は死を免れないが、ギターの愚かしさのほうは永遠だ。今日、音楽は元々の状態に立ち戻った。それは最後の問いと最後の省察のあとに来た状態、歴史のあとに来た状態なのだ。(安永愛『「ヨーロッパ」という寓話――ミラン・クンデラをめぐって』より)


さて、ここで、すこしだけ立ち止まって、以下の文の「動物」を「音楽」に置き換えてみようじゃないか。《私は音楽を愛する人間が嫌いなんです》――サルトルの態度は、《私は人類を愛する人間が嫌いなんです》であり、これもキッチュ批判、俗物批判ではないか、《世界のすべての人びとの兄弟愛はただキッチュなものの上にのみ形成できる》のが正しいならば。


たしかにサルトルは、『嘔吐』の中のアントワーヌ・ロカンタンのように社会のある種のカテゴリーの人間を嫌っていたが、しかしけっして全般的な人類ではなかった。彼の厳しさは、へつらう職業の者だけを対象としていた。何年か前のこと、十匹ぐらいの猫を飼っているある婦人がジャン・ジュネを咎めて尋ねた。

《あなたは動物が嫌いなんですね》

私は動物を愛する人間が嫌いなんです

とジュネは答えた。これこそまさしくサルトルが人類に等しくとった態度なのであった。(ボーヴォワール『女ざかり』上   p138 紀伊國屋書店 朝吹登水子 二宮フサ 訳)

誰もがインターネットに書き込めるようになった時代、そこに生じるいっそうの「私は音楽が好きなんです」、「私は文芸愛好家なんです」という類の種族の媚び諂いの発話の頷き合いが、 「愚かさの進歩」の歩調を速めていないかどうか、一瞬でも振り返ってみようじゃないかい、《……もろもろのオピニオン誌の凋落は、「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない」といういささか性急ではあるがその現実性を否定しがたい社会的な力学と無縁でない。そんな状況下で、人がなお他人のブログをあれこれ読んだりするのは、それが「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いている」という安心感を無責任に享受しうる数少ない媒体だからにほかならず、「羞恥心」のお馬鹿さんトリオのときならぬ隆盛とオピニオン誌の凋落とはまったく矛盾しない現象なのだ。……。》(「闇黒日記」より)ーーブログでさえこうなのだ、ましてやツイッターなどではいっそうのことだ。二一世紀に入っても、ブログからツイッター(あるいはフェイスブック)に進歩して、「愚かさもまた進歩する!」


ツイッター、俗物性をふりまく場(例外はあるぜ)。鼻をつまんでもまだ臭い。あの場でお上品に『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先する(参照:共感の共同体)かのごとく振舞う連中は、まさにキッチュであり俗物の鑑であるだろう。そして、その「社会にはりめぐされている権力関係の外部にいると信じる者たちの振舞いの政治性」、あるいは「混乱に対して共感を示さずにおくことの演じうる政治性に無自覚であることの高度の政治的選択」(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)、--連中の態度は、もっとも政治的に利用されやすいのではないかね。繰り返せば、「営業活動」のために、俗物であるのはある程度やむえない。だがディレタントとしての発話の場まで、他者の関心を惹くことに専念するかの如き振舞いは、ロラン・バルトが称揚したアマチュアとはまったくかけ離れた存在の仕草だ、ーー《アマチュアという立場の非常に大きな利点は、想像界やナルシシズムを含まないという点です。 アマチュアとしてデッサンをしたり、 色を塗ったりするとき、デッサンしたり絵を描いたりすることで自分に付与される イメージだの「イマーゴ」だのには頓着しません。したがって、解放感が あります。文化や教養からの解放だと言いたいくらいです。フーリエ流の ユートピアに通じるものです。他者に惹起するであろう自己のイメージを忖度することなく人々が行動するような文明と言いましょうか。 実践的観点から見て大変重要なこのテーマを理論に転用しますと、来るべき社会、すなわち完全に疎外を免れた社会というのを想像することができます。》(バルト)

むしろ彼らはファシストの一員となる素質があるかのようだぜ

イギリスの傑出したワグネリアンであるジョン・デスリッジは,かつて次のような注目すべき事実を強調した.ヒトラーが好んだワーグナーのオペラは,露骨にドイツ的な《マイスタージンガー》でも,東方の野蛮な遊牧民からドイツを防衛するために武器を取ることを訴える《ローエングリン》でもなく,名誉や恩義などの象徴的義務にみちた日々の生活という昼を捨て去り,人を夜に埋没させて自己の死を恍惚として受容させる傾向をもつ《トリスタン》だった,ということである.キルケゴール流に言うならば,この「政治的なものの美的な宙吊り」こそが,まさにナチのとった態度の背景としてのファンタスムの中核を成すのだが,そこで重要であったのは何か政治以上のもの,美的なものと化して人を恍惚に誘うある共同体的体験であり,その典型的な例としてニュルンベルクの政治集会で夜な夜な行なわれた儀式をあげることができるだろう.(ジジェク「『アンダーグラウンド』、あるいは他の手段による詩の継続としての民族浄化」)

《ロラン・バルトは不慮の事故で亡くなる前年、マルセル・ボーフィスの『シューマンのピアノ 音楽』に序文を寄せ、当時(1979年に出版されている)のフランスでの音楽的状況、「私」よりも「私たち」について表現する集団的で大衆的な激しい音楽(マーラーやブルックナーをあげている。確か日本でもマーラーなどが流行ったような気もする)を好む傾向に対し、シューマンの「私」に向かう音楽表現 を「反時代性」の哲学だと評している。》(−子供の情景プロジェクトの終了にあたって

かつての彼には、何と英雄的で、誘導者的なみぶりがつきまとっていたことだろう! 
《エロイカ交響曲》といわなくとも、《アパッショナータ・ソナタ》にしても、《皇帝協奏曲》にしても、あすこで叫び、とびはねていたのは、常人並み以上の存在だった。その超人ぶりは「瞑想」の時でさえ、失われていなかった。同じころ書かれ、以上のような記念碑的なものではない作品、たとえば、《ラズモフスキー四重奏曲》をとってみて、作品五十九の一のヘ長調のアダージョ・モルト・エ・メストを、後期の四重奏曲の中の同じヘ長調の曲、つまり作品一三五の中の緩徐楽章レント・アッサイ、カンタンテ・エ・トランクィロとくらべてみるがいい。ふたつは、ともに最も典型的なベートーヴェンの緩徐楽章に属する。というより、最もベートーヴェン的なるものが、そこにあるのだが、そうであって、同時に両者の間にあるちがいの大きいこと。前者では、彼は、声をあげて泣いていた。その泣き声は泣いている間も、ずっと彼の耳から離れない。彼が誇張したとはいわないが、その泣き声が、どんな影響をきく人に与えるかを、彼はよく知っていた。ところが、後者ではすすりなきさえ、もう、ない。ただ、声はきこえなくても、彼の両眼には涙が光っている。(吉田秀和『私の好きな曲』上 P10)

《その泣き声が、どんな影響をきく人に与えるかを、彼はよく知ってい》る人びと、ここにもホモ・センチメンタリスがいるのであり、つまりは感情を価値に仕立て、ひけらかそうとする人びとの振舞いの巧みな表現がある。

もっとも、この文の内容自体、中期のベートーヴェンを敬遠して後期(それに最初期)を持ち上げるスノッブたちのクリシェとして流通したものであろうが、ショパンを敬遠してみせるスノッブたちと同様に、今でもある世代以上の「音楽愛好家」に生き残っている「思い込み」だろう、《ちょうど、ラヴェルとドビュッシーというと、ラヴェルの同じように人工の極ともいうべき完璧な書法に感嘆しながらも、破綻があり、より独断的でさえあるかも知れないドビュッシーに、本当の天才を感じ、特に、ドビュッシーのより自由で豊かな精神の動きを愛さずにいれらなかったように、ショパンを、ベートーヴェンより深刻なものとうけとったり、シューマンよりすぐれた芸術家とみることは、私にはどうしてもできない。》(吉田秀和)ーーかつてはことさらスノッブであった<わたくし>は、ショパンや中期ベートーヴェンの演奏会のチケットをもっていたら、女友達に馬鹿にされないように隠していたぜ

会話は世論を正しく知るために必要であるというよりもむしろ新しい言葉遣いを正しく知るために必要なのである。(……)私はわざわざ彼女の姑に話しかけながら、ショパンは流行おくれになっているどころか、ドビュッシーがとくに好んでいる作曲家であると告げた。「おや、それはおもしろいじゃありませんか」と嫁は微妙な笑顔で私にいった、そんなことは、『ペレアス』の作者が投げつけた逆説でしかない、とでもいうように。それでも、もういまからは、彼女は尊敬のみか快楽をさえ抱いてショパンをきくであろうことはたしかだった。だから、私の言葉は、未亡人にとっては解放の鐘を鳴らしたことになり、彼女の顔に、私への感謝と、とりわけ歓喜とのまじった、一種の表情を浮かべさせた。(プルースト「ソドムとゴモラ」Ⅱ 井上究一郎訳)



《高橋悠治:それはね、だけど、ある種の音楽を権力が利用するってことは言えるんですが、じゃあその音楽自体は何なのか。ミラン・クンデラが書いていたのを思い 出したんだけど、チェコのフサークが大統領がポップ歌手を記念式典に呼ぶ話、やっぱり、ポピュラリティーを持つということは、そういう人に呼ばれなくって も、そこにもう権力構造が在る、そういう自覚が無いのは、ミュージシャンですね(笑)。》(「音楽の時間」―高橋悠治・今福龍太 音楽を句読点とした対話―


ーーなどと引用しても、俗物の典型性は、いささかも例外的ではないにもかかわらず自分を例外的だと錯覚しうる魂(機銃掃射で ひとり残らずぶっ殺してやりたい(谷川俊太郎))なのだから、どこ吹く風なのであって、もっともタチの悪いのは、《世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿>(小林秀雄)ーーつまり世の中で一番始末に悪い俗物、背景に学問を持った俗物なのであり、「愚かさは進歩する!」。ーーやはりフローベールの発見はマルクスやフロイトのものよりも重要なのさ

さあ、俗物の鑑ども、<とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。>ーーきみたちに、「出発」ができるかね? いや、無理強いをするつもりはないし、かりにそうしたってきみたちは変わりようはない、そもそも自覚がないのだから。俗物性は骨まで浸み込んでおり、「感動的で深遠で美しい」キッチュがきみたちの生き甲斐なのをよく知っている、キッチュに気づかないのは致し方ないのだ、だが「糞袋をもたぬかかし」として振舞ったら重症だぜ、やめとけ、お上品ぶるのだけは!

オレかい? オレはラカンとともに、「わたくしは、ただほどほどに俗物(凡庸)なだけです」と呟いておこう。つまりいささか例外であると錯覚しているタチの悪い俗物さ。まあ、鼻を抓みながら、きみたちの末席に座らせてもらうよ。いまだ俗界から出発など到底できはしないぜ、「異教の世界へ降りてゆく」とか「ちいさな群れへの挨拶」とかの「偽の出発」の挨拶をして、コムデギャルソンのちゃんちゃんこきて戻ってくるよりましだろ

まあこのあたりは半ば冗談なのだが(気をつけろ! キッチュの属性は、「アジェラスト(笑わない者、ユーモアのセンスのない者)」、もう1つは「紋切り型の考えの非 -思考」らしいからな)、「偽日記」の書き手曰く、「自分の中に棲む」系と「社会的関係の中に棲む」系の人があって、異星人で互いに理解できないっていう見解もあるしな。これはオタク系とキッチュ系とでもしておくよ


ところで、ブログには題名つけたらだめらしいぜ、題とは惹句であり、やっぱり媚び諂いだからな、許せるのは題そのものが詩に含まれる感触のある西脇順三郎の「天気」ぐらいだな(天気/(覆された宝石)のやうな朝/…)太字強調なんて最悪なのだがね、老眼進行中でね

題なんかどうだっていいよ
詩に題をつけるなんて俗物根性だな
ぼくはもちろん俗物だけど
今は題をつける暇なんかないよ

題をつけるならすべてとつけるさ
でなけりゃこんなところだ今のところとか
庭につづじが咲いてやがってね
これは考えなしに満開だからきれいなのさ
だからってつつじって題もないだろう

つつじのこと書いてても
頭にゃ他の事が浮かんでくるよ
ひどい日本語がいっぱいさ
つつじだけ無関係ならいいんだけど

魂はひとつっきりなんでね
ーー谷川俊太郎 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」


さて、いったい何がいいたいのだったか
ジュネとともに、つまり動物への愛をひからかす人間が嫌いなのと同様、音楽への愛をひけらかす人間が嫌いなんだということだ、「感動的で深遠で美しい」、それだけだったらいい、それに自己陶酔しつつ他人と共有する仕草がキッチュであることに無自覚な輩に反吐が出るということだ、ーー《キッチュなものは続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ! 

第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類を感激を共有できるのは何と素晴らしいんだろう!

この第二の涙こそ、キッチュをキッチュたらしめるものである。》ーーわかるかい? わかんねえだろうな、骨まで滲み込んでいる連中には。


感動的だわ! 深遠だわ! ああ、美しい! 言葉にならない! --そもそも「言葉にならない」なら、そんな言葉を発語するメタ言語の内実は、こんなわたくしをみて! との「ひけらかし」に過ぎないのは決まりきっているじゃないか、《すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているかをも伝達する》(ジジェク)

ーーそんな手合いに遭遇してしまった場合、キッチュや俗物ではいい足らない、今後、「ファシストの卵」と呼ぶことにしよう