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2013年7月18日木曜日

アンドレ・ブルトンとその女たち


自由な結合(抜粋)  アンドレ・ブルトン (松浦寿輝訳)

わたしの女の 森の火事の髪の毛
熱の閃光の思念
砂時計の胴
わたしの女の 虎の歯と歯の間のかわうその胴
わたしの女の 最下等の大きさの星々のリボン飾りと花束の口
白い地面の上の白い鼠の足跡の歯
こすられた琥珀とガラスの舌
わたしの女の 短刀に突き刺された聖体パンの舌
眼を開け閉じする人形の舌
信じられない石の舌





《私は誰か? 珍しく諺にたよるとしたら、これは結局、私が誰と「つきあっている」かを知りさえすればいい、ということになるはずではないか?》(アンドレ・ブルトン『ナジャ』巖谷國士訳)


さて、表題はアンドレ・ブルトンと彼の女たちなのだが、まずはいささか寄り道して、レヴィ=ストロースとアンドレ・ブルトンの亡命船のなかでの有名な出会いの箇所をその前後をふくめて『悲しき熱帯』から抜き出す。







《マルセーユの港で耳にした話から、私は、一隻の船が間もなくマルティニックに向けて出発するはずだということを知った。ドックからドックへ、密談の交わされている場所から場所へと渡り歩いて、私はついに、問題の船は、それに先だつ数年間、ブラジルへのフランスの大学使節の人々が忠実な乗客としてほとんど独り占めにしていた、あの「海洋運送会社」の船であるということを突き止めた。冬の北風の吹いている一九四一年の二月、私は、暖房もなく七分通り閉鎖されている事務所で、かつて会社からいつも私たちのところへ挨拶に来ていた職員を見つけた。まさしくあの船はいた。そして、あの船は出航しようとしているのだ。それなのに、私は乗ることができない。なぜ? 私には納得が行かなかった。彼は私に説明できなかったーーもう、前のような船旅はできないでしょう。それなら、どんなふうになったというのだ? ああ、それはたいへん長くて苦しい旅ですよーー彼は私のことを、そんな状態で想像してみることもできなかったのだ。

この気の毒な男は、かつてフランス文化の小型大使であった私を、まだ思い浮かべていたのであろう。一方私は、もう自分が、強制収容所の獲物になったように感じていた。(……)相手の気遣いは、かえって私を困惑させた。私は広々とした海の上で、当てもなく彷徨う自分という存在を取り戻すことを想ってみた。密航船に乗り込むという冒険に投げこまれた一摑みの水夫たちと、作業や粗末な食事を分け合うことを許され、甲板に眠り、来る日も来る日も海と何の気がねもなく差し向いで暮らす、そんな私の存在を想ってみた。




ついに私は、「ポール・ルメルル大尉号」の切符を手に入れた。乗船の日、鉄兜をかぶり、軽機関銃を握りしめた機動部隊の兵士が埠頭を取り巻き、乗船者は、見送りに来た近親や友人たちからまったく遮られ、兵士たちの小突かれたり怒鳴られたりしながら、別れの言葉もおちおち交わしてはいられなかった。その兵士たちの人垣をくぐり抜けながら、ようやく私にも事態が吞み込めてきた。そこに始まろうとしていたのは、まさしく乗船者一人一人の孤独な冒険であった。それはむしろ、徒刑囚の出発というべきものであった。私たちの受けた取扱いよりも、乗船客の人数に私は唖然としてしまった。というのは、まもなく気付いたのだが、二つの船室しかなく、簡易ベッドが合計しても七つというこの小さな蒸気船に、およそ三百五十人もの人間が詰め込まれようとしていたのだから。二つの船室の一つは三人の婦人に当たられ、他の船室は四人の男性に割り振られることになったが、そのうちの一人に私もはいっていた。かつての豪華な船の客の一人が、家畜のように運搬されるのを見るに耐えなかったB氏(私はここでB氏に感謝したい)の好意によるものであったが、これは過大な好意というべきであった。なぜなら、私と一緒に乗船した他の人たちは、男も女も子供も、通風も悪く明りもない船艙に詰め込まれたからである。そこには、大工が俄造りで組み立てた、藁布団付きの、何段にも重なった寝台があった。(……)

          (André Breton and his daughter Aube, c. 1940)


「賤民ども」――憲兵はそう呼んでいたがーーの中には、アンドレ・ブルトンやヴィクトール・セルジュも含まれていた。この徒刑囚の船をひどく居心地が悪く感じていたアンドレ・ブルトンは、甲板に空いている極めて僅かの部分を縦横に歩き回っていた。毛羽立ったビロードの服を着た彼は、一頭の青い熊のように見えた。彼と私とのあいだに、手紙の遣り取りによって、その後も続いた友情が始まろうとしていた。手紙の遣り取りは、この果てしない旅のあいだかなり長く続いたが、その中で私たちは、審美的に見た美しさというものと絶対的な独創性との関係を論じた。

(……)熱帯に近づくにつれて増してゆく暑さが、船艙にいることを耐え難くしたので、甲板は次第に、食堂と寝室と育児室と洗濯場と日光浴場とを兼ねたものに姿を変えて行った。しかし、最も不快だったのは、軍隊で「衛生管理」と呼ばれているものであった。甲板の欄干に沿って左右対称に、左舷は男性用、右舷は女性用として、乗組員が木の板で喚起窓も灯りもない二対の小屋を拵えておいた。小屋の一つには、朝だけ水が出るシャワーの口が幾つか取り付けられていた。もう一つには、内側だけざっとトタン張りになった長い木の溝が、海の上に突き出ていたが、その用途は説明するまでもないであろう。このあまりにひどい混雑に耐えられず、大勢そろってしゃがむことがどうしても嫌ならばーー第一、それは船の横揺れのために不安定なものだったーー、非常に早起きをする以外に手立てがなかった。航海のあいだじゅう、感覚の細やかな人々のあいだに一種の競争が行われるようになり、遂には、午前三時に行かなければ比較的静かに用を足すことを期待できなくなった。おちおち寝てはいられないようにさえなった。二時間くらいのずれはあったが、シャワーについても事情は同じであった。シャワーに関しては、用便の場合のような羞恥心の配慮からそうなったというより、人混みの中に自分の場所を取ることが先決だったのである。もともと少ししかない水は、大勢の湿った体の触れ合いで蒸発してしまうかのように、膚に流れて行きさえしなかった。用便もシャワーも、人々は早く済ませて外へ出ようとした。なぜなら、これらの通風孔のない仮小屋は、切ったばかりで樹脂の出る樅の木の板で作られていたが、汚水や尿や海の風が染み込んだために、太陽の下で、なま暖かくて甘酸っぱい、吐き気を催させるような臭いを放ちながら腐り始めていたからである。その臭いは他の臭気に加わって、たちまち耐え難いものになった。とくに、海にうねりのある時はそうだった。》(レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』「船で」P17-P23 川田順造訳)


「賤民ども」の中には、アンドレ・ブルトンがいた、とある。だが当時のブルトンの妻子、ジャクリーヌとオーブはどうだったのか。一緒に米国への旅に加わったのか、という問いから、いくらか調べてみる。ジャクリーヌがユダヤ系であったかどうかは不明。だが娘はユダヤ系であるには相違ない。

Escape lines and aid to refugees are now considered the first resistance activities in Marseille, though not so much political and ideological as humanitarian. From mid-August 1940, American journalist VARIAN FRY and his rescue committee (with both official and clandestine activities) helped some 1,500 artists and intellectuals, many Jewish, including André Breton, Claude Lévi-Strauss, Anna Seghers, Arthur Koestler, Marc Chagall and Max Ernst to flee to the USA. (Marseille - the first Capital of the Resistance)



   (ブルトンの二番目の妻Jacqueline Lamba左は若きジャコメッティ)



《1941 年にブルトンはアメリカに向かうことになるのだが、 この時はジャクリーヌとオーブ(娘)も同行している。ところが 1941 年の秋には、ブルトンとジャクリーヌは別居することになる。そして 1943 年の夏にジャクリーヌはアメリカ人の彫刻家であるデヴィド・ヘアと生活を共にするようになる。このような状況の中、1943 年の 10  10 日頃にブルトンはレストラン・ラレーズでエリザと知り合うことになる。


                    (Elisa Claro, retrato de Jorge Opazo 1940)


1944 年の 3  8 日にブルトンはパトリック・ワルドバルグに手紙を書いているのであるが、その中で秘法 17 番について本を書こうとしていること、その中でモデルとして自分の好きな女性を取り上げるとしているのであるが、その女性こそエリザであり、ブルトンにとって第三の妻となるのである。ブルトンとエリザは共にヴァカンスを過ごしたりするのであるが、この時期ブルトンは『秘法 17 番』を書き、1945 年の 6 日にはエリザにこれを捧げている。この時期においてブルトンとエリザは実質的には夫婦同然であったと思われるが、アメリカにおいては法的に結婚していないことでの煩わしさもあったようで、離婚と結婚という手続きをとることに決め、1945 年の 7  30 日、ジャクリーヌと離婚し、 エリザと結婚している。》(アンドレ・ブルトンにおけるシュルレアリスム的 エクリチュールと女性たちの関係  加藤彰彦より)


“waking dream”, séance de réve éveillé photographed by man ray, 1924
seated: simone breton(Simone Kahn), left to right: max morise, roger vitrac, acques-andré boiffard, andré breton, paul éluard, pierre naville, giorgio de chirico, philippe soupault, jacques baron & robert desnos



《……実はナジャと出会ったころのブルトンは妻のシモーヌとうまく行っていなかったようである。シモーヌ・カーンとは一九二〇年七月に出会って二一年九月十五日に結婚した。ブルトン二十四歳。

      (ブルトン第一番目の妻シモーヌ・カーンSimone Kahn)


それから六年、どうやら倦怠期だったのか、ナジャは単なる風変わりな娘ですんだが、一九二七年の末頃にシュザンヌ・ミュザールに出会って激しい恋に落ちた。シュルレアリスムのグループも分裂と再編成がはじまる時期である。『ナジャ』の最後の美に関する考察はどうやらシュザンヌに首ったけになっている時に書かれたようだ。(……)》




    シュザンヌ・ミュザールSuzanne Muzard, マン・レイ撮影)


《しかしシュザンヌには、一九三〇年九月、三年足らずのつき合いであっさりと捨てられた。ブルトンはかなりショックだったらしい。一九三四年五月、ジャクリーヌ・ランバと出会い、八月にはめでたく結婚にこぎつけた。》




(Leon Trotsky, Diego Rivera, and André Breton,Jacqueline Lamba, Mexico, 1938)



結局、娘オーヴをもうけたジャクリーヌとも一九四五年六月に離婚し、エリザ・クラロ(Elisa Claro)とアメリカのネヴァダで結婚した。四十九歳、……。

ーーポンピドゥ・センターの『アンドレ・ブルトン』展図録(一九九一年)より。(「美は痙攣であるかないか」より)





《Kahlo did have some material as well as artistic and personal connections with the French Surrealists. André Breton and his wife Jacqueline Lamba, with whom Kahlo had an intimate love affair, were among the French Surrealists that she encountered. Whilst on a trip to Mexico, Breton invited Kahlo to France to exhibit her work to the European artistic fraternity and general public but, taking up the invitation, she found upon her arrival that nothing had been organized by Breton and it was only with Marcel Duchamp's help that the exhibition went ahead.》 (Carpentier, 1949 Frida Kahlo: An Artist 'In Between' Anna Haynes (Cardiff University)






《ブルトンを初めとするシュルレアリストたちは、自分たちの集まる場所をシュルレアリスム本部と呼んでいたのであるが、この本部には様々な人が訪れていて、その中にオールド・イングランドの経営者と離婚したリーズ・メイエ(リーズ・ドゥアルム)がいた。アンリ・ベアールによると、 「あまりにも感受性が強すぎる男性たちを悩ませるというあだっぽい女性たちが持つこの才能でもって、 リーズ メイエはブルトンを手玉にとり、 それで彼はうろたえてしまう。 」》(AB p.195)



           (Lise Meyerリーズ・メイエ)


《アンリ・ベアールによると、 「まさに誘惑そのものであり、 ブルトンにとってリーズ・メイエは永遠にシバの女王であるだろう。 (AB p.195) ということであるが、ブルトンのテキストの中に彼女の存在を具体的に物語る記述を見出すことはできない。

この次に現われるのがナジャであって、(……)経緯としては次のようなものである。1926 年の 10 4 日にブルトンはナジャと出会うことになり、10 13 日まで毎日会うが、それ以降は間隔があくことになる。1927 年の 2 月中旬には、 ナジャとの関係が中断する。 そしてこれ以降は 『ナジャ』 の執筆へと至るわけである。





ここにおいて明らかなことは、ナジャのことでブルトンは翻弄されるとか思い悩むということはあまりなかったのではないかと思われることだ。むしろブルトンは既に言及したリーズ・メイエに翻弄されていて、 1927 年の秋頃には彼女との関係を断ち切っている。 これはブルトンが愛情を注いでいるにも拘らず、それを台無しにしてしまう彼女の意地悪さと無理解が原因であるらしい͈͑。》(K)




リーズ・メイエ Lise Meyer (旧姓イルツ Wirtz )と名のっていた頃の「手袋の貴婦人 dame au gant 」にブルトンは夢中になり、彼女に軽くあしらわれていると分かってさえも、なおブルトンは自分の熱烈な愛情を彼女に表明した。

しばらくシュルレアリスムの影の女王とみなされ、彼女の雑誌『ヌイイの灯台 Le Phare de Neuilly 』(1933年)にはデスノス、ヴィトラック、クノーら運動の離反者を迎え入れたにもかかわらず、どんな騒ぎもおこすことはなかった。
アルトーとはとくに親密で、彼女は最大限の援助をした。(リーズ・ドゥアルム Lise Deharme 1898-1980)



《『ナジャ』の第一部を雑誌で発表したのが 1927 年の秋であり、直前にはシモーヌとの関係の悪化、リーズ・メイエとの関係の断絶があったわけであるが、この『ナジャ』の発表の後 11 月にはシュルレアリストたちが集まるカフェでシュザンヌ・ミュザールと出会い、お互いに惹かれ合うことになる。当時シュザンヌは雑誌の編集長でもあった。


       (André Breton et Suzanne Muzard rue Fontaine)

エマニュエル・ベルルの愛人だったのであるが、ブルトンとシュザンヌは二人で南フランスに出かけている。12 月半ば経済的事情もあり、二人はパリに戻り、シュザンヌはベルルとよりを戻すのであるが、ブルトンにしてみればシュザンヌは離れてしまったわけではないという意識がある。このあたりのことは具体的ではないながらも『ナジャ』の第三部において書かれていて、シュザンヌは「君」という呼びかけのもとブルトンにとって唯一無二の女性として表現されている。(……)
  
1931 年の初めにはブルトンはシュザンヌと決定的に破局することになるわけだが、 これは主としてブルトンの経済的問題があって、シュザンヌがそれに満足できなかったためらしい。》





《1934 5 29 日にブルトンは第二の妻となるジャクリーヌ・ランバと出会うことになる。第一章においては、実際の妻であるシモーヌの他に数々の愛人が存在し、ブルトンは本当のところ誰に愛情を注いでいたのかよくわからないといった具合であったが、このジャクリーヌとの関わりが始まってからは、少なくとも資料によれば他に愛人がいたということはないようである。ブルトンはジャクリーヌに頻繁に手紙を出し、また実際に会ってもいたわけで、彼女との関係は密接なものになっていく。 そして 1934 年の 8 14 日に二人は結婚することになる。 このことについては、 ブルトンは『狂気の愛』の中において明らかにしていることは既に指摘した通りである。1934年の 10 月には『水の空気』を刊行するのであるが、これはジャクリーヌに向けて書かれたものであることがわかる。ただそれは様々な状況から判断した上でのことで、それらを抜きにしてテキストからだけでそれを判断することは不可能である。つまりそこには一般的なものとして昇華された愛が表現されているということなのである。ブルトンとジャクリーヌの関係は順調であったようで、楽しく過ごしている様子が窺える。1935 年の 10 20 日には、娘のオーブが生まれる。ところが 1936 年になると、ブルトンとジャクリーヌの関係は悪化し始める。

               (Jacqueline Lamba und Frida Kahlo 1938 in Mexiko)



突然不和になり、ジャクリーヌはフォンテーヌ通りのブルトンの自宅を出て、田舎に行ってしまうということがある。ところがまたその危機は解消されるといった具合で、ブルトンは終始愛情を注いでいることがわかる。このような不安定な関係はそれ以後も続き、資料によればジャクリーヌとオーブがいつどこで過ごしたかが記されるようになる。つまり家族三人揃って幸せな日々を過ごしたということではないようだ。この不和の原因についてブルトン自身よくわからなかったようだが、 アンリ・ベアールの指摘によれば次のようなことが考えられる。 「国際的な状況が、人民の議論の余地のない圧勝にも拘らず、憂慮すべきであるとすれば、ブルトンのそれもまさに同様である。資金がなく、ブルトンは<美術評論家>の資格で、文部省に援助を願い出なければならなかった。 美術学校の方針で、 ブルム政府就任の当日、 2000 フランの貸付けがブルトンに渡された。それでもって、ブルトンはロンドンに赴き、ロリアンで滞在することができたのである。揉め事がジャクリーヌとの間に生じて、ブルトンはそれらがある種の場所の有害な影響の結果ではないかと自問する。 (AB pp.336-337)》アンドレ・ブルトンにおけるシュルレアリスム的 エクリチュールと女性たちの関係  加藤彰彦より)


    (Jacqueline Lamba In Spite of Everything 1942--History of Art: surrealism)



《「ブルトン について本質的なことは」 、 とデュシャンは 私に言う、 「私は彼ほど愛の容量の大きい人 間を知らない。 生の偉大さを愛するもっとも 大きな力。 私たちが、 彼にとっての問題が、 生に対する愛の質、 生の驚異に対する愛の質 そのものを守ることであったことを知らなけ れば、 彼の嫌悪については何も理解できない でしょう。 ブルトンは、 心臓が鼓動を打つよ うに愛した。 売春を信じる世の中にあって、 彼は愛に恋する人だったのです。 彼の特徴は そこにあります」 。》


                 (André Breton et Jacqueline Lamba rue Fontaine)


《アンド レ・ブルトンがマルセル・デュシャンについ て初めて私に話してくれた時、 それはヴァレ リーに関してであった。 「私の目には」 、 とブ ルトンは私に言った、 「1896年、 すなわち私の生まれた年に、 私がほとんどそらんじてい た作品 『テスト氏との一夜』 を刊行したヴァ レリーは、 かつてランボーの周りに形成され えたような神話に固有の威光をまとっている ように映ったのです。 何らかの頂点に到達したとたんに、 作品がいわば作者を 「拒絶」 した のだと言わんばかりに、 ある日突然、 自分の 作品に背を向ける人物という神話」 。 こうし た振る舞いが彼の魅力となっていたのだ。 こ の眩暈を覚えるような光のなかに映し出され たヴァレリーは、 「何年ものあいだ、 若輩の詩人のどんな質問にもいちいち面倒がらずに答 えてくれたのです」 。 とブルトンは私に告白 した。 「彼は私が自分自身に対して気難しく なるようにしてくれました。 私がそうなるのに必要なあらゆる労苦を、 彼はいとわなかっ たのです。 私がいくつかの高度な規律に絶え ず気を配るようになったのは、 彼のおかげで す」 。 「唯一の男は」 、 と彼は付け加えた、 「私 の目からみて今日これほどに重要な唯一の男 は、 マルセル・デュシャンです」 。 そうこうしているうちに、 「裏切った」 のは ヴァレリーであった。 彼は昔の詩に手を加 え、 テスト氏を生き返らせようと努めたの だ。 そして彼がアカデミー・フランセーズに 入会した日、 ブルトンは 「なによりも大切に」 していたその書簡を売却したのである。 何も この幻滅には耐えられなかった。 1914年の戦 争による 「血と愚行と泥とに満ちた下水だめ。 軍隊が話題の中心となっていたこの時代に、 レニエ、 ペギー、 クローデルといった手合い が時流に乗じた栄光の賛歌を歌うのが見られ た」 。 二人の男だけが、 「このウツボの犇く穴 に」 なにがしかの光を射し入れた。 ヴァシェ、 そして 「私は驚嘆させる」 というのをモットー に選んだアポリネールである。 しかしこの重 要な預言者は、 戦争という恐るべき事実を前 にして、 「期待された護符とはまるで違う幼 児期への沈潜」 をもって反応した。 それとは 反対にヴァシェは、 行く手に立ちはだかる一 切を非神格化する徹底的な反抗の 「原理」 を、 言葉と行為によって具現化する 「水晶の鎧」 を 身にまとった存在であり、 「感情の鮮明な角 度と方形を描くダンディ」 であった。》(デュシャン、 ブルトンを語る アンドレ ・ パリノ)ー)http://www.nact.jp/news/pdf/news17_web-1.pdf




ヴァレリーがアカデミー・フランセーズに 入会した日、 ブルトンは 「なによりも大切に」 していたその書簡を売却した、とある(ヴァレリーは、アナトール・フランスの死によって空席となったアカデミー・フランセーズの新会員に迎え入れられた)。

 《「死体よ、ぼくらはおまえの同類どもを愛すまい!」と、二十九歳のエリュアールは書いた。「アナトール・フランスとともに、人間の奴隷根性のいくらかがなくなる。術策、伝統主義、愛国主義、日和見主義、懐疑主義、そして心情の欠如が埋葬されるこの日こそ、祝祭であれ!」と、二十八歳のブルトンは書いた。「くたばったばかりのこの男は[……]今度は煙となって消え去るがいい! ひとりの人間が残すのは僅かなものだ。それでもこの男について、いずれにしろこんな男が存在したと想像するのは憤激にたえない」と、二十七歳のアラゴンは書いた。》(ミラン・クンデラ「明け方の自由 暮れ方の自由」、『カーテン――7部構成の小説論』西永良成訳)




ブルトンは、アルトー、バタイユさえ除名したくらいだ。ましてやアカデミー・フランセーズの会員やら新会員だと?
ブルトンが「シュルレアリスム第二宣言」でアルトーやバタイユ、その他のかつてのシュルレアリストを批判し、除名したことはよく知られている。そのためにブルトンは一生嫌な野郎だと思われ続け、除名された連中がその後も相変わらずあまりにも過激な人たちだったことも手伝って、むしろブルトンのほうこそが独裁者の仮面をかぶった一種の日和見主義者だと悪口を叩かれ続けることになる。言うに事欠いて、ブルトンが日和見主義者だって? 私は十代の頃、アルトーやバタイユほどの人物を除名することのできるグループなんてなかなかイケてるじゃないかと思っていたが、この話はほかのところでもしたので一応置いておくが、ともあれ後世の研究者たちや誰それが、やたら心理主義的に、勿論恥ずかしいことだからご自分の立場とやらを柄にもなく気にしすぎていることをできる限り隠しつつ、とやかく宣(のたま)うような次元の話ではないことだけは最初に言っておこう。(ブルトンとアルトー 鈴木創士

もちろんプルーストも当然のごとく彼らの餌食だろう(いや相手にしてもらえないのか?)

プルーストの小説に出てくるベルゴットはアナトール・フランスがモデルというのが通説である(1899年にアナトール・フランスの希望で娘シュザンヌとマルセル・プルーストとの結婚話が持ち上がったことがあるが、実現しなかった)。

《ベルゴットのもっとも美しい文章は、実際に、読者に、自己へのより深い反省を要求したが、読者はそんなベルゴットよりも、単に書きかたがうまくなかったという理由でより深く見えた作家たちのほうを好むのであった。》(プルースト『見出された時』)


「私の性格の主な特徴 ――愛されたいという欲求、( ……)私が男性に望む特徴――女性的魅力。私が女性において好む長所 ――男のような勇気と、友だちづきあいにおける率直さ。( ……)私の主要な欠点――「意欲する」ことを知らず、またできないこと。( ……)気に入りの散文作家――現在のところ、アナトール・フランスとピエール・ロティ。好きな詩人 ――ボードレールとアルフレッド・ド・ヴァニー。( ……)好きな作曲家――ベートーヴェン、ワグナー、シューマン。気に入りの画家 ――レオナルド・ダ・ヴィンチ、レンブラント。」(プルースト 一八九二年 二一歳 あるアンケートへの返答)

《シュルレアリズム! よせやい! ブルトンのオカルト的な謹厳ぶり …アラゴンの思わせぶりなペテン …アルトーのアンチ-セクシャルな興奮 …バタイユひとりだけが、あの抑圧的ながらくた置場のなかで少しばかりの品位を保っている …とりわけサルトルと比べて …『嘔吐』… まさに打ってつけの言葉だよ …ジュネ… 要するに、性的に見れば何もない …惨憺たるもんだ…<ヌーヴォー・ロマン>? ご冗談を …ない、ない、何も、納得できる女なんてこれっぽっちもない …つまり、無だ… 一冊の本もない …エロティックな意味で、手ごたえのある条りさえひとつもない …》(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

― ーシュルレアリスム。 私にとってそれは、 青春の絶頂のもっとも美しい夢を体現して いた。(デュシャン、 ブルトンを語る アンドレ ・ パリノー)


「ある日、フロールの二階でサルトルがクノーにシュレルリアリズムの何が残っているのかと訊ねた。
《青春をもったことがあるという感じだ》
と彼は私たちにいった。私たちは彼の答えに打たれ、彼を羨んだ。」(ボーヴォワール『女ざかり』下 P193 朝吹登水子・二宮フサ訳)



          (ブルトンと第一の妻シモーヌ・カーン)

……私にとっては、或る人間について重要に思われることは彼の生涯における偶発的な諸事件ではなく、彼の生れとか、彼の恋愛事件とか、種々の不幸とか、その他、彼について実地に観察することができる事実の殆どすべては、私には何の役にも立たない。すなわちそれらの事実は、或る人間にその真価を与え、彼と彼以外のあらゆる人間との、また彼と私との決定的な相違を生ぜしめている事柄について、私に何事をも教えてはくれない。

そして私としてもしばしば、この種類の、我々の認識を実質的には少しも深めはしない生活上の消息について、相当な好奇心を抱くことがあるのだが、私の興味を惹く事柄が必ずしも私にとって重要なものであるとは限らないのであって、これは私だけでなく、だれの場合にしても同じことが言える。要するに、我々は、我々を面白がらせることに対して常に警戒していなければならない。(ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』 吉田健一訳)