微恙あり。
そうだな、貴君の問いに対しては
なんというのかな
アクチュアルの場にしたくないのでね、この場は
誰かが拾ってくれたらいいのだよ
投壜通信なんてかっこいいことはいいたくないけど
表題ってのはむつかしくてね
固有名詞を表題に掲げれば
よりよく読まれることはわかってる
オレもときにはそうする
まあこれは少しは読まれてもいいかな
と思うときだね
でもそうするとケッタイな連中にリンクされて
この場は、たとえばツイッターの下請けみたいな書き物になってしまう
自分の記事はリンクしない方針だな今は
以前に懲りたな
アクチュアルというのはいろんな意味があるのだろうけど
現実に当面しているさま。現実的。時事的だよな、一般的には
ニーチェの『反時代的考察』unzeitgemässe Betrachtungは
仏語訳では旧訳がConsidérations
intempestivesで
新訳はConsidérations
inactuellesであるそうだ
後者は、反(非)アクチュアル的考察ということになる
ドゥルーズは『ニーチェと哲学』でニーチェの『反時代的考察』から引用しているが、そこでの最近の和訳では次の如し。
能動的に思考すること、それは、「非現働的な仕方でinactuel、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳)
――《「反時代的に」に當る部分が「非現働的な仕方で」と生硬な譯文であるのは佛文原語inactuelと察せられ、やはり時期外れ・流行遲れといった語義であるが、哲學用語だとアクチュアル(現働的・現勢的)の對でvirtuel(潛在的)に近い意味を持つ。現實化(actualisé)してない可能性、といった含みがあるわけである。》との指摘がある(アナクロニズム)
さらに上記のリンクから、ドゥルーズとフーコーを孫引く。
現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(宇野邦一譯ドゥルーズ『フーコー』「褶曲あるいは思考の内(主体)」)
知識人の仕事は、ある意味でまさに、現在を、ないこともありえたものとして、あるいは、現にあるとおりではないこともありえたものとして立ち現れさせながら語ることです。それゆえにこそ、現実的なもののこうした指示や記述は、「これがあるのだから、それはあるだろう」という形の教示の価値をけっして持たないのです。また、やはりそれゆえにこそ、歴史への依拠――少なくともここ二十年ほどの間のフランスにおける哲学的思考の重大な事実の一つ――が意味を持つのは、今日そのようにあることがいつもそうだったわけではないことを示すことを歴史が役割としてもつかぎりにおいて、つまり、諸事物が私たちにそれらがもっとも明白なのだという印象を与えるのは、つねに、出会いと偶然との合流点において、脆く不安定な歴史の流れに沿ってなのだということを示すことを歴史が役割として持つ限りにおいてなのです。(黒田昭信譯「構造主義とポスト構造主義」『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅸ 1982-83 自己/統治性/快楽』)
《思考が考えていること(現在)から自由になり》、あるいは《現在を、ないこともありえたものとして、あるいは、現にあるとおりではないこともありえたものとして立ち現れさせながら語ることです》とあるように、「アクチュアル」であることは、場合によっては制度の物語によって隠蔽されたものを見ないようにすることでありうる。
彼らの論が現在、アクチュアルであるなら
書かれた当時アクチュアルでなかったせいじゃないか
《芸術家は自分の作品にその独自の道をたどらせようと思えば(……)その作品を十分に深いところ、沖合いはるかな遠い未来のなかに送りださなくてはならない。》(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅠ」)
彼らの論が現在、アクチュアルであるなら
書かれた当時アクチュアルでなかったせいじゃないか
《芸術家は自分の作品にその独自の道をたどらせようと思えば(……)その作品を十分に深いところ、沖合いはるかな遠い未来のなかに送りださなくてはならない。》(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅠ」)
これはなにも「芸術家」に限らないのでね
蓮實重彦や浅田彰が繰り返し言っているのはこのことだろうね
で、なにがいいたいかって?
風邪気味でね
別の貴君のコメントなら
《経済的窮迫や差別・脅迫を受ける側にとって、「これを問題と扱うのは思考収奪装置である」「差別というクリシェに嵌まり込んではいけない」などと言って、意味があるでしょうか。――クリシェだとおっしゃるなら、現実に状況や問題設定を組み換えてくださらないと。》
なんて言われてもね
意味が多いにあるという立場なのだけれどさ、紋切型批判というのは
これは書かれた当時はあまりアクチュアルとして受けとめられなかったかもしれないが
このインターネットに誰でも書き込む時代、ひどく「アクチュアル」じゃないか
あらゆる項目がそうだとは断言しえないが、『紋切型辞典』に採用されたかなりの単語についてみると、それが思わず誰かの口から洩れてしまったのは、それがたんに流行語であったからではなく、思考さるべき切実な課題をかたちづくるものだという暗黙の申し合わせが広く行きわたっているからである。その単語をそっと会話にまぎれこませることで一群の他者たちとの差異がきわだち、洒落ているだの気が利いているだのといった印象を与えるからではなく、それについて語ることが時代を真摯に生きようとする者の義務であるかのような前提が共有されているから、ほとんど機械的に、その言葉を口にしてしまうのだ。そこには、もはやいかなる特権化も相互排除も認められず、誰もが平等に論ずべき問題だけが、人びとの説話論的な欲望を惹きつけている。問題となっている語彙に下された定義が肯定的なものであれ否定的なものであれ、それを論じることは人類にとって望ましいことだという考えが希薄に連帯されているのである。(蓮實重彦『物語批判序説』)
これは書かれた当時はあまりアクチュアルとして受けとめられなかったかもしれないが
このインターネットに誰でも書き込む時代、ひどく「アクチュアル」じゃないか
「問題という名の問題」ってのを書こうとしけど
まあやめておくよ
「具体性という名の抽象」とかね
次の文を引用して胡麻化しておくよ
つまりは資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(浅田彰 シンポジウム『倫理21』と『可能なるコミュニズム』2000.11.27)
やることは彌縫策のための発言じゃないだろうということだな
「差別」はなくならないよ
どれかひとつを抑えたら
ほかの頭がもっとひどく出てくる
社会保障費は削減しなくちゃならない
というほぼ信憑性のある論があるのだから
消費税問題は、日本経済の形を決めるビジョンの問題。北欧型=高賃金、高福祉、高生産性か。英米型=低賃金、自助努力、労働者の生産性期待せずか。日本は岐路にある。(岩井克人)
ってあるけれど
今の「システム」を継続するなら
後者の道しかないだろうな
それに実際そう選択しつつある
ちがうかい?
…………
われわれは、権力志向という「人間性」が変わることを前提とすべきでなく、また、個々人の諸能力の差異や多様性が無くなることを想定すべきではない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」)
次のふたつの「欲望」から免れている発話というのはお目にかかったことがない(もちろん、いわゆる「エクリチュール」は除く)。そして後者はあきらかに「差別の欲望」だろう。
そしてこれは遡れば、人間の原初的な<欠如>にかかわるはずだ。
『法哲学』の中で、ヘーゲルは、人間のモノに対する欲求が、他者によって認められたいという社会的な欲望になり、それが逆にモノをのものあるいはモノの獲得の目的になってしまうことを論じた後、次のように述べている。
[欲望の社会化という]この契機は、さらに直接に、他者との平等への要求をそのうちに含む。一方で、この平等化への欲望および自己を他者と同一化したいという模倣への欲望が、他方で、それと同時に存在している、自己を他者と区別させることによって自己を主張したいという独自性への欲望が、それ自身欲望を多様化しかつそれを増殖していく事実上の源泉となるのである。
すなわち、人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望とのふたつがあるのである。
───岩井克人「ヴェニスの商人の資本論」より
そしてこれは遡れば、人間の原初的な<欠如>にかかわるはずだ。
乳児はおそらく原初の内的な欲動をなにか周辺的なもとのして経験するだろう。どんな場合でも、その欲動は<他者>の現存を通してのみ姿を消すことができるにすぎない。<他者>の不在は、内部の緊張の継続の原因として見なされるだろう。しかしこの<他者>が傍らにいて言動によって応えても、この応答はけっして十全なものではない。というのは、<他者>は継続的に子供の叫び声を解釈しなければならないし、解釈と緊張のあいだに完全な照合はありえないのだから。この時点で、われわれはアイデンティティの形成の中心的な要素に直面する。すなわち、欠如、――欲動の緊張(強い不安)に完全に応答することの不可能性。要求、――それを通して乳児が欲求を表現するとき、残余が生ずること。この意味は<他者>の要求の解釈はけっして本来の欲求とは合致しないというとだ。<他者>の不完全性が、いつでも、内的にうまくいかないことの責めを負わされる最初のもののようにみえる。(ポール・ヴェルハーゲ 私訳)(ポール・ヴェルハーゲ 私訳ーーPaul Verhaeghe, "On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics"
《私自身、幼児が、まだ口もきけないのに、嫉妬しているのを見て、知っています。青い顔をして、きつい目で乳兄弟を睨みつけていました。》(アウグスティヌス『告白』)
…………
自由主義資本主義における成功あるいは失敗の「不合理性」の良い点は(市場は計り知れない運命の近代版だという古くからのモチーフを思い出そう)、そのおかげで私は自分の失敗(あるいは成功)を、「自分にふさわしくない」、偶然的なものだと見なせるということである。まさに資本主義の不正そのものが、資本主義のもっとも重要な特徴であり、これのおかげで、資本主義は大多数の人びとにとって許容できるものなのだ。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)
仮に自分の低いポジションが「自分にふさわしい」ものだとしたらどうだろう。格差社会では起こらない「怨恨」が、格差のない社会では暴発するというのが、ジジェクやデュピュイの考え方であり、「ヒエラルキー」の仕組みは、社会的下位者が、社会的上位者、特権者に屈辱感を抱かせないシステムとされる。
ジャン=ピエール・デュピュイは、『La marque du sacré』(2009)で、ヒエラルキーを四つの様相を挙げている(ZIZEK”Less Than Nothing”より孫引き)。
<hierarchy itselfヒエラルキーそれ自身>An externally imposed order of social roles in clear contradistinction to the immanent higher or lower value of individuals—I thereby experience my lower social status as totally independent of my inherent value.
<Demystification脱神秘化>The critico‐ideological procedure which demonstrates that relations of superiority or inferiority are not founded in meritocracy, but are the result of objective ideological and social struggles: my social status depends on objective social processes, not on my merits—as Dupuy puts it acerbically, social demystification “plays in our egalitarian, competitive and meritocratic societies the same role as hierarchy in traditional societies” (La marque du sacré, p. 208)—it enables us to avoid the painful conclusion that the other's superiority is the result of his merits and achievements.
<Contingency偶然性>The same mechanism, only without its social‐critical edge: our position on the social scale depends on a natural and social lottery—lucky are those who are born with better dispositions and into rich families.
<Complexity複雑性>Superiority or inferiority depend on a complex social process which is independent of individuals' intentions or merits—for example, the invisible hand of the market can cause my failure and my neighbor's success, even if I worked much harder and was much more intelligent.