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2013年5月8日水曜日

うぬぼれとナルシシズム


「うぬぼれ」は、英語だと”conceit”起源はconceive(これには、「心に抱く」、の類以外に、「妊娠」という意味があるよな)から来ているらしい。「自惚れ」、――虚栄心、高慢な態度、思い上がり、自負……

自惚れはナルシシズムと同じような意味で使われるときがあるのだよな、すくなくとも日本では。――いやたぶんそういう場合が多い、としておこう(もちろん、ナルシシズムには、ほかに自己中心、自己陶酔などの意味で多く使われる)

「ナルシシズム」という語自体、ひどく曖昧な使用をされるのだから、ことさら文句を言うつもりはないのだけれど。

…………

フロイトの論文には「ナルシシズム」をめぐって数多くの言及があるが、そこでは、ナルシシズムというのは、自体愛(autoerotismus)を喪失することから始まるとされる。自体愛とは触覚とか圧覚などの部分欲動の段階で、自己〔自我〕はまだ統合されたものでなく、「快―自我」の機制のみが働いている時期ということになる。自体愛などといえば、すでに胎内から始まっているということになり、それをも自己愛(ナルシシズム)というわけではない。部分欲動とは、まあいわば「おしゃぶり」の類のことなのだが、中井久夫に次のような文がある。

胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。(……)味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。 

触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口―身体―指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。 

聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。 

視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」 『時のしずく』所収)


で、ひとの「愛」の発展の、基本的な定式は、自体愛autoeroticism →自己愛(ナルシシズム)→対象愛なのだけれど、それは単純なものではない。

たとえば『性欲論三篇』(1904)には、「対象発見は、本来再発見である」とされる。

『本能(欲動)とその運命』(1905)では、部分欲動に関して、「のちに対象が快の源泉だとわかると、その対象は愛される。しかしそれが自我に組み入れられると、純化された快-自我にとって対象は再び見知らぬもの、もしくは憎まれるものと一致してしまう。」、と。


『ナルシシズム入門』(1917)では、「完全な対象愛は、子供の根源的ナルシシズムに完全に由来しており、それ故、性的対象への転移自体に相当している、目立つ性的過大評価を示している」など。

『喪とメランコリー』(1917)では、「自我には愛する対象の「影」が落ちている」となる。

つまり、この1917年のふたつの論文の記述を合奏すれば、愛する対象には「自我」の影が落ちている、ということにもなる。

このあたりは、最近、博士論文『フロイトの情熱 ― 精神分析運動と芸術』を上梓して(2012.11)、関係者のあいだで評判の高い比嘉徹徳氏が十年まえ書いた、『ナルシシズムと<他者>』2003に詳しい。hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/.../1/ronso1300301070.pdf

この論はナルシシズムの肯定的側面をフロイトのテクストから抽出しようとするもので、すでにこの時点で、比嘉氏は大胆な論の展開をしている。そこでは、ナルシシズムを大文字の他者(象徴的なもの)に関わるものとしており、たとえばラカンのナルシシズムを想像的なものとする論述にまっこうから反する。


私達はナルシシズムの関係を対人関係の中心をなす想像的関係と考えています。…(中略)…。それは、実際は、一種の性愛的関係なのです。すべての性愛的同一化、つまり性愛的魅了という関係の中で、イマージュによって他者を捉えることはすべて、ナルシシックな関係という方法を介して行なわれます。また、それは攻撃的な緊張の基礎でもあるのです。(ラカン『精神病セミネール』)
この想像的関係の他者が小文字の他者と呼ばれるものだ。(ヘーゲルによる他者の欲望の他者、それは承認欲求の他者であり、小文字の他者のこと)。

ヘーゲルの他者は欲望する者として主体も同様の欲望をもつことを必要とします。主体から承認を受けるためです。他者が欲するものはaです。ここにあらゆる袋小路の元凶があります。「わたしが対象として承認されるのであれば、そしてこの対象は見てのとおりそもそも意識、自己意識ですから、暴力以外による解決はありえません … ふたつの意識のあいだで裁断を下すことがどうしても必要になる」からです。(……)ヘーゲルさんへマをやらかしました!(「セミネール「不安」を読む」)


比嘉氏の論は、ナルシシズムを、むしろ、ラカンの欲望の定式の<他者>、つまり大文字の他者とつなげようとするものだ、《人間の欲望の根本的な袋小路、「われわれの欲望は他者の欲望」とは、単なるヘーゲル流の他者の承認という問題ではなく、他者から欲望されたいという欲望であり、なによりも他者が欲望しているものへの欲望である。》(ジジェク)

最初に読んだときは、一部のラカン派書物の偏読の影響があってか、なんだか間違いだらけのように見えたが、すこし思い返してみると、ナルシシズムを肯定的にみようとする議論には魅惑されてしまう。

結論として、《自己愛の核には根源的な他者性が刻まれているというフロイト的ナルシシズムの論理に他ならない》とされる。

ここには、ラカンがintimacyから造語したextimacyと似たようなものがありはしまいか。

Lacan is commenting on when he speaks of the unconscious as discourse of the Other, of this Other who, more intimate than my intimacy, stirs me. And this intimate which is radically Other, Lacan expressed with a single word: extimacy. Extimity Jacques-Alain Miller

ここにradically Otherとある。すなわち「根源的な他者」性。


まあそうはいっても、上掲のラカンの「ナルシシズム」=想像的なものとする論とは大きく懸け離れるている(「<他者>の欲望」の他者は象徴的なものであり、そこには問題はないけれど)。

この想像界/象徴界の関係は、精神病/神経症と等しいとして、ミレールの「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」  An Introduction To Lacan's Clinical Perspective, in Reading Seminars I and IIによれば、次のように図式化される(いわゆるラカン派のセントラルドグマにかかわるものだ)。





それ以外にも、

・自我理想(象徴的なもの)に触れられているばかりで、理想自我(想像的なもの)の視点がない。

――ラカン派では(通常)、「理想自我」とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージ、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージ。「自我理想」は、「私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体」あるいは「そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるようなイメージ」(ジジェク)とされるのだけれど、比嘉氏は、ナルシシズムを前者ではなく、後者の「自我理想」にかかわるものとしているわけだ。


・比嘉氏の自我理想=超自我とする記述も、《楽しみを強制するものはない。超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」(ラカン『セミネールⅩⅩ』)》――享楽は現実界的なものであり、超自我=享楽に等号が置かれているとして読めば、これに反する。自我理想は象徴界に所属するのだから。

gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego.( Zizek『Less Than Nothing』2012)


まあオレの偏よった読書ではこうなのだけれど、それにも関わらず比嘉氏の論文は面白いのだな……

 …………


次のフロイトの文には比嘉氏は触れていないが、たとえばフロイトのゲーテ小論には、こうある。

かつて母親の絶対的な寵児であった者は、生涯あの征服者の感情を、あの成功の確信を抱きつづけるものである。そしてこの確信は、実際に成功を自分の方へ引き寄せてくることがよくある。(フロイト「『詩と真実』中の幼年時代の一記憶」)

ナルシシストたちの全部が全部、鏡像的な袋小路に陥っているわけではあるまい、このゲーテ論の絶対的寵児がナルシシストかどうかは保留するにしても、自己に惚れるている連中、つまり「自惚れ」野郎の力というものはある。(世間の自惚れ屋の大半は、たぶん、幼少時、母親に溺愛された連中じゃないかね、女なら父親って場合もあるんだろうな)。


この稀にみる自惚れ野郎(乙女たちやおばちゃんも)の力が、比嘉氏の書くような《自己愛の核には根源的な他者性が刻まれているというフロイト的ナルシシズムの論理》に従っているかどうかは分からないけれど。


いや、うぬぼれとナルシシズムをめぐる金井美恵子の文を読んだばかりでね。この文の内容はフロイト理論に照らし合わせれば、おかしいところもあるのだけれど、それにも関わらず魅惑されるのだな。

最近、小説を読むことより、書くことのほうが楽しいこともあるのだということを発見した。

それは、どういうことなのかと言えば、多分、作者という存在が、いつでも持てあまし気味に持っている<うぬぼれ>ということなのである。<うぬぼれ>を自己愛と同じ意味に考える人がいるかもしれないがーー実際、己惚れ、あるいは自惚れ、と書くわけだしーー<うぬぼれ>という言葉の、自分がすぐれていると思って得意になる、というニュアンスは、自己愛〔ナルシシズム〕とは違う、と言わざるをえない。自己愛は自己完結的な不気味さがあるが、<うぬぼれ>は、いささか騒々しいものだから、はた迷惑なところが多分にあって、うぬぼれている人間というものは、他人から見ると、滑稽に見えるものだ、と知らないわけでもないのだけれど、何年も前から私は、書きながら、自分が物凄く小説が上手で、文章も並ぶ者なきほどの名手なのではないか、と秘かに考えてしまうことが度々あって、しかも、他人の共感を得られずにいるものだから、活字になった自分の小説を読むと、それを、美しい文章でもって、精密で繊細きわまりない評論に書きたくなってしまうほどなのだが、そういうわけにもいかないので、しかたなく、ほそぼそと小説を書きつづける、ということになる。


(……)古風なーー反動的な、と言ってもかまわないがーー<作者>は<読者>というものは、非常に疑い深いと同時に信じやすい性格を持っているので、作者の書いた作品を一番よく理解しているのは作者自身だ、と思っているらしいのだが、そんなことはない、ということを確認したうえで、正直に申しあげてしまえば、私の書いた作品を誰よりも愛しているのは、今のところ、私が一番なのだ、と、つい考えてしまう。それは自己愛〔ナルシシズム〕ではなく、どちらかと言えば、物欲〔フェティシズム〕というものかもしれない。


なにしろ、自分の小説のある部分を、自分が書いたのだということをすっかり忘れ果て、うっとり読んでしまう瞬間をもってしまう程なのだが、そういう鼻持ちならないタイプの作者には、読者など本質的に必要はないのだろう、と考えるのは早計というものであり、書かれた作品が何を欲望しているのかといえば、読まれること以外の何ものでもない。


作者自身の欲望と読者の欲望が一致する輝かしくもなまめかしい惑溺の瞬間の喜びに出あいたいと願うので、私は小説を読むのだが、小説を書くことは、そうした瞬間を自分にはついに書けないのではないか、という怯えと闘うことでもあって、怯えと闘うためには<うぬぼれ>を動員し、もう一つの根深い怯えである、<誰もこれを読まないのではないか>という書き手のおちいりやすい神経症とも闘うことになる。……(金井美恵子 福武書店版『あかるい部屋のなかで』あとがき 1986)

フロイト理論からは、たぶん齟齬のある見解だ、というのは、金井美恵子は自らのナルシシズムをフェティシズムのようなものとしているのだけれど、たとえば、自分の作品を自らの子供のように“フェティシッシュに”愛するとしても、フロイトは『ナルシシズム入門』で、《ものやさしい両親が子供たちに対してとっている態度を注意してみると、それがもうとっくに放棄された自己のナルシシズムの復活であり再生にほかならないことを認めないわけにはいかない》と書いているわけで、この叙述からだけ判断すれば、やっぱりナルシシズムだ。

ほかにも『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』には、ほぼ同様の叙述があったあと、次のように書かれている(これは「同性愛」をめぐる箇所だけれど)。

母親への愛は子供のそれ以後の意識的な発展と歩みをともにしない。それは抑圧の手中に陥るのである。子供は自分自身を母の位置に置き、母と一体化し、彼自身を手本にして、その手本に似た者から新しい愛の対象を選ぶことによって、彼は母親への愛を抑圧する。子供はそれほど同性愛的になってしまったわけである。いや実際には、いまや青年たる彼が愛している少年たちとは実は、かつて子供の彼を母が愛したごとくに、いま彼がそんなふうに愛している、子供としての彼自身の代償であり更新に他ならないのであるから、彼はふたたび自己愛に落ちこんだというべきであろう。それをわれわれは、彼は愛の対象をナルシシズムの途上で見出すというように表現するのである。ギリシャ神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を返られてしまった若者をナルキッソスと呼んでいるからである。

しかし他方、フェティシズム=倒錯なのだから、次のようなフロイトの叙述はあるのだけれどね。(フロイトの『ナルシシズム入門』からだが、比嘉氏の論からの孫引き)

ナルシシズム的対象選択は、「リビドー発達に障害を被ったような人々、例えば倒錯者だとか同性愛者の場合とりわけ顕著なのだが、彼らは成長後の愛の対象を母親というモデルによってではなく、彼ら自身の人格に従って選択して」おり、「彼らは明らかに自分自身を愛の対象として求めており、ナルシシズム的と呼ぶべき対象選択のタイプを示す。」このようにフロイトは、ナルシシズム型が、リビドー発達に「障害」を被っており、「倒錯的」であると示唆している。


まあオレはうぬぼれ野郎で、しかも倒錯傾向があると思ってるんだよな、自分のことを。で、それはラカンのセントラルドグマとは反するってわけでね、「神経症,精神病,倒錯はどう頑張ってもお互いに行き来できない」というやつだ。


ここでのナルシシズムは倒錯者だというフロイトの叙述をどう扱っているのだろうね、ラカン派では。



※参考:《自惚れはすでに賞賛を得てしまっているという(おめでたい)満足に基づくが、虚栄心は賞賛を求めようとする永遠の渇望である。しかも相手が誰であってもよいのではない。自分が「いくぶん尊敬する」人に賞賛されたいという努力なのである。この「いくぶん」が大事である。》(『カントの人間学』中島義道)