最近、丹生谷貴志氏や鈴木創士氏の言葉をよく引用するのだけれど、このふたりは同年1954年生まれ、しかも神戸生まれなんだな。
中井久夫は、『神戸の光と影』(1985)というエッセイで、神戸の境界性を次のように書いている。
ひとつのふしぎな現象として、現在の京都学派といわれる精神病理学の代表的な何人かは、神戸に生まれ、あるいは幼時を過ごして後、京都に学んだ人である。笠原嘉、荻野恒一、藤縄昭、黒丸正四郎の各氏がただちに思い浮かぶ。ここを去って、あの茸臭のただよう小暗い盆地に誘う力に身を委ねた人たちであろう。
逆に京都大学で精神病理を専攻した人のうち、神戸に来た人の過半数にあたる三人が、十年間に自ら死を選んだ。他の土地ではほとんど起こらなかった事態である。
事の異常さは、当事者に十分意識されており、私が四年前、神戸に来る時に、半ば真剣に問題にされたと聞いた。もっとも精神医学は境界の学、神戸は境界の地であり、その境界性が人を精神科医に育て、また破滅させるということに過ぎないと言えば、それだけのことである。
この文の前には、次のようにも書かれている。精神科医は、《職業ゆえか、その職業を選ばせた個人的特性かは知らず、“過剰な影響”に身を曝す習性があると思う。精神科医の第一の仕事はまず感受することである。(……)精神科医は「穿鑿する人」ではないと思う。「まず感受すること」といったが、「観察」と「感受」との差が非常に近いということだ。望遠鏡でも顕微鏡でもなく、さりとて音叉でもなく、アンテナのように、あるいはその原義(昆虫の触覚)のようにーー。》
この「境界の地」は、『治療文化論』でも指摘されており、力動精神科医の殆んど(メスメル、フロイト、ビンスヴァンガー、ユングなど他多数)の出生地、あるいは育った土地が、《平野部でも山岳部でもなく、森の中央ですらない。おおむね、平野部が森あるいは山に移行するところ、あるいは湖と森のはざま(……)ヨーロッパの辺境》であるとされる。
境界の地には、アンテナの人が育つのだろう、“過剰な影響”に身を曝す人が。もちろん神戸よりすこし大阪よりだったら、温室生まれの人間も多いのだろうけれど。
そこで育ったアンテナの人たちの多くが、分裂病親和性があるとは必ずしもいえないけれど、《奇妙な静けさとざわめきとひしめき》に耳をすましたり、《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》人たちが目立って出てくる土地ではないか。
まあそこまでいわなくても、神戸は、《戦前においては、百年たらずの前にできた新しい街であり、皆流れ者の集まり》なのであり、この街は、《戦前、沖仲仕、ずっと以前は漁師が典型的な職業だった。入り船がない時、時化や漁期でない時期には、ぶらぶらしていて当然である。名古屋のような勤勉な都市の浮浪者へのきびしい対応とかなり違っていても不思議ではない》――全国的な影の組織Y組の中心地ともなりうる「住みやすさ」(同 「神戸の光と影」)
――という具合で、「自由人」が育ちやすいのだろう。オレのように名古屋圏の影響のある三河の平凡な平野地に育ったりしたら、ニブク育ってもいた仕方ないぜ、中学、高校時代なんてのはほんとに刺激が欠けていたからなあ、冒頭の二人とは四年違いだけで、ほぼ同世代なのだけれど。いたずらに馬齢を重ねた初老書生が羨むところだね。あそこは徳川の勤勉な農民たちの伝統しかないからな。
まあそうはいっても名古屋からだって、「荒川修作」なんてとんでもない人物が生まれるわけだけど、ーー《荒川:そう、もう完全に、僕はデュシャンの家では家族扱い。孫かなんかだと思ってたんですよ。》(荒川修作オーラル・ヒストリー 2009年4月4日)
ところで、今朝ほど丹生谷貴志氏がつぎのようにツイートをしていてね、もともとそれを書こうと思ったのだけれど。
@cbfn: 西郷信綱さんの仕事は古代人の文芸を通して古代人の心を「理解」する試みでは「なかった」。むしろそれを果てしなく「理解不能」のものとすることだった。例えばそれをストルガツキー兄弟の『ストーカー』に置ける「ゾーン」のようなものとして開き、閉じること・・・
@cbfn: 「記号論」とは本来、或る「文書」を了解し解釈する新たな試みではなく、誰にでも了解可能と予想されたものを”そのままの姿で了解不能のものへと転位させて行く方法”であったはずだ。「解釈学と記号論は不倶戴天の敵である」・・・・
@cbfn: 神託を解釈すること? それに対して記号論は与えられた一見自明な文、発話をデルフォイの神託の様なものへと変異させる営みである。「彼女はおはようと言い、ミルクをテーブルに置いた」といった発話がそこでは了解不能な別のものに変異する・・・・
――《優雅な身振りでその出典を曖昧》にした振舞い、《…他人の言葉や概念をあからさまに引用することすら辞さないその身振りは、ほとんど盗みのそれに近いということもできるだろう…》(「近未来の剽窃のために」)――糞真面目な東京人や京都人の学者にはなかなかできないだろうぜ。(もっとも、このあたりは微妙なところで、ていよく出典を隠す「模作」ならいくらでもあるんだよな、彼らの発話や書き物には。そうではなく「剽窃」はない、ということ)
……「社会」と「個人」という対立の捏造が古代文学をも犯す「制度」になってしまっている現実を苦々しく喚起するのは、ここでは詳述しがたい理由によって井上究一郎とともに現代日本が持ちえた最大の「批評家」として位置づけうるべき西郷信綱である。たとえば「増補・詩の発生」(未来社)におさめられた「文学意識の発生」において、「文学の発生」という彼自身の主題の上を旋回しつづける二冊の書物、風巻景次郎の『文学の発生』と折口信夫の『古代研究』がもたらした感銘について語りながら、その主題探求の一時期に「人間の自我意識」という「近代的な概念」(“近代”傍点 原文)のみに立脚したおのれの方法的混乱を告白している。そしてその混乱は、一般に文学以前と想定される「非文学」の中に、「観念や意識ではなく、形であり造型である」文学の姿をいわば野性の思考として解き放つべく決意したときに解消されたのであり、その苦々しい体験から、「批評」が、井上究一郎の『失われた時を求めて』の翻訳にも比較すべき『古事記注釈』(平凡社)として結実しつつあるのだろうが、その混乱解消の契機となったのが、「社会」と「個人」というあのうんざりするほかない対立の図式の廃棄であったという点は、とりわけ注目されねばなるまい。(蓮實重彦「表層の回帰と「作品」」『表層批評宣言』所収)
「物語の構造分析」が、そこに「小説」も含まれよういわゆる「物語」一般の、普遍的な構造の記述を目指したものであり、個別的な「作品」の意味解読とはまったく無縁であるばかりか、かえってそれと鋭く対立矛盾する試みであるということ、すなわちミシェル・フーコーの言葉を借りるなら、「解釈学と記号学とは不倶戴天の仇敵同士」だという血なまぐさい関係をあっさり忘却しうる平岡氏の杜撰さも、というよりあらかじめ視線にはおさめまいとする抽象性も当然そのことと関連している。(同 蓮實重彦「表層の回帰と「作品」」)
丹生谷貴志氏や鈴木創士氏と似たような「自由人」(「インテリやくざ」、といってもよい)としての資質があるようにみえる四方田犬彦氏は、1953年、大阪府生まれなんだな。まあだから境界性は「神戸」という土地だけではないだろうし、世代というのもあるんだろうよ。
わたしが月島で長屋住まいをしていたことのことだが、須賀敦子さんがわが家に突然いらっしゃったことがあった。四〇歳にもなって夏休みにフィレンツェのお料理学校に通うとという酔狂な男のことを、どこかで聞き止められたのだろう。それは感心というわけでお越しになった。(四方田犬彦「須賀敦子、文体とその背景」)
韓国料理でもてなすことになるのだが、《とても機嫌がよく、何をこちらが出しても悦んでくださった。ただ天井をドタドタと鼠が走り出したときだけは、あれはチュウチュウ?! といわれ、さすがに驚かれたようだった。》、と。
話はおのずからイタリアのことになる、やがて須賀敦子の口から出たのは、《現在日本のイタリア文学者の誰彼をめぐる呵責ない批判だった。歯に衣を着せないという表現は、まさにこのときの彼女のために表現であるかもしれない。それほどまでに激烈な調子だった》。
丹生谷氏も四方田氏も、若い頃、「押し寄せてくる現実のみに基づいて書く」作家を年上の友人としてもってしまった人たちだ。