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2013年5月16日木曜日

第二の死(サドとラカン)

サドの教皇ピオVI 世は、《第二の生をも根こそぎにすることができなくてはならない》という。

破壊がなければ、大地に糧はなく、したがって、人間が生殖を行いうる可能性もなくなる。 (……)それゆえ、人間によって行われるいかなる変化も、自然に反するどころか、それに仕えるのである。いやいや、そればかりか、自然に仕えるには、もっと完全な破壊が、われわれが行いうる破壊よりももっと完璧な破壊が、なされなければならないだろう。 (……)自然にさらにもっとよく仕えるためには、われわれが埋葬する屍から起こってくる再生に逆らうことができなければならないだろう。殺人は、われわれが手にかける個人から第一の生を奪うのみである。自然にとってもっと有益であるためには、この個人から第二の生をも根こそぎにすることができなくてはならないだろう 。なんとなれば、自然が欲するのは滅びだからである。つまり、自然が望むような拡張をわれわれの殺人行為にすっかり付与することは、われわれの力に余るのである。(サド『ジュリエット物語』澁澤龍彦訳) 

ラカンの「第二の死」は、ここから取られている。

‘The Ethics of Psychoanalysis’, Lacan talks about the‘second death’ (a phrase which he coins in reference to a passage from the Marquis de Sade’s novel Juliette, in which one of the characters speaks of a ‘second life’, see Sade,1797:772, quoted in S7, 211). The first death is the physical death of the body, a death which ends one human life but which does not put an end to the cycles of corruption and regeneration. The second death is that which prevents the regeneration of the dead body,‘the point at which the very cycles of the transformations of nature are annihilated’ (S7,248). (Dylan Evans “An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis”) 

死と再生の循環運動の息の根をとめること、それが「第二の死」である。

チェルノブイリはラカンのいう「二度目の死」の脅威をわれわれに突きつけた。科学の言説が支配的になったおかげで、サド侯爵の時代には文学的空想にすぎなかったもの(生命の過程を妨害する徹底的破壊)が今ではわれわれの日常生活を脅かす脅威となったのである。ラカン自身は、原爆の投下は「二度目の死」の典型例である、と述べている。放射能による死においては、まるで物質そのもの、根拠、すなわち生成と破壊という永遠の循環を永久に支えているものが、崩壊し、消えてしまうかのようだ。放射能による破壊は、「世界の開いた傷口」であり、われわれが「現実」と呼んでいるものの循環を狂わせ乱す傷口である。「放射能とともに生きる」ということは、われわれの存在の基盤そのものを揺るがすような<物自体>がチェルノブイリのどこかで出現したことを知った上で生きるということである。(ジジェク『斜めから見る』p77) 

ラカンによれば、サドは二度目の死を願って、死んでいく。

墓に生える茂みが、彼の運命を封印する名が石に刻まれたその痕跡までをも消し去るようにと、遺言のなかで命じた後、 〔サドは〕自らの像がまったく信じがたいまでに、シェイクスピアよりも徹底して、なにもわれわれに残らないような仕方で消えてゆく(ラカン E, 779) 

サド的倫理、それは根源的倫理の裏面(カリカチュア)であったはずだった。

いっさいの感情的要素を道徳から削除するなら、われわれの感情のなかにあるいっさいの導きを抜き取らせるなら、極限において、サド的世界は、ひとつの根源的な倫理によって、すなわち 1788 年に書き記されたカント的倫理によって、 統治される世界が成就される可能な形のひとつとして、 ――たとえその裏面、カリカチュアにすぎないにしても――考えられうる。(ラカン同上) 

真に偉大な文学者サドではなく、真に偉大な哲学者サドに問うてみよう。

真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』) 

サドには、この時代がどう見えるか。


教皇ピオVI 世の《第二の生をも根こそぎにすることができなくてはならない》。

ーーなかなかやるじゃないか、きみたち二十一世紀極東の小賢しい「現実主義者」ども。もう一歩だ。第二の生の消滅は間近だ。さらにいっそう突き進め!