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2013年5月19日日曜日

戦争と性欲処理


「私は何を知りうるか」、「私は何をなすべきか」、「私には何を欲しうるか」という問いが、カントの三批判のそれぞれ、真か偽かという認識的な関心、善か悪かという道徳的な関心、快か不快かという趣味判断に相当する。


われわれはまず何かを判断するときに、他の関心は括弧に入れなければならない、と柄谷行人は言う。たとえば、外科医が診察・手術において(理性判断=科学判断)、患者を美的・道徳的に見ることは望ましくない。道徳的レヴェル(信仰)においては、真偽や快・不快は括弧に入れる必要があるには相違ない。(柄谷行人「建築の不純さ」参照)


政治家の仕事は「立法」、それはまずは「何をなすべきか」(倫理的判断)なのだろうから、昨今の政治家の従軍慰安婦発言はこの観点からみても、巷間に強い齟齬を生むのは当然だ。

ーーもっとも、『カントとサド』のラカンによれば、《法の対象は、本質的に身を隠すもの》とか、ドゥルーズ=カントによれば、『実践理性批判』の斬新さは、《法が<善>に依存するのではなく、逆に<善>が法に依存する点にある》(『サドとマゾッホ』)ということになるが。


まあしかしここでは、ラカンやドゥルーズには関わらず、仮に認識的には真実でありえても、露悪的な真偽の主張に終始するのではなく、統整的に働く理念を語るのが政治家だ、とのみしておく。ーー《人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働く》(柄谷行人


だが思想家や知識人が、「何を知りうるか」、--従軍慰安婦制度が、道徳的には間違っていても、あるいは性奴隷は不快でも、まずはそれを括弧に入れて、その制度、あるいはそれに似た仕組みへの認識的な関心を示すのはおかしいことではない。


そのとき、健康な異性愛成人男性の集団だけが長く隔離された場合、性欲のコントロールの仕組みは必要かどうか、という問いを立てた場合どうなるのか。

ーーおそらく必要だろう、と多くの方が判断するのではないか。しかも話題の性欲コントロールのための方策のひとつ従軍慰安制度は、ひとの欲望が剥き出しになりやすい戦時のものである。平時でも、性欲望産業が全面禁止された場合には、性犯罪が増えるという推測があるではないか。根本的禁止は、最もありふれた日常的な出来事を過度に性的なものにしてしまう。禁止されている性的内容に対する防禦それ自体が過剰な性化を引き起こし、それがすべてに浸透してしまう。それは検閲制度などの影響としてよく知られている。


戦時性欲コントロールのためには、一定期間ごとに、休暇を与えて、配偶者もしくは恋人、あるいは性産業従事者たちのもとに帰らせるという方策がまずはあるだろうーーかつてナチスは戦争末期まで三週間ごとに休暇を与えた(中井久夫)。遠隔地でそれが不可能な場合、現地「調達」、あるいは軍で性処理用の女性を雇ってあてがう。後者が、かつての日本軍の「従軍慰安婦」制度の名目だ。


もちろん他にも方策はあるだろう。たとえば、自慰で済ますマインド・コントロール(ベトナム参戦の若い米兵士は、発砲率をあげるためにトマト・ジュースをいれたキャベツを、的にする人形のなかに仕込んで狙う訓練を受けたそうだ、いわゆる脱感作。戦後かれらがどんな末路を辿ったかは知る人ぞ知る)。性欲抑制剤のような薬を利用する。だがそのとき戦士の攻撃欲動もおなじように萎えてしまうのだとしたら?

強さに対してそれが強さとして現われ"ない"ことを要求し、暴圧欲・圧服欲・支配欲・敵対欲・抵抗欲・祝勝欲で"ない"ことを要求するのは、弱さに対してそれが弱さとして現われないことを要求するのと全く同様に不合理である。(ニーチェ『道徳の系譜』)


繰り返せば、戦場において抑制を解放された兵士たちの猛り狂う欲望が戦地や占領地の女性に向かうのを防ぐ戦場売春婦施設の設置が、従軍慰安制度の建て前であり、この制度の効用として、戦地強姦が減ることは十分推測できる。

慰安婦は公娼制度の延長線上で誕生した。平時に娼婦や抱え主を監督し、指導していたのは警察だったが、戦地ではその役割を軍が担当したのである。(秦郁彦「歪められた私の論旨」『文芸春秋』1996.5)


もちろんこの制度の裏面はいろいろ指摘されているようで、それをめぐっては、二三の小さな論を読んだだけなので、まったく詳しくないのだが、たとえば、慰安婦に従事した女性たちの大半が、植民地、占領地、戦地の女性たちであったらしいとか、慰安婦という職業でありながら誘拐・強制などで連行され賃金が支払われなかった場合があるとかがある。

大越愛子の「「従軍慰安婦」問題のポリティックス」(『批評空間』1996-Ⅱ所収)の冒頭には、元「慰安婦」の金相喜さんと板垣参議院議員(当時)の談話(1996年6月5日朝日新聞)の記事が掲げられている。


板垣) 代償というか、おカネの支払いは?

金)  いっさいない。

板垣) そういう例があったとはまったく信じられない。当時の状態からそう判断する。政治家としての信念がある。日本人としての誇りもある。強制的に連れていったという客観的証拠はあるのか。(……)

金)  あなたは生死をさまよう前線に行っていないだろう。私には体に傷がある。

板垣) その八年間に一銭ももらわなかったの。

金)  生死の境をのりこえた者に本当か本当じゃないかという話をどうしてするのか。かつて戦場で私の体を汚し、五十年たって今度は私の魂まで汚すのか。断じてない。

…………

さて、ここで1930 年、つまり両大戦間の端境期に書かれたフロイトの『文化への不満』から引いてみよう。

人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛本能が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量の攻撃本能も含まれていると言っていい(……)。したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在であるばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でもあるのだ。(フロイト『文化への不満』)

もちろんこのフロイトの考え方は、社会的、文化的、歴史的に構成された、家父長制社会のヘテロセクシズムの影響下にあるという指弾はある。しかし現状の「認識的な判断」としては、簡単にうっちゃってよいものでもあるまい。

この人間の本性の理性判断をベースにして、この論の三年後(1933年)、どうすれば戦争を廃棄できるかというアインシュタインの問いに応えて、その倫理的判断(あるいは「嫌悪感」とあることからすれば趣味判断)のレベルで、《戦争を拒絶するのに必要なのは、罪の感情よりも恥の感情、つまり、そんな下品で野蛮なことはしたくない、という嫌悪感》を語っているのを忘れてはならない(柄谷行人「超自我と文化=文明化の問題」)。理性判断の礎がない倫理判断は、掛け声だけに終わり勝ちだ。(カントの三批判の括弧入れは、最終的には外さなければならない、そこにいわゆる「総合判断」が生まれる)


さて『文化への不満』に戻ってそれを参照すれば、従軍慰安婦大半が、植民地、占領地、戦地の女性だったのが事実なら、そして場合によって賃金が支払れなかったのなら、《自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待》するための支配欲・権力欲の面もあって、たんなる性欲処理の相手だけではなかったのかもしれない。それであるならば戦地強姦と殆んど変るところがない。

…………

ところで。性欲自然説、それは、《女性に対する暴力を基盤とする家父長制社会は、同時に男性の性的欲望の発現形態を、自然とまがうまでに暴力的に馴化した社会》のものという指摘が上に挙げた大越愛子の論文にある。

ジジェクは、1990年代初頭のバルカン戦争の民族浄化や輪姦に触れつつ、次のように書いている。

今日の父権的社会において女の欲望は根源的に阻害されている(……)。女は、男が望んでいること、つまり男から欲望されることを欲望する。(……)「まさに私が自分の本当に心の奥底から望んでいることを表現しているように見えるとき、その『私が欲すること』はすでに父権的秩序によって私に押しつけられたものだ。父権的秩序は私に、何を欲するべきかを指示するのだ。したがって私の解放の第一条件は、私の阻害された欲望の悪循環を断ち、私の欲望を自立的に公式化することだ。(『ラカンはこう読め!』p71-72

この指摘からすれば、女性側にも、家父長制度による男性の性欲自然説は内面化されているということになる。


ここで問いたいのは、家父長制社会が、男性の性欲を自然とまがうまでに暴力的に馴化した社会であるならば、父権制社会でなかったらそんなことは起こらないし(たとえば母権制、あるいは強迫神経症的な農耕社会ではなく、それ以前の分裂病的な狩猟民社会)、異性愛の男性が長期間隔離されても、性欲のコントロールは可能であろうかということだが、それについては容易に答えがだせるわけのものでもないし、現実的には、強迫的な産業資本主義からポスト産業資本主義の時代に移ったとはいえ、われわれは未だ、「自らの墓堀人を生み出す」〔マルクス)資本主義の社会のなかにいるには相違ない。

※なお母権制をめぐっては、ネット上にある文献をいくつか読んでみた限りでは、「古代母権制社会研究の今日的視点 」campus.­jissen.­ac.­jp/­seibun/­archives/­contents/­etext/­papers/­matsuda/­MithEtim.­pdf が素晴らしい。



その資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)があるとするのが、ジジェクの『暴力』の指摘である。


われわれは、資本主義のシステム的暴力に日々曝されている。

嫉妬や羨望は、その人が社会内における自分の低い地位に満足していないことを示しているのであり、長期的には、少子化、老齢化などで経済の下り坂は避けえない日本では、ひとは、システム的暴力に以前よりましていきり立つ傾向にある。そして、《暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている》(ジジェク『暴力』)


この社会は、《男性の性的欲望の発現形態を、自然とまがうまでに暴力的に馴化した社会》のままだと言いうる。

だが、いまの社会制度の変革により人間の欲望の質を変えることについては別の話である。


…………

道徳的判断や趣味判断でばかりで「従軍慰安婦」制度に反旗をひるがえしても、埒が明かない。
いま一度、われわれの社会で、健康な異性愛成人男性の集団だけが長く隔離された場合(あるいは戦時)、性欲のコントロール制度は必要なのだろうかと、「理性判断」の領域のみで考えてみようではないか。

正義感の発露(道徳的判断)、あるいは嫌悪感(趣味判断)ばかりが氾濫しているなかで、それをときには括弧に入れてみることはできまいか。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

多くの発話は、従軍慰安婦という「被害者」の尊重という、庶民的正義感のはけ口に終っていないか。


ニーチェやフロイト、ラカンが言うように、平等としての正義は羨望にもとづく。われわれがもっていない物をもち、それを楽しんでいる人びとに対する羨望である。

特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的な依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

感情的結合によって厚顔無恥な「共感の共同体」や、それぞれの慰安的な村社会のドグマを維持することに終ってはなるまい。

社会的公正の意味するところは、自分も多くのことを断念するから、他の人々もそれを断念しなければならない、また、おなじことであるが他人もそれを要求することはできない、ということである。この平等の要求こそ社会的良心と義務感の根元である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

…………

ところで。

従軍慰安婦が必要だと分かってどうするのかって?

ーー「知ったところで、どうしようもないじゃないか」――たしかに、どうしようもない。しかし「だから知りたくない」という人間と、「それでも知りたい」という人間とがあるだろう。(「なんのために」加藤周一


日本には戦争がないから関係ないって思ってるだろ、--でも、徴兵制度復活案ってあったよな、杞憂かね、--《戦争と平和というが、両者は決して対照的概念ではない。前者は進行してゆく「過程」であり、平和はゆらぎを持つが「状態」である。一般に「過程」は理解しやすく、ヴィヴィッドな、あるいは論理的な語りになる。これに対して「状態」は多面的で、名づけがたく、語りにくく、つかみどころがない。》(中井久夫「戦争と平和についての考察」)

知らぬ間に始まっていた、などとは、太平洋戦争前の一定の日本人の感慨であることを知らぬわけではあるまい。


《誰もが言うことだが、軍隊では結果だけが問題であり、それだけで総てが左右される。どんなに尊い動機からやったことでも、結果が失敗ならば悪事を働いたものと見做される。逆に悪事を働いても見つかりさえしなければ責められることはない》(安岡章太郎『僕の昭和史』)

タテマエでは軍内部のレイプに強い制裁を加えることになっている米軍だが、なんだか最近、性的「悪事」暴露記事があるねえ、まあいまさらだが、--「われわれは拷問はしていない」(2005.11)、と表明しつつ、ブッシュ元大統領は囚人の拷問を禁止する法案を拒否するなんてことがあったなあ。


米軍の教訓を生かして、男女混成部隊で、自由性交、あるいは戦争期間中仮結婚制を採用して性交に励んでもらうとかどうだい? すこしだけ、米女性兵士の3割、軍内部でレイプ被害のありようを是正すればいいだけだぜ……


そんなことより戦争をなくすのがはやいと言いたい人もいるだろうよ

戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚観をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。(……)これに対し、平和とは、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代である。平和の時代は戦争に比べ大事件に乏しく、人生に個人の生命を超えた(みせかけの)意義づけも、「生き甲斐」も与えない。平和は「退屈」である。(中井久夫「戦争と平和についての考察」『樹をみつめて』所収)


きみたち正義感の士は、「従軍慰安婦」を食い物にしているだけではないかい? 

《ドゥルーズが語ったなかでも、実に印象的な台詞があります。(……)彼はある時に、ある一群の哲学者たちを指して、「強制収容所と歴史の犠牲者を利用して」いる、「屍体を食い物にしている」と激しく非難したのですね》(佐々木中