この記憶をぜひ話したい
だが今はもうひどく色あせてーー消え尽きたかのようーー
はるかな昔だから、私の青年時代だから。
ジャスミンの肌――
あの八月の夕べーーはたして八月だったか?――
眼だけは思い出せるーー青――だったと思う
そう。サファイアの青だったね
ーーカヴァフィス「はるかな昔」 中井久夫
忘れていたさ
はるかな昔だから、おれの少年時代だから。
「七月二十日。隣家の庭園夾竹桃の花燃るが如し。」(断腸亭日乗 大正九年 )
いま記憶がよみがえったよ
そうさ、きみの家の前の大きな道をこえて
路地を少し入ったところ
丈たかい夾竹桃の樹がまわりを壁のように覆う
あのただっぴろい公園
夏休みになってもなんとか会いたくて
そこで夕方あいびきをしたな、なんども
きみの口から匂ったいちごみるく飴って
まだあるのかい
おれを夾竹桃の花みたいだっていったよな
おれを夾竹桃の花みたいだっていったよな
変なたとえだよ
ーーあれは燃えすぎだってことだったのか
ーーあれは燃えすぎだってことだったのか
なんだか悄然としてしまって
いまだほろ苦い「夾竹桃」さ
いまだほろ苦い「夾竹桃」さ
いってたな「ほかの土地にゆきたい。別の海がいい。
いつかおれは行くんだ」と。
「あっちのほうがこっちよりよい。
ここでしたことは初めから結局駄目だと決っていた。みんなだ。
おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。こんな索莫とした心境でいつまでおれる?
眼にふれるあたりのものは皆わが人生の黒い廃墟。
ここで何年過ごしたことか。
過ごした歳月は無駄だった。パアになった。
きみにゃ新しい土地はみつかるまい。
別の海はみあたるまい。
この市はずっとついてまわる。
(……)
まわりまわってたどりついても
みればまたぞろこの市だ。
他の場所にゆく夢は捨てろ。
きみ用の船はない。道もだ。
この市の片隅できみの人生が廃墟になったからには
きみの人生は全世界で廃墟になったさ
――――カヴァフィス「市」 中井久夫訳