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2013年5月14日火曜日

古い家の視線


《先日、一人の若者が、喫茶店で、連れもなく店内を見まわしていた。彼の視線はときどき私の上にそそがれた。そこで私は、彼が私を見つめているという確信をもったが、しかし彼が私を見ているかどうかは確かでなかった。それは考えられないような不整合であった。見つめていながら、どうして見ないでいられるのか?》(ロラン・バルト『明るい部屋』 「まなざし」)




◆ジジェク『斜めから見る』1991)より

『サイコ』の終わりのほうで、ライラが、「ノーマンの母」が住んでいるらしい謎めいた古い家へと通じる坂を登っていくとき、ヒッチコックは、登っているライラの姿を写す客観的なショットと、古い家を写し出す主観的なショットとを交代に用いている。P220

ヒッチコック的モンタージュは、取るに足りない日常的な対象を崇高な「別」へと高めるのである。それは純粋に形式的な操作によって、ありふれた対象に、不安と不気味さというオーラを与えるのである。

ヒッチコック的モンタージュでは、このように二種類のショットが容認され、二種類が禁じられている。容認されているのは<物>に接近する人間を写す客観的ショットと、その人物の目を通して<物>を写し出す主観的ショットである。禁じられているのは、<物>、すなわち「不気味な」対象の客観的ショットと、そして何よりも、「不気味な」対象そのものの視点に立って、接近してくる人物を写し出すショットである。先に例に挙げた、『サイコ』の、丘の上の家に接近するライラを移したシーンをもう一度思い出してみよう。重要なのは、ヒッチコックが、威嚇的な<物>(家)をもっぱらライラの視点から写しだしていることである。もし彼が家の「中立的」で客観的なショットを加えていたとしたら、神秘的な効果はすべて失われてしまったであろう。その場合、われわれ(観客)は徹底した非・昇華を体験しなければならないだろう。P221

『サイコ』の、「ノーマンの母」が住んでいるらしい家にライラが近づいていくシーンに戻ろう。その「不気味な」次元は一体どこにあるのだろうか。このシーンの効果について的確に述べるには、ラカンの言葉を言い換えるのが最適なのではなかろうか。すなわち、ある意味でライラを見つめているのはすでに家そのものである、と。ライラは家を見ている。だが、それにもかかわらず、家が彼女を見返している点においては、彼女は家を見ることはできない。この状況は、ラカンが『セミネールⅩⅠ』の中で紹介している彼の青年時代の経験とまったく同じである。学生時代、休みになると、彼は漁師に混じって漁に出た。船上の漁師のなかに「プチ・ジャン」とかいう男がいた。その男が、陽光を受けて光っている鰯の缶を指して、ラカンにこう言った。「この缶が見えるかい。本当に見えるかい。でも、その缶にはおまえが見えないんだぜ。」ラカンはこう注釈を加えている。「もしプチ・ジャンが私に言ったこと、つまり缶には私が見えないということに何か意味があったとしたら、それは、ある意味で、それにもかかわらず缶は私を見ていた、ということです」。なぜ缶は彼を見ていたのか。ラカンはそれをヒッチコック的世界を解明する鍵となる概念を用いて説明しているーーそれは「私がいわば絵の中の染みの役割を演じていたからです」。大変な苦労をして日々の糧を稼いでいる無教育な漁師たちの間で、ラカンはまったく場違いだった。「知りすぎていた男」だったのである。P223

(視線と目の非対称性を)もっと理解しやすくするために、前章で明らかにした古典的なヒッチコック的手法をふたたび思い出してみよう。主体が何か謎めいた「不気味な」対象(たいていは家)に近づいていく場面を、ヒッチコックはどのように撮影するか。彼は、接近してくる対象(家)を写し出す主観的ショットと、動いている主体を写す客観的ショットを交代に用いる。どうしてこの形式的手法そのものが不安を発生させるのか。どうして接近してくる対象(家)が不気味になるのか。そこにあるのはまさしく、先に言及した眼と視線の弁証法である。主体は家を見ている。だが不安を掻き立てるものは、家そのものがどういうわけかすでに主体を見つめている、主体の視界から逃れた点から見つめていて、それによって主体をまったく無力にしている、という漠然たる感覚である。この状況を完璧に表現しているのが、ラカンの次のような言葉である。「あなたは、私があなたを見ている点から私を見ることは絶対できません」。P236

◆ジジェク『ラカンはこう読め』(2006)より

ラカンが『セミネールⅩⅠ』で定式化しているような、視線gazeと眼eyeとの二律背反的な関係を思い出してみよう。ラカンによれば、対象を見ている眼は主体の側にあるが、視線は対象の側にある。私が対象を見るとき、かならず対象はすでに私を見つめている。その点に立つと私には対象が見えないような、ある点から。

視野においては、すべてが、二律背反的に行動する二つの項の間に表現される。物の側には視線がある。ということはつまり、物が私を見ている。一方、私にはそれらの物が見える。福音書においてしきりに強調されている、「彼らは、見えないかもしれない眼をもっている」という言葉は、右のように理解されなければならない。何かが見えないかもしれないといっているのか。それはまさしく、物が彼らを見ているということである。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)




ヒッチコックの『サイコ』をめぐっては、『LESS THAN NOTHING(2012)でも繰り返される。精神病者にとって視線や声はどのようになるのか、も含めて叙述されている。



VOICE AND GAZE

This brings us to the paradoxical status of the voice and the gaze, the paradigmatic objets a in Lacan’s theory. As noted above, the voice and the gaze are the two objects added by Lacan to Freud’s list of “partial objects” (breasts, feces, phallus). As objects, they are not on the side of the looking/hearing subject but on the side of what the subject sees or hears. Recall the archetypal scene from Hitchcock: a heroine (Lilah in Psycho, Melanie in The Birds) approaches a mysterious, apparently empty house; she looks at it, yet what makes a scene so disturbing is that we, the spectators, get the vague impression that the house is somehow returning her gaze. The crucial point, of course, is that this gaze should not be subjectivized: it is not simply that “there is somebody in the house,” we are rather dealing with a kind of empty, a priori gaze which cannot be traced to a determinate reality—the heroine “cannot see it all,” there is a blind spot in what she is looking at, and the object returns her gaze from this blind spot. The situation is homologous with the voice: it is as if, when we are talking, whatever we say is already an answer to a primordial address by the Other—we are always already addressed, and, again, this address is blank, it cannot be attributed to a specific agent but is a kind of empty a priori, the formal “condition of possibility” of our speaking, just as the object returning the gaze is a kind of formal “condition of possibility” of our seeing anything at all. What happens in psychosis is that this empty point in the other, in what we see and/or hear, is actualized, becomes part of effective reality: the psychotic actually hears the voice of the primordial Other addressing him, knows that he is being observed all the time. Usually, psychosis is conceived as a form of lack with reference to the “normal” state of things: something is missing, the key signifier (the “paternal metaphor”) is rejected, foreclosed, excluded from the symbolic universe and thence returns in the Real in the guise of psychotic apparitions. However, we should not forget the obverse of this exclusion: the inclusion. Lacan pointed out that the consistency of our “experience of reality” depends on the exclusion of the objet petit a from it: in order for us to have a normal “access to reality,” something must be excluded, “primordially  repressed.” In psychosis, this exclusion is undone: the object (in this case, the gaze or voice) is included in reality, the outcome of which is the disintegration of our “sense of reality,” the loss of reality.(『LESS THAN NOTHING』 P485)

…………

◆附記:ラカン『セミネールⅩⅠ』よりサルトルの「まなざし=視線le regard」
サルトルは『存在と無』の中のもっとも見事な個所で、他人の実在という次元で、眼差しを機能させています。もし眼差しがなかったとしたら、他人というものは、サルトルの定義にしたがえば、客観的実在性という部分的にしか実現されえない条件にまさに依存することになってしまいます。サルトルのいう眼差しとは、私に不意打ちをくらわす眼差しです。つまり、私の世界のあらゆるパースペクティヴや力線を変えてしまい、私の世界を、私がそこにいる無の点を中心とした、他の諸々の生命体からの一種の放射状の網へと秩序づけるという意味で、私に不意打ちをくらわす眼差しです。無化する主体としての私と私を取り巻くものとの関係の場において、眼差しは、私をして――見ている私をして――私を対象として視ている人の目を暗点化させるにまで至る、という特権を持つことになります。私が眼差しのもとにあるかぎり、私はもはや私を視ている人の目を見ることはできないし、逆にもし私が目を見れば、そのときは眼差しは消えてしまう、とサルトルは書いています。

これは正しい現象学的分析でしょうか。そうではありません。私が眼差しのもとにあるとき、私が誰かの眼差しを求めるとき、私がそれを獲得するとき、私は決してそれを眼差しとしては見ていない、というのは真実ではありません。(…)眼差しは見られるのです。つまり、サルトルが記述した、私を不意打ちするあの眼差し、私を恥そのものにしてしまう――というのはサルトルが強調したのはこの恥という感情ですから――あの眼差し、それは見られるのです。私が出会う眼差しは、これがサルトルのテクストの中に読み取ることができるものですが、見られる眼差しのことではまったくなくて、私が〈他者〉の領野で想像した眼差しにすぎません。

彼のテクストに当たってごらんになればお解りになると思いますが、彼は視覚器官に関わるものとしての眼差しの出現のことを語っているのでは決してなくて、狩りの場合の突然の木の葉の音とか、廊下に不意に聞こえる足音とか――これはどういうときかというと、鍵穴からの覗きという行為において彼自身が露呈するときです――のことを言っているのです。覗いているときに眼差しが彼に不意打ちをくらわせ、彼を動揺させ、動転させ、彼を恥の感情にしてしまうのです。ここで言われている眼差しは、まさに他人そのものの現前です。しかし、眼差しにおいて何が重要かということを我われが把握するのは、そもそも主体と主体との関係において、すなわち私を視ている他人の実在という機能においてなのでしょうか。むしろ、そこで不意打ちをくらわされたと感じるのは、無化する主体、すなわち客観性の世界の相関者ではなくて、欲望の機能の中に根をはっている主体であるからこそ、ここに眼差しが介入してくるのではないでしょうか。

欲望がここでは覗視の領野において成り立っているからこそ、我われは欲望をごまかして隠すことができるのではないでしょうか。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)

《鍵穴を覗き込む窃視者は、自分自身の見る行為に没頭しているが、やがて突然背後の小枝のそよぎに、あるいは足音とそれに続く静寂に驚かされる。ここで窃視者の視線lookは、彼を対象として、傷つきうる身体として奈落に突き落とす眼差しgazeによって中断される。》(コプチェク『女なんていないと想像してごらん』中山徹訳)
  
ーー「まなざし」は仏語では、le regardであり、「An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis」(Dylan Evans)によれば、英語では、gazeとされたりlookとされたりするとのこと。


日本語では、gazeは、「視線」あるいは「眼差し」と訳されることが多い。このコプチェクの翻訳文の「視線」と「眼差し」は、同じle regardであろう。


◆追記:ZIZEK『LESS THAN NOTHING』より
  ーーgaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego
the gaze and the voice are linked, respectively, to the Id (drive) and the superego: the gaze mobilizes the scopic drive, while the voice is the medium of the superego agency which exerts pressure on the subject. But one should also bear in mind here that the superego draws its energy from the Id, which means that the superego voice also mobilizes drives. In terms of the drives, the voice and the gaze are thus related as Eros and Thanatos, life drive and death drive:…

How, then, are the gaze and the voice inscribed into the social field? Primarily as shame and guilt: the shame of the Other seeing too much, seeing me in my nakedness; the guilt triggered by hearing what others say about me.Is not the opposition of voice and gaze thus linked to the opposition of superego and Ego Ideal? The superego is a voice which haunts the subject and finds it guilty, while the Ego Ideal is the gaze in front of which the subject is ashamed. There is thus a triple chain of equivalences: gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego.( CHAPTER 10  Objects, Objects Everywhere)