いや、実に興味深い人物だ
やめられないね
私はあなたを騙しているのは、探偵が殺人者を待ち伏せし、公式に従って、殺人者のメッセージをその真の意味において、すなわち、反転された形式で、送り返す点から生じる。探偵は殺人者に言うーーここで私はあなたを騙している。あなたがメッセージとして送っているものは私があなたに表明していることであり、そうすることによって、あなたは真実を語っているのである。(ラカンのセミネールⅩⅠからだが、いくらか編集)
あれら興味深い人物の発話は、ワトソンのようだぜ
残念ながら、自らはそれに気づいていないようだが
いやそれだからよりいっそう役に立つ
つまり、助手は探偵に情報を提供するが、助手自身はその情報の意味がまったくわからない
このなにもわかっていない「助手」がオレにも必要でね
探偵は誤った見解を、真理に到達するためには捨てなければならないたんなる障害としては捉えているわけではなく、むしろ、その誤った見解を通してはじめて、彼は真理に到達するのだから。――つまり、《真理へとじかに通じる道はない》(ラカン)
《アガサ・クリスティの作品の一つで、ヘイスティングはポワロに、自分は日常的な偏見にみちたただの凡庸なありふれた人間だというのに、ポワロの探偵の仕事にとってどのように役に立っているのか、と尋ねる。ポワロはヘイスティングに、それだからこそ、つまりドクサの領域とでも呼びうるものーー自然な一般的見解――を具現化した凡庸な人間として、ヘイスティングを必要としているのだ、と答える》
――まあこういった具合で、興味深いのだよ
そしてヘイスティングより一層好ましいのは
自分は日常的な偏見にみちたただの凡庸なありふれた人間だと思っていないところだな
もちろんオレもある領域では、ヘイスティングの役割を担っているわけだがね
いやもっと正確にいえば、
《他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか》(中井久夫「世界における徴候と索引」)
ーーというわけで、お互いさま、と礼節をもって穏やかにいっておくぜ
その「無知」がわれわれを生かしているのさ
殺人犯は、犯行の後、真の動機を隠し、無実の人に罪を着せるような印象をつくりあげることによって、犯行の痕跡を消さなければならない(古典的なトポスーー殺人は被害者の近親者によって犯される。その犯人は、被害者の不意の出現に慌てた強盗の仕業だという印象を与えるようにと、あれこれ細工する)。その偽りの光景によって、殺人者は一体誰を騙そうとしているのか。偽りの光景を演出するとき、殺人犯はどんなふうに「推理」しているのか。それはいうまでもなく、探偵の忠実な相棒に具現化された、ドクサの、つまり「一般的見解」の領域そのものである。したがって、探偵は、自分の目ざましい洞察力と相棒の凡庸な人間性との対照を目立たせるためにワトソンを必要としているのではない。常識的な反応をするワトソンがどうして必要かといえば、それは、殺人犯が偽りの光景を演出することによってもたらそうとしている効果を最も明快な方法で暴露するためである。(ジジェク)
おい、そこのよき相棒よ
逃げ隠れしなくてもよい