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2013年5月31日金曜日

春信の女と歌麿の女の胸(加藤周一)



以下、加藤周一の『絵のなかの女たち』よりだが、図像は、春信の「雪中相合傘」と歌麿の「山姥と金太郎」以外は、引用者がつけ加えた。


日本の若い恋人たちを考えるとき、私はいつも鈴木春信の「雪中相合傘」を想いうかべる。二人は寄り添うが、抱き合うのではない。傘をもつ手がわずかに触れるばかり。一種の抑制、はにかみとでもいうべきものが、そこにはある。しかし雪の日の人通りは少く、二人の私語を聞く者はない。やっと二人きりになったというよろこび、あるいはむしろ「生きることのよろこび」と称すべきものも、また、おのずから姿態にあらわれている。







色彩は素晴しい。殊に男の着物の黒い色面は、裏地の赤の抑えた色調、女の着物と雪の白との対比において、際立っている。春信(1725-70)は、一七六五年頃、木版画の多色刷、いわゆる「錦絵」を創始したといわれている(彼の錦絵の彫工としては遠藤五緑、摺工としては湯本幸枝の名が知られる)。それから一七七〇年の死まで、およそ五年間に、多数の(現存するもの八〇〇点余り)錦絵を作った彼は、色彩家として群を抜いていた。その春信の色のなかでも、均質な黒の平面の用法は、大胆で、しかも繊細を極める。しかし錦絵に黒を活用したのは、春信だけではなかった。役者絵の勝川春章は、美人画の春信に匹敵する。いずれにしても、一八世紀のヨーロッパは、まだかくも品位高く、かくも輝かしい黒という色を知らなかった。





春信の錦絵の画題は、人物である。女一人、または女二人、女の群像は少くて、男女一対の図柄は多い。その多くが人物を場景のなかに置く。屋外の風景もあり、室内もあるが、また殊に縁先のように半ば室内で、背景に屋外の風景をあしらうものもある。いずれも劇的でなく、日常的で、おだやかな場面である。同じことは、徳川時代の多くの画工のように春信が描いた「春画」についてもいえるだろう。一組の男女は、むしろ小さく、屋外の風景(水辺、舟中、山中など)や、室内の窓際(障子が開かれていて、外が見える)など、何らかの場景のなかに、描きこまれている。また春信の「春画」では、当事者のほかに第三者――しばしば子供――が描かれていて、二人の行為を見まもっている。すなわち当事者とその局部は、物理的および社会的環境のなかで、対象化され、客観化され、相対化されるのである。当事者の主観からこれほど遠い「春画」はほかに少いだろうし、その意味でこれほど上品な「春画」も少いだろう(歌麿のそれとの対照)。













春信の女主人公は、ほとんど常に、若くて、痩せている。小さな手、細い脚、腰の膨みはほとんどなく、少女の顔をしていて、その細身を優雅にくねらせている。吉原の女も、町屋の娘も、その意味では同じ。浮世絵の美人の類型の一つを、この画家は高度の「デフォルマション」と強い様式化を通して作りだした。純粋に鑑賞用の、絵のなかにしかいない少女たちーー彼らは愛されるために、また愛されるためにのみ、存在していた。

しかし錦絵が描きだした理想の美人は、もとより少女だけではない。春信の後、清長は、成熟した女の長身と、その着物の流れるような線を、大川端の涼み台に配した。また殊に歌麿は、「大首絵」の技法と同時に、年増女の豊かな胸と複雑な表情を発見した。一八世紀後半から一九世紀前半へかけて、江戸文化が、女の姿態のこれほど多様な理想像を生みだしたのは、なぜだろうか。おそらく単に人さまざまということではあるまい。もし価値の多様性によって一文化の成熟の度合が測られるとすれば、世俗的江戸文化の感覚的な享楽主義が、そのとき頂点に達し、日常生活の狭い枠組のなかで、あらゆる対象に微妙なよろこびを見出すに至っていたのだろう。少女にも、年増にも、小さな手にも、豊かな胸にも、また閉じた眼にも、薄くひらいた口にも、常に美を発見することができるのは、高度の文化である。(加藤周一「春信の女」『絵のなかの女たち』所収)







…………


喜多川歌麿(1753-1806)には、「山姥と金太郎」の図がいくつかあって、そのなかの一枚、金太郎が山姥の露わな胸の乳を吸い、左の乳首を指でまさぐりながら、横眼に画面左方のどこかを見ている「大錦」は、この浮世絵師の特徴を要約している。「大錦」とは、大判にして錦絵である。大首絵は、人物に接近して、その頭部または胸像を画面一ぱいに写す。歌麿が美人画に用いて大いに成功した構図で、少し後れて写楽が役者絵に活用したものである。色摺りを重ねた錦絵は、歌麿の発明ではなく、一八世紀中葉から行われて、春信や清長がすでに名手であった。








ここでの構図は、髪ふり乱した女の顔を画面の上半部に、その顔と同じ位の大きさの豊かな乳房と、その胸にとりつく子供の顔とをならべて、画面の下半分に配する。衣裳は、わずかな部分が、右下の隅(女の着物の紫)と左下の隅(子供の着物の緑)に見えるにすぎない。浮世絵は原則として衣裳の線や色彩を強調するから、この構図は大胆で独創的である。色彩の面からいえば、女の肌の白さを際立たせるのに、乱れてふりかかる黒髪を一条ずつほとんど細密画の手法で描き分け(デューラーを思わせる)、子供の顔と指(その他の部分は見えない)を赤みがかった褐色で濃く塗りつぶす。女と子供の肌の色の対照という趣向もまた独創的で、ほとんどマネーの「オリュムピア」での、横たわる女の裸体と黒人の召使いの対照とを、想い出させる。


歌麿は女の表情の細かい変化を、極度の省筆と浮世絵の様式を通して、表現することに独得の工夫をこらしていた。一方の乳首に口を含ませ、他方の乳首を指にまさぐらせる女の顔には、ほとんど恍惚の表情があり、その表情は女の髪の乱れによっても強められている。髪を整えるのは、今も昔も、社会的約束の体系へ自己を組みこむことであろう。それに対して、乱髪は、非社会的私的空間(たとえば寝起き)、周辺的存在(山姥は「良家の子女」ではない)、非日常性(たとえば戦乱)、合理的自己統御からの逸脱(宗教的または性的恍惚)などを、示唆する。


乳を吸う子供はなぜ母親の方を見ないで、何処か遠くを見ているのだろうか。それはこの子供が金太郎だからにちがいない。金太郎は、子供ながら怪力を備える。その怪力は、母子関係の展開する私的空間を越えて、歴史的社会的空間のなかで発揮されなければならない。彼は、子供であり、同時に子供ではない。口に含む乳首の感覚には、彼の現在があり、横眼に眺める世界には、彼の未来がある。別の言葉でいえば、金太郎は、ここで、その存在(感覚的な現実)と可能性(後の金時)を同時に生きている。しかるに山姥は、彼女の現在に、その感覚に、あるいは子供の子供としての面への愛着のみに生きている。金太郎は、彼女自身とは根本的にちがう存在、もう一人の別の人間、ほとんど一人の男である。歌麿は、女の乳房を愛撫する男の代わりに、金太郎を描いたのである。




そもそも浮世絵木版画の女は、原則として衣裳をまとっているから、例外はあるけれども(たとえば湯呑みの図)、乳房を示すことは少ない。秘戯図においてさえも、その多くは裸体でなく、上半身を着物につつんで、下半身を露わにするだけである。乳房の魅力を強調するのは、歌麿の作画の特徴の一つだといってよい。そのなかでも、代表的なのが、この「山姥と金太郎」であって、乳房の象徴の両義性は、よくここに描きだされている。すなわち母性の象徴であり、同時に、性的魅力の象徴である。……(加藤周一「歌麿の女の胸」『絵のなかの女たち』所収)





2013年5月28日火曜日

インテリ「実名」道化師の「匿名」批判

さる関西の公立大学の准教授の発話(5.27)

@smasuda: 「ツイッターはインテリのパチンコ」って誰が言ったんだっけ。あれは名言だったな。政治家やマスコミの人の中にはパチンコ玉やなくて実弾やとおもいこんでる人もいますが所詮は危ないおもちゃでしかないよな

…………

関東エリアにある国立大学の准教授の発話(5.27)。

@takuomitaguchi: 外野でシニカルに構えて、何かを言ったふりだけする奴ら。本当にどうにかならんもんかなと思う。しかも、ほとんどが匿名。自分をリスクにさらす勇気もない連中が、誰ひとりとして取り組んだことのないことにトライする人たちの試みを、斜に構えて眺めている。

@takuomitaguchi: この国のシニシズムは、本当に病根が深いと思う。

この発話のまえに、次のリツイートがあるので、それに係るのだろう。

@lethal_notion: 今回のこの運動、素人ばっかで、右も左も分からなかったんですよね。小平市にも市民運動家はいるらしいんですけど、そういう人が全く関わってないって(むしろ批判的に)仰る方もいました。その点は強調しておきたいです。「プロ」はいなかったんです。

…………

それぞれ「ためになる」ツイートだ。

「ツイッターはインテリのパチンコ」であるなら、下のふたりのインテリ氏のツイートはパチンコだろうか。最後のものは、小平市住民投票の報告にかかわり、彼はこのところ、実際の活動の宣伝・報告に終始していたのだから、「インテリのパチンコ」とすることは失礼だろう。

では「自分をリスクにさらす勇気もない」として、シニカルな匿名の連中を批判する発話はどうだろう?

ここではとりあえず、いささか捏造された気味合いがないでもないこの疑問符はそのままにしておいて、次の言葉を引用しておくだけにする。ーー《ファシズムは、理性的主体のなかにも宿ります。あなたのなかに、小さなヒトラーが息づいてはいないでしょうか?》(船木亨『ドゥルーズ』

…………

たいして情報収集をしているわけでもないこの匿名の<わたくし>でも、匿名批判がいくつかあるのを知っている。

1、たとえば内田樹によるもの。
個人的印象だが、ネット上での匿名発言の劣化がさらに進んでいるように見える。攻撃的なコメントが一層断定的になり、かつ非論理的になり、口調が暴力的になってきている。(……)(「ネット上の発言の劣化について」)


2、勝間和代 VS ひろゆきによる「匿名性」をめぐる対話。
勝:いや、違います。リアルではちゃんと名前名乗って自分がどういう人だかを開示して相手の信頼を得ようとするのに、何故インターネットだけ匿名で良いんですか?


3、印象的だったのは、夏野剛氏によるもの。
根拠の薄い過激な意見を言うために匿名にしてる奴は失せろ。バカが発言すること自身社会の無駄だ。根拠もったい上で実名で来い。

消費税増税反対だけど年金減額反対な老人、選挙に行く資格なし。

税金払ってないくせに格差を問題視する若者、将来に希望なし。


――匿名の貧乏人はだまれ、と言っているように聞こえる。


貧乏人だけでなく、特筆すべき社会的ポジションをもたないもの、たとえばサラリーマンの下っ端であったり、小規模の家業に携わるひとは、実名を名乗っても匿名とあまり違わないだろう、あるいは、たとえば「ひきこもり者」やら「メンヘラ」などと呼ばれる人ならば実名を明かしたくない事情もあるだろう。彼らにとって、インターネットの書き込みが自己破壊性を抑えるための救いになっている場合もあるのではないか。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収)


「匿名性」が批判されるとき、このあたりの配慮がなされていないのではないかと、ときに感じるのは、<わたくし>だけではあるまい。



ところで「選挙」はなぜ匿名でおこなわれるのだろう。

自由主義において不可欠なのは、意見の公開性よりも、匿名性(無記名性)であるといえる。匿名が人を「自由」にする、あるいは「個人」にする。アテネにおいては、それは僭主の出現を避けるために採用された。しかし、これは奇妙なことではないだろうか。口に出してものをいわない(いえない)ような人たちの多数意見が「真理」を決定するとは。実際、ヘラクレトスからプラトン、アリストテレスにいたるまでのギリシャの哲学者はこのようなデモクラシーに反対していた。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

柄谷行人はこの議論を発展させて「くじ引き」制度を提案したのだが、しかし、ここではこの話には深入りするつもりはない。もっともtakuomitaguchi氏が若きころ、この『トランスクリティーク」をその理論書のひとつとして柄谷行人のおこしたNAM運動に加わっていたことを知らないわけではない。

ところで大学教師などは、そのポジションにとらわれて、「自由」な発言ができていないことはないか。たとえば、反原発運動に賛成するなら、「早野黙れ」に象徴される緘口令がいつ官僚から下るのか分からないのが、今の日本のシステムであるのが明らかになったのだから、文部科学省などへの批判の瞳がむけられて当然ではないかと思うが、その傘下に勤務する自らの立場をあやうくするために批判をひかえるなどということはないか。


彼らはカントのいう「理性の公的使用」ではなく、「私的使用」に甘んじていはしないか。

自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩はかくべつ妨げられるものではない、と。ここで私が理性の公的使用というのは、ある人が学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、---公民としてある地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。

(中略)しかしかかる機構の受動的部分を成す者でも、自分を同時に全公共体の一員――それどころか世界公民的社会の一員と見なす場合には、従ってまた本来の意味における公衆一般に向かって、著書や論文を通じて自説を主張する学者の資格においては、論議することはいっこうに差支えないのである。(カント 『啓蒙とは何か』)

――柄谷行人は、その『トランスクリティーク』において上記の文を引用して次のように書く。

通常、パブリックは、私的なものに対し、共同体あるいは国家のレベルについていわれるのに、カントは後者を逆に私的と見なしている。ここに重要な「カント的転回」がある。この転回は、たんに公共的なものの優位をいったことにではなく、パブリックの意味を変えてしまったことにあるのだ。パブリックであること=世界公民的であることは、共同体の中ではむしろ、たんに個人的であることとしか見えない。そして、そこでは個人的なものは私的であると見なされる。なぜなら、それは公共的合意に反するからだ。しかし、カントの考えでは、そのように個人的であることがパブリックなのである。(p155~)


なぜ若き中井久夫は楡林達夫という名で医療批判をしたのだろう(「中井久夫と楡林達夫」)。


…………


以下は異なった側面から。


インターネット上では、かりに実名でも顔が見えないし、声も聞こえないから、攻撃欲動がでやすいとはしばしば語られてきた。フェース・トゥ・フェースのコミュニケーションが成り立たず、都合が悪くなれば簡単に逃げだすことができる。

そこでは、《「発話する主体〔サブジエクト〕」(それをし、話している匿名のX)と「発話されたもの/陳述の主体」との間にずれがある(私がサイバースペースで装う、「創作」 でき ある意味でつねに 「創作」 れる象徴によるアイデンティティ ――私のサイバースペースでのアイデンティティを記すシニフィアンは、 決して直接には「私自身」ではない)、相手側でも同じことが言える。》(ジジェク「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic024/084-097.pdf


ツイッターで対話がなされても、それがたいして機能していないのは、もうそろそろ判然としてきたのではないだろうか。それが冒頭に掲げられた「ツイッターはインテリのパチンコ」という「名言」が示唆するところではないか。

著書や論文の販促活動のツールとしては機能しているだろう。情報の交換の場としても機能しているだろう、--情報の交換? 《情報ということ、それは命令》(ハイデガー)であり、《堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落だ》(ジル・ドゥ ルーズ)。


《対話者同士の定期的な会合から期待し得るものはただ好意だけである。すなわち、この会合が攻撃的な所を除去したパロールの空間を代表するということである。》(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」)

リアルでさえこのようになりがちだ、ましてやツイッターでは。

インテリたちは自らの「攻撃欲動」を飼い馴らすことに巧みなのだろう。「呪いの時代」(内田樹)の風潮に乗るのは、愚か者にまかせておけということなのだろう。初期にはそれなりにあった「論争」も、いまではほとんど見られない。

彼らは、愛想のよい鷹揚な対話に現を抜かし、鬱憤晴らしの闘争的パロールは、オレたちの領分ではないとして「選良」の涼しい顔で「気心の知れた仲間同士の親しいうなずきあい」(参照:「共感の共同体」)に終始しているなどということはないか、それが瞞着であることを知らぬわけではないのに。

バルトのいう攻撃性の除去は、インテリたちには難しいことではないようだ(少なくともインターネット上では)。まあこうでないことを願うが、ーー《ぼくは、いつも連中が自分の女房を前にして震え上がっているのを見た。あれらの哲学者たち、あれらの革命家たちが、あたかもそのことによって真の神性がそこに存在するのを自分から認めるかのように …彼らが「大衆」というとき、彼らは自分の女房のことを言わんとしている ……実際どこでも同じことだ …犬小屋の犬… 自分の家でふんづかまって …ベッドで監視され…》(ソレルス『女たち』)
この除去は抵抗なしには行なわれない。

第一の抵抗は文化の範疇に属する。暴力の拒否はヒューマニスト的な嘘とみなされる。慇懃さ(このような拒否の小型版)は階級的価値とみなされる。愛想のよさは鷹揚な対話に似た瞞着とみなされる。

第二の抵抗は想像界の範疇に属する。多くの者は、対決からの逃避は欲求不満を招くというので、鬱憤晴らしの闘争的パロールを願っている。

第三の抵抗は、政治の範疇に属する。論争は戦いの基本的な武器である。パロールの空間は、どれも、分裂して、その矛盾をあらわにしなければならない、監視の下に曝されなければならない、というのである。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」)

ああ、なんというインテリ実名道化師たちの跳梁跋扈よ、とこの匿名の<わたくし>は、「外野でシニカルに構えて」呟いてみる。

『精神分析の倫理』のセミナールにおいてラカンは、「悪党」と「道化」という二つの知的姿勢を対比させている。右翼知識人は悪党で、既存の秩序はただそれが存在しているがゆえに優れていると考える体制順応者であり、破滅にいたるに決まっている「ユートピア」計画を報ずる左翼を馬鹿にする。いっぽう左翼知識人は道化であり、既存秩序の虚偽を人前で暴くが、自分のことばのパフォーマティヴな有効性は宙ぶらりんにしておく 宮廷道化師である。社会主義の崩壊直後の数年間、悪党とは、あらゆる型式の社会連帯を反生産的感傷として乱暴に退ける新保守主義の市場経済論者であり、道化とは、既存の秩序を「転覆する」はずの戯れの手続きによって、実際には秩序を補完していた脱構築派の文化批評家だった。(バトラー、ラクラウ、ジジェク『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』より)

あれらが、彼らの語る「言葉が真実として受け入れられる」ポジションを獲得したつもりになって「小ファシスト」として振舞う「凡庸なインテリの肖像」でないことを祈る。


ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、 まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

…………

《悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある》(ヘーゲル)

ーージジェクの『ラカンはこう読め!」からの孫引きだが、ジジェクは次のように変奏させる、《<他者>に対する不寛容は、不寛容で侵入的な<他者>をまわりじゅうに見出す眼差しの中にある》とする。

もちろんこう引用したからといってインターネット上の攻撃欲動を擁護するつもりはない。


ところで、最近はディドロなんてほとんど誰も読まないだろうが、まさかディドロ研究者の類が、《外野でシニカルに構えて、何かを言ったふりだけする奴ら。本当にどうにかならんもんかなと思う。しかも、ほとんどが匿名。自分をリスクにさらす勇気もない連中》などとノタマウことはあるまい。
あなたが潔癖無垢であるのなら、私の話をお読みにならなければいいのですし、あなたがすでに堕落腐敗しているのなら、私の話を読んでもなんの悪影響もないはず(ディドロ『運命論者ジャックとその主人』)


まあこれは少しいい過ぎとしても(つまりツイッターなどでは見たくなくても垣間見てしまう)、それなりに地位のあるはずの学者たちに見られる吐き捨てるような社会的下位のものへの攻撃的発話は、たんなる正義感からなされるのではないだろう。もっとも、嫉妬や羨望は、その人が社会内における自分の低い地位に満足していないことを示しているといわれるのは周知だが、正義感も実はこうである。

ラカンは、ニーチェやフロイトと同じく、平等としての正義は羨望にもとづいていると考えている。われわれがもっていない物をもち、それを楽しんでいる人びとに対する羨望である。正義への要求は、究極的には、過剰に楽しんでいる人を抑制し、誰もが平等に楽しめるようにしろという要求である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』69頁)


ひょっとして攻撃欲動を過剰に楽しんでいるひとびとへの羨望という面がありはしないか。

あるいは「社会内における自分の低い地位に満足していない」ことからくる攻撃欲動の発動という面もありはしなか。


少子化、高齢化などにより、インテリたち、殊に教師たちの不遇は募り、「内なるプロレタリアート」の境遇感はますます顕著になっているのに違いないのだから。

文化の「リエゾン・オフィサー」(連絡将校)としてのインテリゲンチアへの社会的評価と報酬とは近代化の進行とともに次第に低下し、その欲求不満がついにはその文化への所属感を持たない「内なるプロレタリアート」にならしめる。(「父なき世代(中井久夫)」



『日本美術文化序説』序説(加藤周一)

加藤周一(1919-2008)の代表作は、『日本文学史序説』(1980)だろう。もちろん、より若い頃の著作『雑種文化』(1956)や『羊の歌』(1968)、あるいは『芸術論集』(1967)や折々の政治的言説をまとめたものも、かつてはよく読まれたが、未来に生き残り続けるであろうのは、『序説』ではないか。

私は自分では研究者仲間からディレッタントと思われるくらい比較的に関心対象が広いほうだと思ってますが、その私が逆立ちしても加藤君の視界には及ばない。加藤君の守備範囲が広すぎるのではなく、日本の文学者やアカデミシャンの守備範囲(或は攻略範囲)が狭すぎるから余計目立つのです。(丸山真男「文学史と思想史について」

ところで加藤周一は、『日本文学史序説』上梓の後、『日本美術文化序説』の企画をもったが果たさなかった。

『絵のなかの女たち』の「あとがき」(1998.5)には次のように書かれている。
絵または造形美術一般について、今の私の関心は、日本美術史の見取図に向かっている。『日本 その心とかたち』十巻(平凡社)を作ったのは、そのためであり、さらに話を詳しくして、日本美術文化序説を書こうとも考えている。そういう観点からすれば、この本は序説の序説でなこともない。


『続 羊の歌』のなかの友人との会話の叙述、《「政治の話はもうやめよう」と彼はいった。「ぼくはひっそりと片すみで暮したいよ」……》(参照:「なんのために」ーーー加藤周一『羊の歌』より)は、加藤周一の独語として、つまり自らの内心でこういった問いを繰り返すこともあったのではないか、として読んでみたい誘惑に駆られることがある。少なくとも、「ひっそりと片すみで暮し」ていれば、文化・芸術方面の仕事がより増えただろう。だが、それを犠牲にしてーーという言い方が正鵠を得ていないのは十分承知のうえだがーー、2004年(85、九条の会の発起人となるなどに至るまで、政治的な仕事に傾斜してゆくことになる。


…………


『絵のなかの女たち』はとても<美しい>本だ。もともと「マダム」(鎌倉書房)と「太陽」(平凡社)に連載された文が所収されている。

この本は一方で「女たち」に係り、他方で「絵」に係る。「まえがき」にはこうある。

人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくこともある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。

私はここで、想い出すままに、私が絵のなかで出会った女たちについて、語ろうとした。その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。私は場面を解釈し、環境を想像し、時代を考え、私が今までに知っていたことの幾分かをそこに見出し、今まで知らなかった何かをそこに発見する。現実の女が、必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女とも同じではないように。


あるいはナポリ国立考古美術館所蔵の「フローラ」(作者不詳)と師宣の「見返り美人」をめぐって叙された「後ろ姿の女たち」には、こうある。




現実の世のなかでは、(……)一般に道を行く見ず知らずの女の後ろ姿は、あるときは優美で、あるときは粗野であり、あるときは魅力に溢れ、あるときは魅力を欠く。しかしいずれにしても、そこには「見かつ見られる」関係が成立せず、こちらが相手を見るだけで、相手はこちらを見ることがない。見る側の視線は相手を対象化し、観察し、比較し、見えない部分を想像し、菱川師宣が「見返り美人」を眺めたように、人の姿をみるのである。そのとき、対象と観察者との関係は、美的あるいは感覚的であって、深い感情的な係わりではない。

しかし人生のもっとも感動的な瞬間に、女の後ろ姿を見ることもある。たとえば、別れゆく女の後ろ姿。その別れは「甘い悲しみ」であることもあり、苦い悲しみであることもあろう。安堵や憐憫や恥辱であるかもしれない。しかし常に、後ろ姿を見つめる男は、顔が見えなくても、女の心や気持ちや意識の特定の状態を、知っているか、少なくとも知っていると感じている。女が何処に去るのかは、わかっていることもあり、わかっていないこともあるだろう。しかし常に、再び相見ることのたしかな保証はないということ、何かが終り、再び何かが始まるとしても、それは今終ったことと全く同じではあり得ないだろうということを、明瞭に、あるいは不明瞭に、感じている。

寝室で、家の扉の前で、街の雑踏のなかで、あるいは吹雪の駅頭や真夏の照りつける空港で、別れてゆく女の後ろ姿に、男は決して華麗な衣裳や官能的な身体の線を見ない。そうではなくて、ただ人生の一回性、または時間の非可逆性そのものを見るだろう。かのローマの画家も、その壁面に彼の「フローラ」を描いたとき、一度去って再び来らず、しかも彼の人生の意味を決定する何ものかを、描こうとしていたのかもしれない。




これらは、女との恋の溢れる追憶を抑えこむようにした「数学的な美」の文体で書かれているといえるだろう。

《……その結実としての文体は、すぐれた数学者のつくる数式のような美しさがある。》(小倉朗「加藤周一」)


余談だが、音楽家小倉朗は、 『自伝 北風と太陽』などで名文章家として絶賛された時期がある。高橋悠治の「小倉朗のこと2」におけるわずかな引用文にもその片鱗は間違いなく窺われる。

1950年代の小倉朗は、後になって「なぜモーツァルトを書かないか」(1984)のなかで「音の流れが進みながら、句読の和音(ドミナント)に向って盛 り上がり切り立っていくその波頭や、砕けて散るしぶきの中に、あたかも夜光虫の光のように光を放つ感情」と要約されているような古典主義にたどりついた。 それから日本語のリズムと抑揚に注目し、それも研究というよりは、じっさいにわずかな音をうごかしながらメロディーを作曲し、そのなかで発見していくプロ セスだった。「日本の耳」(1977)は、その経験を書いている。

音楽的感情は、音楽の輪郭となるもの、それ(ら)は、分析の結果あらわれる構成要素や、計算された配列のように、分離され、定義され、操作されるというよ りは、うごく音の全体として共有される。音楽が響くとき、さまざまな感じかたのちがいを包みこみながら、だれのものでもない空間がひらく。ちがうことを感 じながら自由に歩き回れる場で、音そのもののあらわれから位相を移しながら、ちがいをそのままに人びとの心を通わせる通気口になる。それが音楽のもつ強さ としなやかさと言えないだろうか。

小倉朗が作曲から離れていこうとしていた頃に書いた「竹」(1977)という文章の一節、「だが、そうして竹の枝がほとんど露わになったある朝、竹全体が 不思議なうす緑の光につつまれているのを見る」、竹の葉が枯れて飛び離れていった後に萌え出た若葉が逆光を浴びている瞬間、そこにそれぞれの意志と方向を もって飛び交う音を包む場の予感が感じられたのだろうか。

…………


かつて桑原武夫は《加藤氏は感動を醒めた言葉でしか語らない。彼は人を酔わしめることがない。人を醒まそうとする》(「加藤周一氏をめぐる断片語」)と書いたが、これらの文はわたくしを酔わしめる。


女との別れを書いた文は、『羊の歌』のなかにもいくつかある、たとえば。

――「そんなことってあるかしら。こんなに待っていたのに」と加藤周一の洋行帰りをながく待っていた京都の女がつぶやく。

ここには驚愕した陶器の顔の女の口がある。

《四人の僧侶/畑で種子を播く/中の一人が誤って/子供の臀に蕪を供える/驚愕した陶器の顔の母親の口が/赭い泥の太陽を沈めた》(吉岡実「僧侶」)

吉岡実のエロティックな意味合いを離れて、「鷭の声に変化した女の声」を聴きもしよう。

《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》(「感傷」)

私はながく彼女を愛していると持っていたが、ひとりの女にほんとうに夢中になったときに、彼女と私の間の関係がそれとちがうものであったことに気づいた(……)。相手の責任のない不幸を、私が相手の生活のなかにつくり出す、ということを承知の上で、私が行動するーー行動せざるをえない、というときに、その当の相手と話すことのあるはずがない。私は喋り、喋ることの無意味さを感じ、疲れきった。私は放心状態で彼女に別れ、二度と会うまいと考えた。もはや相手のことを考えつづける気力もなかった。それは完全に自己中心的な状態である。しかしそういう状態が成立すると同時に、私はそういう自分自身を第三者のように眺めていた。この「自己」とは何だろうか。一人の女から去って、別のもう一人の女へ向う人間の内容は何であろうか。その二人の女との関係を除けば、私のなかには何も残らず、ただ空虚だけが拡がっているように思われた。(加藤周一『続 羊の歌』)


女にふられての場合もあるだろう、「甘い悲しみ」や「苦い悲しみ」――、それらは「忘れ得ない」。そのことが簡潔でエレガントな文体で書かれることに酔う。


女との別れ、あるいはその後ろ姿――、「必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女とも同じではない」女たち。そこに「ただ人生の一回性、または時間の非可逆性そのものを見るだろう」。


《いちはつのような女と/はてしない女と/五月のそよかぜのような女と/この柔い女とこのイフィジネの女と/頬をかすり淋しい。/涙とともにおどる/このはてしない女と。》(西脇順三郎「無常」)

《けやきの木の小路を/よこぎる女のひとの/またのはこびの/青白い終りを》(同「秋」)

《柿の木の杖をつき/坂を上っていく/女の旅人突然後を向き/なめらかな舌を出した正午》(同『鹿門』)


これらの詩句をも聯想させる『絵のなかの女たち』の文章に、加藤周一の最上のものをみるなどは言いつもりはない。そもそも加藤周一のすべてを網羅して読んでいるわけでは、決してないのだから。

あるいは人それぞれ自分にあった眼鏡があるのだ、わたくしの老眼がすすむ今の眼にはぴったりくるというだけだ。

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。(プルースト「見出された時」)


加藤周一が愛した森鴎外の史伝、「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」などの文体、同じくこの史伝を範とする永井荷風や石川淳の系譜の文体をみるといっても、そこには加藤周一の彼らとは異なる個性の味わいが深く刻まれている。若き日、ヴァレリーの『レオナルドダビンチの方法』に魅せられたことからくる「分析的精神」はもちろんだが、かつ堀辰雄や立原道造に傾倒したひとびとの集まりでもあった「マチネポエティック運動」の星菫派風の余燼が見え隠れする――、一歩間違えば感傷に堕っしかねないリリシズムを決然と反転させて、「爽快な抒情」を装うスタイルとでもいおうか。だが欲望の裂け目、その《胚種が、場所を選ばず、あなたの念頭に現れる。それはキャフェでかもしれず、列車の中かもしれず、友だちとしゃべっているときかもしれない(それは、その友だちが話していることがらの側面から突然出現するのだ)》(『彼自身のロラン・バルト』)


そこにひとは加藤周一の脇の甘さ・隙を見て嘲笑するなどということはあり得る。

ーー吉本隆明による加藤周一「雑種文化」論批判、《さしずめ、西欧乞食が洋食残飯を食いちらしたあげく、伝統詩形に珍味を見出しているにすぎない》(吉本隆明「三種の詩器」1958)

いずれにせよ、すくなくとも二十世紀のある時期以降、感傷にひたる俗物を批判するのが文学・批評の重要なつとめであることは明らかである。それはますます昂じて、いまは「感傷」を曝すことを、ひとびとはひどく怖れる。
現代の世論は恋愛の感傷性ということに冷淡である。恋愛主体はこの感傷性を、わが身ひとりを衆人環視の中にさらすたぐいの、強度な侵犯行為として引き受けざるをえなくなっている。つまり、ある種の価値転倒により、今日では、この感傷性こそが恋愛のみだらさをなしているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)

あるいは、《歴史的転倒。今や下品とされるものは性的なものではない。実際にはそれもまた別の道徳にほかならぬものによって非難された感傷性こそが、下品なのである。》(同)

おまえはもっともらしい貌をして、難しく厳しく裁断するがじつは、おまえは少女たちの甘心を買うためにそういう姿勢をしはじめたのではなかったか。遠いアドレッセンスの初葉の時に。そう云われていくぶんか狼狽するように、これらの自然詩人たちへのかつての愛着を語るときに狼狽を感じる。(吉本隆明歳時記「夏の章――堀辰雄」)



 …………


暁と夕の詩  立原道造


沈黙は 青い雲のやうに
やさしく 私を襲ひ……
私は 射とめられた小さい野獣のやうに
眠りのなかに 身をたふす やがて身動きもなしに

ふたたび ささやく 失はれたしらべが
春の浮雲と 小鳥と 花と 影とを 呼びかへす
しかし それらはすでに私のものではない
あの日 手をたれて歩いたひとりぼつちの私の姿さへ

私は 夜に あかりをともし きらきらした眠るまへの
そのあかりのそばで それらを溶かすのみであらう
夢のうちに 夢よりもたよりなく――

影に住み そして時間が私になくなるとき
追憶はふたたび 嘆息のやうに 沈黙よりもかすかな
言葉たちをうたはせるであらう


…………


そう、ときに加藤周一の甘美な抒情が洩れ溢れるのに狼狽を感じつつも、決然とそれを断ち切ろうとする醒めた理知的文体、そのふたつのものの混淆に酔う。

《……私は昔からの読者の一人として、その著作に現代の日本文学をよむことの大きなよろこびを見出してきたのである。その川端康成の死後今日まで、私には容易に消えない感慨がある。さらば川端康成。これは私の知っていた川端さんへの「さらば」であるばかりでなく、私の内なる「川端的」なものへの「さらば」でもある。前者は死別の事実に係る。後者は――決別の願望である、おそらく容易に実現されないであろうところの、しかし断乎としてその実現に向うべきところの。》(加藤周一「さらば川端康成」)

私のつきあいの範囲では、美しいという言葉を今なお悪い意味じゃなく、いい意味で使ってる人は、芸術家でも、画家でもない、数学者です。数学者は使う。あるいは、数学的な自然科学、例えば物理学者です。古典熱力学の体系は、あれは「優美」だ、と言います。それは美しいという。あるいは数学者は、問題の解き方が三つある、どのほうほうでも解ける、しかし、三つの解決法の中で、一番美しいのはこれだからこれを採りましょう、と言います。

その時は美しいという言葉を使います。美しいという言葉は、二〇世紀以降はむしろ数学者にまかせた方がいいのではないかと思います。数学者は、美しいを定義しろと迫れば多分「簡単」と答えるでしょう。複雑な解決法よりも、簡単・単純な方が美しい、ということです。(加藤周一「語りおくこといくつか」)


2013年5月26日日曜日

マチネ・ポエティック運動


遠い心の洞のなか

扉のひらく時を待ち

乱れて眠る赤はだか

緑の髪の娘たち


白い泉の畔りには

しじまを染めて立昇る

炎 記憶の燃える岩

仄かに明日は透きとほる

……  

ーー中村真一郎「真昼の乙女たち」より



頭韻が「と」「と」「み」「み」、「し」「し」「ほ」「ほ」とありAABBの形式。
脚韻が「か」「ち」「か」「ち」、「は」「る」「は」「る」とありABABの形式。

これが戦後まもなく結成された福永武彦、中村真一郎、加藤周一、窪田啓作、白井健三郎などの詩運動『マチネ・ポエティック』の詩の試みのひとつであり、すべてソネット(十四行詩)である。



死の馬車のゆらぎ行く日はめぐる

旅のはて いにしへの美に通ひ

花と香料と夜とは眠る

不可思議な遠い風土の憩ひ



漆黒の森の無窮をとざし

夢をこえ樹樹はみどりを歌ふ

約束を染める微笑の日射

この生の長いわだちを洗ふ


……

ーー福永武彦「火の鳥」より


こちらは脚韻だけの試み(だろうか? 一部頭韻がないでもない)。


福永は三好達治の追悼文で「戦後、私が友人たちと定型詩を試み「マチネ・ポエチック詩集」を出した時に、三好さんは鋭い批評を下された。好意的悪評といったものだが、三好さんの位置が、その発言に権威あらしめたために、この批評は決定的に私たちを敗北させた。」と振り返っている。その三好の批評文とは「マチネ・ポエテイクの試作に就いて」である。ここで三好はマチネの詩作が「つまらない」と表明する。

《奥歯にもののはさかつた辞令は、性分でないから、最初にごめんを蒙つて、失礼なことをいはしてもらはう。まづ、同人諸君の作品は、例外なく、甚だ、つまらないといふこと。諸君が危惧してゐられるやうに、決してそれは難解ではないが、私にはいつかうつまらなかつたといふこと。詩に於ける難解といふことはその詩の魅力と並立してこそ、はじめて成立ちうる性質の難解であつて、魅力を欠いた孤立した難解といふやうなものは、昼まのお化けで、ありつこない。》(三好達治)

その上で三好は日本語においてなぜ押韻定型詩が不可能なのかを、理由を三点挙げ説明する。一つは「脚韻の効果」が薄いこと、つまり「日本語の声韻的性質」である「常に均等の一子音一母音の組合せで、フィルムの一コマ一コマのやうに正しく寸法がきまつて、それが無限に単調に連続する」ために、押韻は「読者の注意を喚起」しない。二つめは「命題の末尾(原則として脚韻の位置)を占める動詞の数は、中国語や欧羅波語の場合当然その位置を占めるべき名詞の数に比して、比較にもならぬ位その語彙は少数」となるために、「窮屈な貧しさ」を露呈すること。最後にマチネの詩作に「文章語脈ないしは翻訳口調の、入り乱れて混在する」ことを指摘し、そこに「いかにも不熟で、ぎこちなく、支離滅裂で、不自然」な点があるとし、この背景には「文章語脈」の形式性が「我々の今日の領分」に相応しいように「きり崩されて」いないこと、「現在の口語脈」の未成熟、「翻訳語脈」の日常生活への不適応性があるとしている。(「マチネ・ポエティクと『草の花』」西田一豊)mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/irwg10/Jinbun37-06.pdf



もっとも彼らの試みは誤っていず、彼らが詩人でなかっただけだなどと評する人もいる。

…………


三好達治は、ほかにも星菫派の名残りがないでもない大岡信の第一詩集『記憶と現在』の中の「六月」について、次のように批判しているようだ。

国文畑の出身と聞く作者が、「鳥たち」「花々」などといふのは、もと、変てこな語感に違いない。意味のアイマイなだけ、音調においてはするすると滑りのよい、それらの比喩、...それらは、かんじんの「詩」の犠牲に於て、その「突貫工事」を突貫しようとするのであらうかと…


あわせて、吉本隆明による加藤周一の雑種文化論への批判を記しておこう。

《さしずめ、西欧乞食が洋食残飯を食いちらしたあげく、伝統詩形に珍味を見出しているにすぎない》(吉本隆明「三種の詩器」1958)


ーー加藤周一は吉本隆明を、《日本人特有の『いまとここ』主義から生まれる際限の無い現状肯定の見本》(出典不明)と批判しているようだ。


…………

つち澄みうるほひ

石蕗〔つわぶき〕の花さき
       
あはれ知るわが育ちに

鐘の鳴る寺の庭


――室生犀星「寺の庭」

…………

…三好が詩に於てつとに萩原朔太郎を宗としたことは周知のとほりだが、その詩境をうかがふに、年をふるにしたがつて、むしろ室生さんのはうに「やや近距離に」あゆみ寄つて来たのではないかとおもふ。萩原さんの詩はちよつと引つかかるところがあるけれど、室生さんの詩のはうはすらすら受けとれると、げんに當人の口から聞いたことがあつた。萩原さんをつねに渝らず高く仰いてゐた三好として、これは揣らずもみづからの素質を語つたものだらう。ちなみに、そのときわたしは鑑賞上それと逆だと應へたおぼえがある。また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき抜かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。(石川淳「三好達治」『夷斎小識』所収)

…………
                   
褐色(かちいろ)の

根府川石(ねぶかはいし)に

白き花はたと落ちたり、

ありとしも靑葉がくれに

見えざりし さらの木の花。 


ーー森鴎外「沙羅(さら)の木」


この鴎外の詩をめぐって、中井久夫は次のようにいう、《押韻もさることながら、「褐色の根府川石」「石に白き花はたと」「たり/ありしとも青葉がくれに/みえざりし」に代表される遠韻、中間韻の美は交錯して、日本詩のなかで稀有な全き音楽性を持っている》。さらにこの詩がボードレールの詩句の巧みな換骨奪胎であるとする。(『分裂病と人類』)

…………

中井久夫は現代ギリシャ詩について次のように書いている。

突然、現代ギリシャの詩が私を捉えた。「古代」の間違いではない。現代ギリシャが、二人のノーベル賞詩人セフェリスとエリティスを初めとする優れた詩の源泉であるという知識はかねてよりあった。だが遠い世界だった。第一、私は詩人ではない。

若い友人の結婚式のスピーチを考えていた。甘美で格調のある祝婚の詩はめったにない。たまたま英訳エリティス詩集が書架にあった。たちまち冒頭の「エーゲ海」に吸いこまれた。なんとか日本語にした。結婚式のスピーチ代わりにはなる程度のものができた。

次のページをめくった。次も。私は魅了された。空と海と鷗と白い島と。乾いた夏と湿った冬と。太陽と裸体とセミと星明りの夜ときつく匂う草と。独特の漁船と生乾きの海藻の香と。そして何よりも風。庭を吹き荒れ、樹を揺るがせ、平原をこうこうと吹く風があった。舞い、ひるがえり、一瞬停止し、どっど駆け出す風のリズムがあった。

原文を少し入手した。現代ギリシャ語。鋭い言葉である。母音は短いアイウエオだけ、それもイ、エが多いから。そして我が国語純化論者なら嘆くだろう “乱れ” 。文語が現存し、口語は江戸弁のままという粗さで、しかも両方が混じる。生まの方言で論説や科学論文を書くとすれば、雅語や漢語を加えねばならぬ。そこに生じる混乱、この荒さ、鋭さ、変化が、例えばエリティスの傑作「狂ったザクロの木」になるのだろう。

私の訳で紹介しても甲斐ないことだが、歌い出しは「南の風が白い中庭から中庭へと笛の音をたてて/円天井のアーチを吹き抜けている。おお、あれが狂ったザクロの木か、/光の中で跳ね、しつこい風に揺すられながら、果の実りに満ちた笑いを/あたりにふりまいているのは?/おお、あれが狂ったザクロの木か、/今朝生まれた葉の群れとともにそよぎながら、勝利にふるえて高くすべての旗を掲げるのは?」である。全六連の最後までザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままにしばしの陶酔を私に与えてくれる。(中井久夫「ギリシャ詩に狂う」)

中井久夫は日本語も捨てたものじゃないと語っているようにも見える、ただ工夫が足らないだけだと。


ここで、現代日本の詩に特有のことかもしれないが、押韻や定型を云々する以前に、詩は音読されねばならないかどうかが問題である。詩は必ずしも音読する必要はないかもしれない。これは、その人がどういう感覚によって詩を作りあるいは味わっているかという問題があって、当否で答える問題ではないと思う。ここで、音読とは、聴覚だけの問題ではないことを言っておくにとどめよう。たとえば、舌と喉頭の筋肉感覚があり、口腔の触覚を始めとする綜合感覚もある。私は、リッツォスの「三幅対」の第三において「接吻の直後にその余韻を舌を動かしながら味わっているひとの口腔感覚」を、音読する者の口腔に再現しようとしたことがある。

きみの舌の裏には、カレイの稚魚がいる。
ブドウの種がある。桃の繊維がある。
きみの睫毛の投げかける影には
暖かい南国がある……

(リッツォス『括弧Ⅰ』「三幅対」三「このままではいけない?」)

もし、音読を詩の必要条件の一つとするならば、いや、詩は時に読まれるべきものだとするなら、改行とは音読をガイドする働きを持っているかもしれないという仮説が生まれる。私は、改行とは、第一に、読む速度をそれとなく規定するものであると考える。長い行ほど早口で読むようにと自然に人を誘導すると私は思う。

視覚的言語が二つの要請を音声に与える。一シラブル(正確には一モーラ)をほぼ同じ速度で読ませようとする「文字」と、一行全体がほぼ同じ時間内に読まれる権利を主張する「行」とのせめぎあいである。これはシラブル数が不定な詩においては特に著しい。その結果として、読後の緩急が決ってくる。この緩急は、行の末端が作り出す上り下りによって、読者にあらかじめ示唆されている。
(……)

私の訳詩は思い入れをこめた緩急な朗読を予想していない。私は、現代日本語の美の可能性の一つは、速い速度で読まれることによる、母音と母音、子音と子音、あるいは母音と子音の響き合いにあるのではないかと思っている。(……)日本語のやや湿った母音は単独ではさほど美しくなくとも、その融け合いと響き合いとが素晴らしい美を醸成することを、私は信じている。
(……)

私は、詩の読まれる速さが、単純に一行の字数で決まるといっているのではない。まず、わが国においては、詩のたいていは漢字かな混じり文である。複雑な漢字は、その存在そのものが一字で二音以上である可能性を示唆し、読む者に、ゆるやかに読もうという姿勢を取らせる。また、漢字の多い行は、当然短くなる。これも、短い行はゆるやかに、という示唆のために、ゆるやかに読む姿勢を強化するだろう。

(中井久夫「詩の音読可能な翻訳について」『精神科医がものを書くとき Ⅱ』広栄社 所収)

ストラヴィンスキーの好みの変遷(吉田秀和)

まえメモしたもののコラージュ。




『この傑作では、すべてが、完璧で、必然で、変更の余地が全くない』と、この曲(ベートーヴェン 作品 131)について賛辞をおしまなかったのは、晩年の死ぬごく前の、ストラヴィンスキーであった。

ストラヴィンスキーという人は、本当におかしな芸術家だった。二十歳そこそこであの最高のバレエ音楽、特に《春の祭典》を書き上げたのち、バッハに帰ったり、ペルゴレージからチャイコフスキーに敬意を表したりした末、晩年にいたって、ヴェーベルンに「音楽の中心点」を見出すに至ったかと思うと、その後長生した数年のあと、いよいよ死ぬ時をまつばかりとみえたころになって、今度はヴェーベルンも、自分の作品も、もうききたくないと言いだし、みんな投げすててしまい、ベートーヴェンに熱烈な賛辞を呈しつつ、死んでいった。これは、どういうことだろう? もっとも、ストラヴィンスキーは、若いころだってベートーヴェンの偉大さを認めてなかったわけではないと、後年、ロバート・クラフトに述懐しているが、しかし、それもまた奇妙な事情の下で、だった。というのは、彼は、一九二二年《ルナール》の初演のあと、招かれていたパーティでマルセル・プルーストに出会った。

『プルーストは、ストラヴィンスキーとは戦前〔第一次大戦〕すでに知りあいになっていたが、〔このパーティで〕最初に口をきいた時、荒れ模様の初演を終えたばかりの大作曲家に呈する質問としては、もっとも無器用な質問を彼にむけたのだった。―― 「ベートーヴェンはお好きですか?」 ――「大嫌いですよ」――「しかし晩年の四重奏曲などは ……」とプルーストは抗議した。「彼が書いたもののなかで最悪の作品ですよ」とストラヴィンスキーはどなった』(ペインター、岩崎力訳《マルセル・プルースト》)

晩年になって、この時の様子を改めてクラフトにきかれると、こう弁解したのだ。『プルーストは、直接彼のベッドから、例によって、夕方おそく起きて、やってきたのだった。まっさおな顔をして、こったフランス式の服装に、手袋をはめ、ステッキをもっていた。彼は、私に音楽の話をしかけてきて、ベートーヴェンの後期の四重奏曲に対する感激を吐露していた。これは、当時のインテリ文士のきまり文句で、音楽的判断というより、文学的ポーズになっていた。そうでなければ、私も、大いに共鳴するところだったのだ』(ストラヴィンスキー、ロバート・クラフト、吉田秀和訳《百十八の質問に答える》

――― 吉田秀和『私の好きな曲』上  P15-16


だいたい「この作品を一生愛し続けてます!」ってのは、どこかいかがわしくないかい?

すくなくとも、その「愛」は作品に由来するのではなく、<わたくし>に原因がある。あるいはこういってもよい、その作品のなかに<わたくし>が書き込まれている。あるいは、追憶やら、掛け替えのない出来事の記憶に係る。

「石鹸の広告」だったら一生愛し続けるかも。

《われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。》(プルースト「逃げさる女」)


フロイト曰く、
《成人においては、新奇さが常に悦楽の条件である》なら、すぐれた作品でも何度も繰り返せば退屈を生む。》

ーーたぶん退屈するほど繰り返して聴いていない場合なら、一生愛は続く。つまりたいして愛していない。

《三という数字のルールを守らなければならない。一人の女と短い期間に会ってもいいが、その場合はけっして三回を越えてはだめだ。あるいはその女と長年つき合ってもいいが、その場合の条件は一回会ったら少なくとも三週間は間をおかなければならない。》(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

ーー謎のような女だったら、三週間の間をおいたら、続くかも。 音楽は?

《……複雑な曲をはじめてきくときには、われわれの耳には何もきこえないことがよくある。(……)あまりききなれないめずらしい作品をきいたときには、すぐには記憶できないばかりでなく、それらの作品から、(……)われわれがききとるのは、それほどたいせつではない部分なのである。》

まあこのような「女」だったら別だ。

私はこのソナタがもたらすすべてを時間をかさねてつぎつぎにでなければ好きになれなかったのであって、一度もソナタを全体として所有したことがなかった、このソナタは人生に似ていた。しかし、そうした偉大な傑作は、人生のようには幻滅をもたらすことはないが、それがもっている最上のものをはじめからわれわれにあたえはしない。ヴァントゥイユのソナタのなかで一番早く目につく美は、またあきられやすい美であり、そうした美がすでに人々に知られている美とあまりちがっていないのも、まず早く目にとまる美だからである。しかしそんな美がわれわれから遠ざかったとき、そのあとからわれわれが愛しはじめるのは、あまり新奇なのでわれわれの精神に混乱しかあたえなかったその構成が、そのときまで識別できないようにしてわれわれに手をふれさせないでいたあの楽節なのである。

所有しなかったら、続くよな。

…その独自の美にこめられた力のために人の目につきにくくなり、知られずに残っていたあの楽節、それがいよいよ最後にわれわれのもとにやってくる、そんなふうにおそくやってくるかわりに、われわれがこの楽節から離れるのも最後のことになるだろう。われわれはそれを他のものよりも長い時間を費やしていたであろうから。それにまた、奥深い作品に到着するために個人にとって必要な時間というものは、―――このソナタについて私が要した時間のように―――公衆が真に新しい傑作を愛するようになるまえに流される数十年、数百年の縮図でしかなく、いわば象徴でしかないのである。(以上、プルースト「花さく乙女たちのかげに」)

ストラヴィンスキーのような耳だったら、おそくやってくるのは、すぐさま(三ヶ月くらい程度)だったらどうする? 彼から離れるのがなかなかであっても、それでも離れるときは半年後に来る。


感覚があまりにも鈍く、敏感に聴くことさえあまりにも粗っぽすぎる人たちのシアワセ!


ニーチェ曰く、
《諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか? ――自分たちは真であるものを認識するには全く役に立たないかもしれない。この不安が諸君を苦しめたことはないか? 自分たちの感覚はあまりにも鈍く、自分たちは敏感に見ることさえやはりあまりにも粗っぽすぎるという不安が? 自分たちが見ることの背後に昨日は他人よりも一層多くを見ようとしたり、今日は他人とは違ったように見ようとしたり、あるいは諸君がはじめから、人々が以前に見つけたと誤認したものとの一致あるいは反対を見出そうと渇望していることに、気づくとすれば! おお、恥辱に値する欲望!》


《諸君はまさに疲れているためにーーしばしば効果の強いものを、しばしば鎮静させるものを探すことに、気づくとすれば!》 


《あるいは諸君は、諸君が冬の明るい朝のように凍って乾き、心に掛かる何ものも持っていない今日は、一層よい目を持っていると考えるのか? 熱と熱狂とが、思考の産物に正しさを調えてやるのに必要ではないか?》 


《諸君の肉体的な疲労は、諸事物にくすんだ色を与える。諸君の病熱は、それらを怪物にする! 諸君の朝は、事物の上に夕暮れとは違った輝き方をしてはいないか?》(『曙光』 539番)


――だよな、気分によって愛する作品は変わる。

プルースト曰く、
《昔から、一つの作品が完全に理解され勝利を博するころには、まだ無名の、べつの作家の作品が、一段と気むずかしい何人かの知識人のまわりに、新しい礼讃をまきおこしはじめ、やがて強い威力をほとんど失ってしまった有名作家にとってかわらなかったためしはめったにない。》(『ゲルマントのほう Ⅱ』井上究一郎訳)

ーーそんなためしのない人はウラヤマシイ


まあ、上の文はなかばジョークだよ

《……遠さ、戦慄、なにか異様なもの。彼はわれわれを試練に遭わせるーーあまりにも透明なあの音、昇華作用を経たあのピアノが耐え切れないという人々をわたしは知っている。このピアノを聴くと彼らの皮膚はひきつり、指は痙攣するのだ。試練はときに恐ろしいものを含んでいる。わたしもまた、そのせいで、彼があとに残したあの無の彫刻からできるだけ離れていたいと思うことがある。》(シュネデール『グールド 孤独のアリア』)


ーーこうやって、遠ざけつつ、一生、愛し続ける作品はあるだろうよ