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2014年1月8日水曜日

戀愛について 石川淳

前投稿、「写経:石川淳『夷齋筆談』と蓮實重彦の「ボロクソ」芸」に引き続く。

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むかし、をとこ、かたゐなかにすみけり。をとこ、「宮づかへしに」とて、わかれをしみてゆきにけるまゝに、三とせこざりければ、まちわびたりけるに、いとねむごろにいひける人に、「こよひあはむ」とちぎりたりけるに、このをとこきたりけり。「このとあけたまへ」とたゝきけれど、あけで、うたをなんよみていだしたりける。あらたまの年のみとせをまちわびてたゞこよひこそにひまくらすれといひいだしたりければ、あづさゆみま弓つき弓年をへてわがせしがごとうるはしみせよといひて、いなむとしければ、女、あづさ弓ひけどひかねど昔より心はきみによりにし物をといひけれど、をとこかへりにけり。女、いとかなしくてしりにたちておひゆけど、えおひつかで、し水のある所にふしにけり。そこなりけるいはに、およびのちして、かきつけける。あひおもはでかれぬる人をとゞめかねわが身は今ぞきえはてぬめるとかきて、そこにいたづらになりにけり。(塗籠本伊勢物語第廿五)


女人が指の血をもつて岩に歌を書きつけるといふ仕打は、文學の目にはなにかの象のやうに見えるかも知れないが、これは戀愛の現實であり、また戀歌の骨法となる。死んでもあきらめない。ひでえ執念である。それゆゑに、戀愛の流血はただちに人閒の生活の場にそそがれる。男女を逆にしても、この力學的關係には變わりがない。ただし伊勢物語の男は足はやくさつさと行きすぎる。これはあきらめたどころか、戀愛生活の變位といふことになるのだらう。「わざせしがごとうるはしみせよ」なんぞとあぢなセリフをのこして、ドン・ファンの貫祿、一個の女の流血を踏まへつつ、死ぬやつは死ね、あとふりむかず、行くさきざきに女あり、すべての柔媚なる指を食ひつくし、食つてしまったものに未練は微塵も無いといふ氣合はけだし陽根の榮養學である。この器官はそれの構造に於てあたかも身體の他の部分から解剖學的に自由であるかのやうに見受けられる。陽根の運動は必ず倫理的に無法でなくてはならない。それゆゑに、戀愛といふ肉體の操作はただちに精神の場に乘りこむことができる。精神上のプラトニック・ラヴといふごとき陽根否定のチンピラ精神にしても、やつぱり男子の、ただし男子の心情の發明に係わるやうである。心情上のヴィジョンが鰯のあたまぐらゐの神格を現ずることは、むしろ女子の例に屬する。女子には御方便にも否定すべきなにものもあたへられてゐない。心情はことごとく女子のものである。心情ほど肉體に密着するものはない。按ずるに、こころのうつろひといふものは肉體エネルギーの微妙なる作用である。「むかしよりこころは君に」といふ女のおもひの、よく三年閒の時閒的距離に堪へたやつでさへ、たまたま「いとねんごろにいひける人」の奉仕に逢ふと、肉體がついにこれとちぎるといふ現象は、どうしても生理の必然なのだらう。浮氣といふ技巧派の策動とはちがふやうである。ドン・ファンは優越的にこの消息を見拔いてゐる。したがつて、おれが道をつけてやつたんだ、ありがたいとおもつて死んぢまへといふ見識を示すことにもなる。たつたこれだけの、むかしの物語の一節でも、事が戀愛にかかはると、肉體と心情とはてきめんに精神と生活との二重の場に於てもつれあふ。後世に至つては、世の中の仕掛とか男女のヒステリーなんぞまでここにどやどや割りこんで來るのだから、戀愛の身上相談といふやつは、事態錯綜、いつまで行列に立つてゐても解答が配給される日は無い。とても道德ごときものの口出しをする席はないだらう。死んぢやいなさいといふのが、なるほどもつとも早い、つまりもつとも親切な忠告かも知れない。精神は永遠にこの處理に手を燒く仕儀となる。といふのは、肉體と心情との結託はならびに不埒にも精神にたたかひを挑んで來るものだからである。