このブログを検索

2014年1月7日火曜日

写経:石川淳『夷齋筆談』と蓮實重彦の「ボロクソ」芸

日本語の文学的散文を操って比類を絶するのは石川淳である。その漢文くずし短文は、語彙の豊かさにおいて、語法の気品において、また内容の緊密さにおいて、荷風を抜きほとんど鴎外の塁に迫る。・・・・・・荷風以後に文人と称し得る者はただ一人の夷斎石川である。(加藤周一『日本文学史序説』)

《おそらく日本語が到達しうる文体の極限がここにある。》(安部公房「解題」『夷齋筆談』)

ーーながいあいだ見当たらなかった石川淳の『夷齋筆談』がCDの棚の奥に紛れているのが見つかったので写経。

黃入谷のいふことに、士大夫三日書を讀まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある。いつの世からのならはしか知らないが、中華の君子はよく面貌のことを氣にする。明の袁中郞に至つては、酒席の作法を立てて、つらつきのわるいやつ、ことばづかひのぞんざいなやつは寄せつけないと記してゐる。ほとんど軍令である。またこのひとは山水花竹の鑑賞法を定めて、花の顏をもつて人閒の顏を規定するやうに、自然の享受には式目あり監戒あるべきことをいつてゐる。ほとんど刑書である。按ずるに、面貌に直結するところにまで生活の美學を完成させたのはこの袁氏あたりだらう。本を讀むことは美容術の祕藥であり、これは塗ぐすりではなく、ときには山水をもつて、ときには酒をもつて内服するものとされた。詩酒徵逐といふ。この美學者たちは詩をつくつたことはいふまでもない。山水詩酒といふ自然と生活との交流現象に筋金を入れたやうに、美意識がつらぬいてゐて、それがすなわち幸福の觀念に通つた。幸福の門なるがゆゑに、そこには強制の釘が打つてある。明淸の詩人の禮法は魏晉淸言の徒の任誕には似ない。その生活の建前かれいへば、むしろ西歐のエピキュリアンといふものに他人の空似ぐらゐには似てゐる。エピキュールの智慧はあたへられた條件に於てとぼしい材料をもつていかに人生の幸福をまかなふかといふはかりごとに係つてゐるやうに見える。限度は思想の構造にもあり、生活の資材にもあり、ここが精いつぱいといふところで片隅の境を守らざることをえない。しかし、唐山の士太夫たる美學者はその居るところが天下の廣居といふけしきで、臺所はひろく、材料はいろいろ、ただ註文がやかましいために、ゆたかなものを箕でふるつて、簡素と見えるまでに細工に手がこんでゐる。世界觀に影響をあたへたのは、この緊密な生活に集中されてエネルギーの作用である。をりをり道佛の思想なんぞを採集してゐるのは、精神の榮養學だらう。仕事は詩をつくることではなく、生活をつくることであり、よつぽど風の吹きまはしがよかつたのか、精神上の假定が日日の生活の場に造型されて行くといふ幸運にめぐまれて、美學者の身のおちつきどころは神仙への變貌であつた。人閒にして神仙の孤獨を嘗めなくてはならぬいといふ憂目にも逢つたわけだらう。もつとも、人閒のたのしみは拔目なく漁つた揚句なのだから、文句もいへまい。すでに神仙である。この美學者たちが小説を書く道理は無かつた。大人の説、小人の説といふ。必ずしも人物の小大のみには係らないだらう。身分上より見れば、士太夫の文學、町人の文學といふように聞える。士大夫の文學は詩と隨筆とにほかならない。隨筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにあつた。美容術の祕訣、けだしここにきはまる。三日も本を讀まなければ、なるほど士大夫失格だろう。人相もまた變らざることをえない。町人はすなはち小人なのだから、もとより目鼻ととのはず、おかげで本なんぞは眼中に無く、詩の隨筆のとむだなものには洟もひつかけずに、せつせと掻きあつめた品物はおのが身の體驗にかぎつた。いかに小人でも、裏店の體驗相應に小ぶりの人生觀をもつてはいけないといふ法も無い。それでも、小人こぞつて、血相かへて、私小説を書き出すに至らなかつたのは、さすがに島國とはちがつた大國の貫祿と見受ける。……(石川淳「面貌について」『夷齋筆談』所収)
芝居は無筆の目學問といふ。耳目の學といへども、學問の雰圍氣の周ではあるだらう。舞臺と見物席との交歡に、よりよき生活への夢があつた。この夢に參加するものは士人あり町人あり通人あり新五左あり、芝居のみやげは文明のかけらを折に詰めたものにほかならなかつた。さいはひ、當時の芝居小屋は後世の大藝術劇場とはちがつて、見物を見物席と廊下と食堂とに分散させて、はなはだ禮儀正しく舞臺と他人行儀にさせるやうな仕掛にはなつてゐない。棧敷はすなはち置酒高會の場所であるた。舞臺が見るに堪へなければ、見物は食堂に疎開するにおよばず、ただうしろを向いて酒をのむといふ露骨な批評形式をとる權利を留保した。そのさかづきの手をとどめて、見物を舞臺のはうに向きかへさせるのは、役者の藝の力であつた。棧敷に於ける市民生活と、舞臺の藝の世界とのあひだには、理想化された文明の次元が相通じた。役者はどうしても名優になり、見物はいやでも見巧者にならざるをえない。(……)棧敷にはくせものの歡會あり、舞臺には名優の演技あり、この完全なる交流を支へたのは見物一同の文明への憧憬であつた。この芝居小屋の雰圍氣の中にある生活を何と呼ぶか。これを俗化せる風流生活と呼ぶほかない。ひとがここに來て享受する生活の充實感を何と呼ぶか。これを娯樂と呼ぶほかない。芝居は娯樂だといふことの、本質的な意味がここにある。すなはち知る、娯樂とは一般に俗化せる風流生活への民衆の參加の謂である。(「娯樂について」)

◆以下は以前写しとったもの(『夷齋小識』より)

久保田さん。久保勘さんのむすこさんの、ぶしつけながら、久保萬さん。御當人のちかごろの句に、湯豆腐やいのちのはてのうすあかり。その豆腐に、これもお好みのトンカツ一丁。酒はけつかうそれでいける。もとより仕事はいける。ウニのコノワタのと小ざかしいやつの世話にはならない。元來さういふ氣合のひとであつた。この氣合すなわちエネルギーの使ひ方はハイカラといふものである。(石川淳「わが萬太郞」『夷齋小識』所收)
三好が詩に於てつとに萩原朔太郞を宗としたことは周知のとほりだが、その詩境をうかがふに、年をふるにしたがつて、むしろ室生さんのはうに「やや近距離に」あゆみ寄つて來たのではないかとおもふ。萩原さんの詩はちよつと引つかかるところがあるけれど、室生さんの詩のはうはすらすら受けとれると、げんに當人の口から聞いたことがあつた。萩原さんをつねに渝らず高く仰いてゐた三好として、これは揣らずもみづからの素質を語つたものだらう。ちなみに、そのときわたしは鑑賞上それと逆だと應へたおぼえがある。また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき拔かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。(……)

ところで、このやさしい顏の詩人はたちまち現存の二三のひとの名をあげてするどい評語を發しはじめた。みじかいことばで、みごとに急所を突いて、びしびしいふ。名をあげられたものは今日に繁昌する學者文人諸君である。みなボロクソ。そのボロクソがぴつたり正確であつた。尋常の惡口ではない。それの正確であることがわたしは氣に入つた。今になつて、最後に逢つた故人のことを人物が素直、評語が正確だなんぞといふと、いかにも取つてつけたやうなはなしにきこえるかも知れないが、事實さうであつた。わたしは幸運にも最後の三好について爽快な印象をもつている。(石川淳「三好達治」同『夷齋小識』所收)

ーー石川淳189937 - 19871229日、三好達治1900823 - 196445日なのだが、はてここでボロクソに言われたのは誰だろう。





   ーー萩原朔太郎の末の妹の萩原アイ(「三好達治の恋」より) 


たとえば、西脇順三郎(1894120 - 198265日)は、三好達治とともに萩原朔太郎に私淑した昭和詩人の双頭としてよいだろうが、三好達治と西脇順三郎が互いを褒めあうのは寡聞にして聞いたことがない。だが下司な邪推をするのはやめにしておこう。






以下は、《なるほど彼(石川淳)は、当代きっての巧みな日本語遣いというべきで、ときには威勢よく啖呵を切り、きわどい冗談をさらりと言ってのけ、下世話な題材を繊細な比喩でもっともらしい語り口に仕立てあげてみせたあたり、その小気味よさに思わずうっとしもしてしまう》としつつの蓮實重彦の「ボロクソ」芸である。


◆附記:蓮實重彦 小説から遠く離れて

……何やら微妙な複雑さを身にまとい、理屈では解明しがたい神秘さをたたえているのが小説だとする視点は、文学に無償の価値を捏造して特権的に享受しようとする者たちの悪しき思い込みにすぎないし、その種の捉えどころのなさなど小説はいささかも必要としておらず、文学的な才能というものもその種の曖昧さによって擁護されたりはしないだろう。小説とは、漠たる曖昧さにとらえられた定義しがたい何かなのではなく、優れて厳密なものなのであり、しかも、厳密さとは、形式の問題ではなく、運動の問題にほかならないのである。小説とは、なによりもまず、厳密に作動する装置なのであり、物語があからさまなのは、それが厳密に作動することを回避し、もっぱら形式を踏みはずすことを恐れているだけの言葉だからなのだ。

われわれがあえて「小説から遠く離れ」てみたのは、装置としての厳密な作動ぶりに出会う必要を感じていたからにほかならず、批評とは何の関係もない説話論的な還元に身を投じてみたのも、形式化や意識化や中心化が解読とともに何の抵抗もなく導き出される物語のいかにもあからさまなあり方を徹底化することで、改めて批評の厳密さに回帰するという迂回が必須のものと思われたからである。あるいは、物語に似てあまりにもあからさまな姿におさまってしまう小説が、文学に対する無自覚な侮蔑をあたりに行きわたらせているという前提を確認する必要があったからだというべきかもしれない。

すでに何度も指摘したことだが、村上春樹の『羊をめぐる冒険』は、物語そのものというべきあからさまな小説であり、その限りに於てよくできているし読みやすくもあるのだが、装置としての厳密さを欠き、運動に背を向けている。同じことは、彼がその後に書いた作品についてもいえるだろう(……)。いずれも、あからさまな形式として物語を模倣することしかしておらず、先ほど要約した双生児の冒険譚の形式にあまりに似すぎてしまっている。村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』にしても、その種の形式的なあからさまさをかろうじてまぬがれているにすぎず、装置として作動する厳密さにはいささか遠いといわねばならず、おそらく、「小説から遠く離れて」いるのは、こうした長篇小説の方なのだというべきときがきている。それらのあらかさまな形式的類似に対して、いま、小説を擁護し、批評を擁護すべきなのだとさえ思うのだが、それを支えてくれるのが、類似を介して「完璧な捨子」の生成を実践してみせた大江や中上の物語に対する身のひるがえし方だという点は強調されねばならない。

では、「小説から遠く離れ」ることで擁護さるべき小説が厳密に作動する装置であるとするなら、何のために作動する装置だというのか。それを明らかにする前提として、物語を模倣するあからさまな小説の典型的な例をいま一つ見てみなければなるまい。典型的というからには、村上春樹や丸谷才一、あるいは井上ひさしよりも文学的な意味でより高い評価を受けている作家に登場してもらう必要があり、それには、石川淳の長篇でも読んでみるに限る。というのも、はたして石川淳が小説家であろうかという疑問はつとに口にされていながら、孤高の文人といった文学とは無縁のイメージによって事態が曖昧に見過され、とりわけ晩年の彼が、言葉の真の意味でのあからさまな小説しか書かなかったことがあまり話題にならなかったからである。

いうまでもなかろうが、石川淳が才能を欠いた作家だと主張する意図など毛頭持ってはいない。ただ、小説家として、とりわけ長篇小説の作家としての彼にしかるべき才能がそなわっていたか否かは、大いに疑問の残るところで、とりわけ、晩年の彼が何かに憑かれたかのように長篇ばかりを書きまくっていたとき、われわれとしてはむしろ痛ましい思いでその言葉を読み続けていたのである。なるほど彼は、当代きっての巧みな日本語遣いというべきで、ときには威勢よく啖呵を切り、きわどい冗談をさらりと言ってのけ、下世話な題材を繊細な比喩でもっともらしい語り口に仕立てあげてみせたあたり、その小気味よさに思わずうっとしもしてしまう。にもかかわらず、これは小説ではないとつぶやずにいられなかったことが、一度や二度ではないと素直に告白すべきときがきている。

もちろん、小説の理想像を想定し、たとえば晩年の『狂風記』といった長篇がその理想像を大きく踏みはずしているという理由で、そうつぶやいたわけではない。たしかにこれは、小説にほどよく似たものとして読むことができる作品だし、その文体的な水準をとってみるなら、掛け値なしの一流品だということさえできるのだが、巧みな日本語遣いがみごとな文体を駆使したものがそのまま小説になるわけでもなかろうし、そもそも『狂風記』のテクストは、あまりにも容易に説話論的な還元をうけいれてしまう筋立てからなりたっているのである。

ことによると、人は、江戸戯作の伝統などを持ち出し、たやすく形式化されやすいその物語的な側面を、石川淳が意図的に小説に活用し、御都合主義による筋立てを介して、意識化と中心化にさからう雑多な力を擁護しているのだと主張するかもしれないし、またそうした姿勢を、日本の近代小説には稀なゴシック・ロマンス的なものへの執着として高く評価する論者もいるとは思う。実はわれわれもまた、そうであってくれたらならとさえ願っているのだが、にもかかわらず、いったん説話論的な還元をうけいれた『狂風記』のテクストは、中心化や意識化に逆らう愚鈍な細部を誇示することなく、きわめて従順かつ聡明に均衡のとれた形式におさまってしまう。しかもその際、説話論的な還元をまぬがれた言葉は、ただ申し分のない日本語として、構造のほどよい装飾品たること以上の自分を主張しようとはせず、運動としての厳密さを誇示することのない巧妙で精緻な言葉遣いの日本語が、あとに残されるばかりなのだ。

では、巧妙で精緻な言葉遣いの日本語が物語の形式のかたわらに残されただけではなぜ小説たりえないのか。やがて語られることになろうその理由に先立ち、『狂風記』と呼ばれる執筆に十年もの時間が費やされた長篇小説の説話論的な構造が、まるで絵に描いたようにこれまでにみた物語的な典型と重なり合っていることを確かめておくべきだろう。というのも、おびただしい数の人影が定かならぬ空間を右往左往し、そこにつむぎあえられる関係の錯綜しきったさま故に、波瀾万丈の筋立てが思いもかけぬ展開を示すかにみえるこの長篇小説が、実は波瀾万丈とはおよそ対照的な単純きわまりない図式におさまってしまうさまを立証することほど容易なはなしもまたとないからである。しかもその図式が、われわれの馴れ親しんできた双生児の冒険譚であることはいうまでもない。P252-256

ここで「双生児」の冒険譚といわれるものは、「宝探し」の物語などとも言い換えられておりその図式とは次のようなものだ。

どこかに一人の男がいて、誰かから何かを「依頼」されることから物語が始まっている。その「依頼」は、いま視界から隠されている貴重な何かを発見することを男に求める。それ故に、男は発見の旅へと出発しなければならない。それが「宝探し」である。ところが何かがその冒険を妨害しにかかる。多くの場合、妨害者はしかるべき権力を握った年上の権力者であり、その権力維持のために、さまざまな儀式を演出する。儀式はある共同体内部での「権力の譲渡」にかかわるものであり、そこで譲渡されべき権力と発見される貴重品とは、深い関係にあるものらしい。そのため、依頼された冒険ははかばかしく進展しなくなるのも明白だろう。発見は、とうぜんのことながら遅れざるをえない。その遅延ぶりを促進すべく予期せぬ協力者が現われ、ともすれば気落ちしそうになる男を勇気づける。協力者は、同性であるなら分身のような存在だし、異性であれば妹に似た血縁者である。二人の協力者は、どこかしら近親相姦的な愛か、倒錯的な関係を物語に導入し、純粋な恋愛の成立をはばみつつ、貴重品の発見へと向けてもろもろの妨害を乗りこえることになるだろう。P250

さて名人石川淳の代表作のひとつ『狂風記』は、この物語の構造にぴったり当てはまることをめぐって書き継がれていく。《誰もが知っている物語を語ってみせながら、なお人を惹きつけてしまう術を心得た人間を、われわれは名人と呼ぶ。》

……こうした物語を読み進める者が捉えられるのは、すべてが既知の要素からなりたっているという既視感にほかならない。細部にしかるべき代置や交換が見られるとはいえ、物語の構造として、『狂風記』は、村上春樹や、井上ひさしや、丸谷才一の長篇とほぼ同じ要素からなりたっており、そこに狂った風が吹き募っているとはとても思えないからである。正直なところ、『狂風記』を読むには『羊をめぐる冒険』を読むのと同じ退屈さを要請される。何かがテクストとともに作動し、その機能ぶりが厳密きわまりないことに圧倒されたりすることはなく、形式が快い文体をまとって投げ出されているだけだといった印象をいだくしかないからである。少なくとも、説話論的な水準においては何の驚きもなく、これを波瀾万丈の物語として読む者がいたとするなら、それは物語というものを甘く見積もっているか、波瀾万丈という言葉の意味を誤解しているかのどちらかだろう。いずれにせよ、晩年の石川淳を融通無碍な自在さという点から評価するのは決定的な間違いだというほかはなく、彼に可能なことは、せいぜい典型的な物語を律儀に語ってみせることにつきており、その形式そのものを解読する装置さえ円滑に機能しているなら、息をのんだりわれを忘れたりする瞬間など訪れようもない。

誰もが知っている物語を語ってみせながら、なお人を惹きつけてしまう術を心得た人間を、われわれは名人と呼ぶ。だが、小説には名人など存在しない。語り口の魅力とは、もっぱら物語について口にさるべき誉め言葉だからである。石川淳がはたして優れた小説家かどうか疑わしいというのは、そうした理由による。彼は、何度でもその巧みな語りを再現してみせることができるだろう。だが、小説が再現されることなど必要としているはずがない。小説とはもっぱら反復されるべきものであり、反復が可能なのは、同じでないことが明らかな場合に限られている。われわれが擁護してみたいのは、再現ではなく、反復の対象としての小説なのである。(P260-261)

波瀾万丈の物語とは一つの語義矛盾である。あらゆる物語は構造化されうるもので、思ってもみないことが起るのは、その構造に弛みが生じ、物語がふと前面から撤退したときに限られる。挿話の連鎖に有効にかかわらない細部がときならぬ肥大化を見せるような場合に、かろうじて事態は波瀾万丈と呼びうる様相を呈するにいたる。物語を見捨てた言葉の独走といったことが起るとき、構造の支配が遠ざかって小説が装置として作動し始めるといったらいいだろうか。

そのとき言葉は、形式に奉仕する快い装飾品であることをやめる。大江健三郎の、あるいは中上健次の長編をめぐってしばしば口にされる読みにくさとは、そのような言葉の独走によるものにほかならず、石川淳が駆使する上質の日本語には、そうした波瀾万丈が本質的にかけているというべきだろう。どれほど多彩な顔ぶれが登場し、筋立てに複雑な屈折が認められようと、その種の雑多さはきまって単純な要素の組み合わせからなっており、説話論的な還元にたやすく屈服し、波瀾万丈とはまるで異質の驚きのなさにおさまるしかないものなのだ。『狂風記』の場合、そのほとんどの挿話は、未知の人物の登場によって新たな展開をみせるかに思われながら、その機能は、マゴとヒメという一組の男女の目論みつつある企ての実現を「妨害」するか「助長」するかのどちらかにすぎず、その意味で、個々の説話論的な役割はことごとく単純きわまりない既知のものだといってよい。無数の既知がいかがわしい仮面のもとにうごめいていても、その総和が驚きを誘発する既知の記号とはなりがたいからである。

だから、物語とは、原理として単調さを生きるしかないものなのだ。あらかじめ体系化された細部の結合によっては統御されがたい何かが到来するとき、人は初めて驚く権利を持つのだが、その驚きが物語によってもたらされるものではなく、物語の撤退によるしかなかろうということは当然なのである。波瀾万丈とは、本来、そうした驚きの構造化されがたい衝突を意味しているはずなのだが、言葉が独走するときに起るその種の衝突は、必ずしも迅速さの印象を与えるとは限らない。それは停滞としても、迂回としても、無方向な横滑りとしても起りうるもので、長篇小説とは言葉の独走による衝突を数多く体験することで終りそびれるしかない物語にほかならず、それがかろうじて下しうる長篇小説の定義なのである。

そこで、われわれは次のように宣言することができる。すなわち、大江健三郎の『同時代ゲーム』は長篇小説だが、村上春樹の『羊をめぐる冒険』は長篇小説ではないように、中上健次の『枯木灘』は長篇小説だが、石川淳の『狂風記』は長篇小説ではない、と。このような定義が作品の具体的な長さとは無縁のであろうことはいうまでもなかろう。説話論的な構造としてはごく単純な図式に還元されるはずの『羊をめぐる冒険』が、小説として比較的長いのは、そこでの語りが停滞も迂回も横滑りも示すことなく、いわば同義反復的に引きのばされているからにすぎない。村上春樹における言葉は、個々の挿話に形式的な変容を導入することのないかたちで、もっぱら同方向を目ざして付加され、だから、結果的に長い小説となるほかはないのだが、その長さが付加的である限りはいつでも要約可能なものなのである。(P262-264)