このブログを検索

2014年1月21日火曜日

「2050年の日本のGNPは韓国の半分」

わずか数十年で人口が半減に向かう(政府機関調べ)のに、放射能汚染の危険の方を選ぶのはおかしい。それは子供を産みたくなる社会ではない。人口減を抑えなければ生産者も消費者も消えてゆく。国力は下がるじゃないか。そもそも原発作っても、使う国民がぐっと減る。結論は明白だ。(いとうせいこう氏ツイート)

今更感もあるが、こういったことは何度も繰り返していわなければならないのだろう、《いまは当たり前のことを当たり前にいわなきゃいけないんだ》、と中上健次は死ぬ一年前(1991)に語った。


◆『2050年の世界』(文藝春秋刊2012)

英国の『エコノミスト』誌は、1962年に「驚くべき日本」と題して、日本が世界の経済大国へのしあがっていくとの長期予測を発表し、的中させた実績があります。シンクタンク機能を持ったこの雑誌が、2050年までの世界を20の分野で大胆に予測します。「2050年の日本のGNPは韓国の半分になる」「2050年の日本の平均年齢は52.7歳。アメリカのそれは40歳」。人口動態、戦争の未来、次なる科学と技術、環境、生活などなど。あなたの未来も見えてきます。(2050年の世界 英『エコノミスト』誌は予測する
〈2050年までには、被扶養者数と労働年齢の成人数が肩を並べるだろう。過去を振り返っても、このような状況に直面した社会は存在しない。中位数年齢(*注)が52.7歳まで上昇した日本は、世界史上最も高齢化の進んだ社会となるはずだ〉(世界で最も悲惨な2050年迎える国は日本

※エコノミスト誌の韓国の2050年予測については、楽観的すぎると疑ったほうがいいのかもしれない→ 資料:韓国の自殺率と出生率

…………


《構造主義は、場所がそれを占めるものに優越すると考える新しい超越論的哲学と分かちがたい》(ドゥルーズ「構造主義はなぜそうよばれるのか」)――たとえばマルクスの『ブリュメール』や『フランスの内乱』はメタ分析だ、ロンドンだかの亡命先で書いたのだから。

もちろん肝心なのは「出来事」に決っている、だが「出来事」でさえも「構造」から出てくる場合が多いということをわれわれは知ってしまっている。「刑事は現場を百遍踏む」の現場主義の限界、その罠をいやというほど知ってしまっている(参照:柄谷行人の「構造と反復」をめぐって

実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』

もっともメタ言説批判というものはつねにある。たとえばロラン・バルトによる親しい仲間たち(『テル・ケル』誌同人)、--テキスト論者たちーーへの吟味=批判というものはある。メタ言説を批判し生成するテクストを顕揚している彼らの文章そのものは生成テクストになっておらずメタに終始しまいがちなのではないか、というものだ。

メタ言語を破壊すること、あるいは、少なくともメタ言語を疑うこと(というのも、一時的にメタ言語に頼る必要がありうるからである)が、理論そのものの一部をなすのだ。「テクスト」についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬテクストとなり、テクストの探求となり、テクストの労働とならねばならないだろう。(『作品からテクストへ』)
「テクスト理論」と呼ばれるメタ言語的な言説とも深くかかわりあってはならず、あくまで浅い関係にとどまらなければならない。なぜならみずからそうした言説を担うことは、支配する「テクスト」を支配することにほかならず、とどのつまりは「テクスト」の終りの宣言にも通じてしまうからだ。(蓮實重彦『物語批判序説』)

要するに、いまだ《自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)には相違ない。

だがメタ言説を敬遠し過ぎて次のような視点を忘却してはならないだろう。むしろ多くの日本人の特性として目先のことしか目がいかないという面があるのは、江戸時代からの伝統である(参照:いつのまにかそう成る「会社主義corporatism」


原発事故後すこしは読まれた、ジャン=ピエール・デュピュイは「たとえ知識があろうとも、それだけでは誰にも行動を促すことはできない」と言う。なぜなら「私たちは自分の知識が導く当然の帰結を、自分で思い描けないから」。

いわゆる「弱者擁護」姿勢はいまのシステムを続けるかぎり生れてくるはずはない、ひとつの弱者保護が仮になされればほかによりひどい皺寄せが生まれるに決ってる(たとえば教育費削減)。

ーーーー「引き返せない道」より


未来の日本のよりいっそうの少子化、その驚くべき人口構成の「構造」からは強い反対の圧力がある。そんなことはだれも分かっているのに。――現場主義に拘泥して喜怒哀楽を表明しても無駄な抵抗だ。なぜ知性も教養もある研究者や学者たちなどでさえもが、目先の不快を表明してばかりで、すこしでもメタの視点に立ってみようとする気配が稀にしか窺われないのだろう。いやわたくしは彼らの見解をツイッターでの発言を垣間見るのがほとんどなどで誤解があるかもしれない。そもそもツイッターというのは目先主義者たちの発話の場なのかもしれない。

「勤勉の論理」者たちなのだ、ほとんどがいまだに。

(彼らは)カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始する(……)。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』)

極論をいえばいま消費税に反対することは、社会保障費、教育費削減に賛成することを意味する(アベノミクスがひどく成功してバブル時代の税収が復活するなどということが起こらねば)。日本の「家計」を帳尻が合うようにするには、消費税30%ほどが必要なのだ(参照:アベノミクスと日本経済の形を決めるビジョン

もちろん当面の引き上げの影響はあるだろう、

私は「消費税引き上げの影響は存外に大きい可能性がある」という見方です(植田和男先生とたぶん同じ)。ただし、目先の景気と将来の負担との比較の問題で、目先の痛みは大きいとしても、それをしなかったときの将来の痛みはもっと大きいと考えています。(池尾和人氏ツイート)




ーーー将来推計人口でみる50年後の日本(内閣府統計より)

いまだに1997年の消費税引き上げにおいて税収は下がったじゃないかなどともっともらしい理屈をつけて消費税反対をノタマウ連中がいる。税収を上げるために消費税をゼロにする議論がまったくないのはではどういうわけか。すこしもで考えてみたらわかる。

《消費税が3%から5%に引き上げられた1997年の景気動向については、アジア通貨危機(7月)、金融システムの不安定化(11月)という大きなショックに日本経済が見舞われたため、消費増税そのものの影響だけを析出するのは容易ではない。》(社会保障・税一体改革の論点に関する研究報告書説明資料(第Ⅱ部)  平成23年5月30日東京大学大学院経済学研究科長吉川洋 )

破局(カタストロフィ)の預言者はいつも受け入れられない。なぜなら、破局はまだ起こっておらず、それはあいまいな「未来」でしかない。人びとは現在の現実的関係のなかで生きていて、まだ訪れていない「未来」を基準に行動しようとはしない。だから予言は、事が起こったときにしか信じられない。だが、それでは遅すぎるのだ。予言には意味がなかったことになる。予言は人びとに破局を避けさせるためにこそなされるのだが、それが起こってしまっては、予言はその役目を果たさせなかったのだ。(西谷修-『ツナミの小形而上学』と高木仁三郎

《「俺の放言放言と言うが、みんな俺の言った通りになるじゃないか」と彼は言う。言った通りになった時には、彼が以前放言した事なぞ世人は忘れている。「馬鹿馬鹿しい、俺は黙る」と彼は言う。黙る事は難しい、発見が彼を前の方に押すから。又、そんな時には狙いでも付けた様に、発見は少しもないが、理屈は巧妙に付いている様な事を言う所謂頭のいい人が現れる。林は益々頭の粗雑な男の様子をする始末になる。(小林秀雄「林房雄」『作家の顔』所収)》

―――《この「予言のパラドクス」から、人はどうしたら抜け出すことができるのか?》

過去と未来の閉じた回路である時間―未来はわれわれの過去の行為から偶然に生み出されるが、 その一方で、 われわれの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。

『大惨事は運命として未来に組みこまれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていて も、起こるはずはなかった、ということだ。……たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること――それが起こったという事実こそが、遡及的に その必然性を生みだしているのだ(Jean=Pierre Dupuy, Petit métaphysique des tsunami, Paris, Seuil 2005, p. 19.)。』

もしも―偶然に―ある出来事が起こると、 そのことが不可避であったように見せる、 それに先立つ出来事の連鎖が生み出される。 物事の根底にひそむ必然性が、 様相の偶然の戯れによって現われる、 というような陳腐なことではなく、これこそ偶然と必然のヘーゲル的弁証法なのである。 この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、 おのれの運命を自由に選べるのだ。

環境危機に対しても、このようにアプローチすべきだと、デュピュイはいう。 大惨事の起こる可能性を 「現実的」に見積もるのではなく、 厳密にヘーゲル的な意味で<大文字の運命>として受け容れるべきである―もしも大惨事が起こったら、 実際に起こるより前にそのことは決まっていたのだと言えるように。 このように<運命>と ( 「もし」 を阻む)自由な行為とは密接に関係している。自由とは、もっと根源的な次元において、自らの<運命>を変える自由なのだ。

つまりこれがデュピュイの提唱する破局への対処法である。 まずそれが運命であると、 不可避のこととして受けとめ、そしてそこへ身を置いて、 その観点から (未来から見た) 過去へ遡って、 今日のわれわれの行動についての事実と反する可能性(「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入することだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)


現在を、カタストロフィが起こる未来にとっての過去と見ること。そのとき、現在とは、「未来において避け得ずに起こってしまった災害によって書きかえられた過去」となる。この「未来の固定点」からの遠近法が「プロジェクトの時間」であり、つまりは、フレドリック・ジェイムソンのいう「現在へのノスタルジア」的なパースペクティヴでもある。そして繰りかえせば、《「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入すること》だ。