◆フロイト『制止、症状、不安』(人文書院旧訳より)
……外部(現実)の危険は、それが自我にとって意味をもつ場合は、内部化されざるをえないのであって、この外部の危険は無力さを経験した状況と関連して感知されるに違いないのである。p373
※註:そのままに正しく評価されている危険の状況では、現実の不安に幾分か欲動の不安がさらに加わっていることが多い。したがって自我がひるむような満足を欲する衝動の要求は、自分自身にむけられた破壊衝動であるマゾヒスム的衝動であるかもしれない。おそらくこの添加物によって、不安反応が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺し、脱落する場合が説明されるだろう。高所恐怖症(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近いものである。
高所恐怖の症状があるのだが、たいしてひどいものではない(と自分では思っている)。ジャングルジムの頂上に登るのを敬遠するとか、遊園地の観覧車にのると冷汗がでる、あるいは高いビルで全面ガラスになっているようなところだとどうもいけない、――つまり足元が透明になっているといけないーーなどなど。観覧車でも大丈夫なタイプはあるので、出入り口が全面透明ガラスになっているヤツがいけない。ビルの屋上などの縁に腰かけて脚をぶらぶらさせているような写真は見ただけでゾッとする。アンコールワットでたいして気にもせずに高い塔に登って、降りるときには冷汗が出た。縄につかまっておっかなびっくりでソロソロと降りて他の観光客に笑われたなどということもある。そうはいっても山登りはへっちゃらなのだ。
自分では理由を、幼い頃、十歳ぐらいはなれた従兄と遊んでいて肩車から落ちそのとき肩を脱臼したーー後から聞いた話で全然覚えていないのだがーーそのせいではないかと思っていたが、フロイト曰く上記のようらしい。だがどうもこの叙述では納得できない…他の著者でも寡聞にしてかどうか、意外に高所恐怖症の叙述は少ないので、たいした「恐怖症」ではないのか…
ヒッチコックの『めまい』のスコッティは愛人ジュディ=マデリンが鐘楼の頂上から奈落の底に落ち込んだとき、はじめて高所恐怖症が治るのだったが、あれはなんだったのだろうか。たしか同時に「女の眼を覗き込む」ことができるようになったのでもあるが、わたくしは女の目を覗き込むのはそれほど不得手ではない。