『現代思想』2013.6月号(特集フェリックス・ガタリ)には「すぐれた」若いラカン派精神科医の松本卓也氏の「人はみな妄想する-ガタリと後期ラカンについてのエチュード」という「すぐれた」論文があるそうだ。このように「すぐれた」を二度繰り返したくなるほど将来を嘱望される人物のようだ。
ここでのラカンの言葉だと思われる「人はみな妄想する」とは、「人はみなパラノイアである」としてよいだろう。その意味は、次のミレールの言葉をひけばよく分る。
セミネール III でさえ、 ラカンは精神病を本質的に想像的なものによって定義していました。ラカンはある意味、精神病と想像的なものは等価であると考えていたのです。ラカンの著作における想像的なものは、このように精神病的なものでありますから、鏡像段階をパラノイアの記述として読み直すこともできるでしょう。すなわち、他者との基礎的な衝突があり、それは他者が私の役割を強奪していくからである、と。鏡像段階は投影によって構造化されているのです。主体の天然のパラノイア、想像的レベルに位置する主体、正常性(象徴的正常性)へと加入することを許可する象徴的秩序、をラカンはたびたび強調していました。しかし最後には、ラカンは精神病的主体はまったく正常であると喜んでいうようになりました。これは、アブノーマルなのは象徴的秩序の方であり、人間の性質は基本的にパラノイア的であるということを意味しています。(ミレール『ラカンの臨床パースペクティヴへの導入』)
上にあるように、晩年のラカンは、アブノーマルなのは象徴的秩序だと語ったそうだ。その前文に「象徴的正常性」とあるように、「大文字の他者」を信頼し切ってしまう人物たちをアブノーマルだとしたと捉えていいだろう。
①Idiotの例としてアラン・チューリング(自閉症者だとしばしば指摘される天才だ)。
②moron の例として、who fully identify with common sense, who fully stand for the “big Other” of appearancesとあるように「大文字の他者」を信頼し切っている人物で、ヘイスティングが挙げられている。日常的な偏見にみちた常識人がこれにあたる。
アガサ・クリスティの作品の一つで、ヘイスティングはポワロに、自分は日常的な偏見にみちたただの凡庸なありふれた人間だというのに、ポワロの探偵の仕事にとってどのように役に立っているのか、と尋ねる。ポワロはヘイスティングに、それだからこそ、つまりドクサの領域とでも呼びうるものーー自然な一般的見解――を具現化した凡庸な人間として、ヘイスティングを必要としているのだ、と答える。(ジジェク『斜めから見る』)
探偵の相棒にあたる人物、たとえばワトソンもそうである。
殺人犯は、犯行の後、真の動機を隠し、無実の人に罪を着せるような印象をつくりあげることによって、犯行の痕跡を消さなければならない(古典的なトポスーー殺人は被害者の近親者によって犯される。その犯人は、被害者の不意の出現に慌てた強盗の仕業だという印象を与えるようにと、あれこれ細工する)。その偽りの光景によって、殺人者は一体誰を騙そうとしているのか。偽りの光景を演出するとき、殺人犯はどんなふうに「推理」しているのか。それはいうまでもなく、探偵の忠実な相棒に具現化された、ドクサの、つまり「一般的見解」の領域そのものである。したがって、探偵は、自分の目ざましい洞察力と相棒の凡庸な人間性との対照を目立たせるためにワトソンを必要としているのではない。常識的な反応をするワトソンがどうして必要かといえば、それは、殺人犯が偽りの光景を演出することによってもたらそうとしている効果を最も明快な方法で暴露するためである。(同ジジェク)
③Imbecileはカフカやウィトゲンシュタイン、あるいはラカンが挙げられている。
ラカンの最晩年のセミネール“Vers un signifiant nouveau” (1977)からの言葉「私はただ相対的にばかであるに過ぎない」との発話文が引用されて、非-全体の論理によって説明がなされている。
“Vers un signifiant nouveau” with: “I am only relatively stupid—that is to say, I am as stupid as all people—perhaps because I got a little bit enlightened”?
さてジジェクの叙述では③がもっとも面白いのだが、いまはある理由があって②をめぐって書いていく。
まず「大文字の他者」を信頼し切るというときの、「大文字の他者」の意味を確認をしておこう。
<大文字の他者>は象徴的次元で機能する。ではこの象徴的秩序は何から構成されているのか。われわれが話すとき(いや聞くときでもいいのだが)、われわれはたんに他者と一対一でやりとりをしているだけではない。われわれは規則の複雑なネットワークや、それとは別のさまざまな前提を受け入れ、それに依拠しており、それがわれわれの発話行為を下から支えている。まず文法上の規則がある。私はそれを盲目的・無意識的に体得していなけらばならない。いちいち規則を意識していたら、話すことなんかできない。次に、私と会話相手が互いを理解することができるのは、同じ生=世界に参加しているという背景があるからだ。私が従う規則は、じつは二つにはっきりと分かれている。第一のタイプの規則(と意味)は、私に盲目的・習慣的に従うが、反省する際は、それを少なくとも部分的に意識することができる(一般的な文法規則など)。第二のタイプの規則と意味は私に取り憑いていて、私は知らないうちにそれに従っている(無意識的な禁止など)。私はさらに第三の規則と意味を知っているが、知っていることを他人に知られてはならない。たとえば、然るべき態度を保つためには、汚い猥雑なあてこすりは黙って無視しなければならない。
この象徴空間は、私が自分自身を測る物差しみたいなものである。だからこそ<大文字の他者>は、ある特定のものに人格化あるいは具象化される。彼方から私を、そしてすべての現実の人びとを見下ろしている「神」とか、私が身を捧げ、そのためなら私には死ぬ覚悟ができている「大義」(自由、共産主義、民族)とか。私が誰かと話をしているとき、たんなる「小文字の他者」(個人)が他の「小文字の他者」と二人だけで話しているわけではない。そこにはつねに<大文字の他者>がいなければならない。(ジジェク『ラカンはこう読め!』第一章「空疎な身振りと遂行文」より)
ここでの第二のタイプの「大文字の他者」、すなわち《規則と意味は私に取り憑いていて、私は知らないうちにそれに従っている(無意識的な禁止など)》を疑うことのないのが②のタイプだとしてよいだろう。
すなわち「制度」にずっぽりと嵌りこんだ人間だということになる。
制度とは、語りつつある自分を確認する擬似主体にまやかしの主体の座を提供し、その同じ身振りによってそれと悟られぬままに客体化してしまう説話論的な装置にほかならない。それは、存在はしないが機能する装置なのである。あるいは、きわめて人称性の高い個体としてあったはずの発話者を、ごく類型的な匿名者に変容させてしまう磁場だとしてもよい。この磁場に織りあげられては解きほぐされてゆく言葉、それがこの章の冒頭で触れておいた現代的な言説なのである。その担い手たちは、知っているから語ろうとする存在ではない。だからといって知らないことを饒舌に語ってみせる香具師のたぐいでもない。知ることも語ることもできるはずの主体を装置に譲りわたし、みずから説話論的な要素として分節化されることをうけいれながら、それを語ることだと錯覚する擬似主体こをが現代的な言説の担い手なのであって、誰もが『紋切型辞典』の編纂者たる潜在的な資格を持つその匿名の複数者は、それを意図することもないままに善意の連帯の環をあたり一帯ぶおし拡げてゆく。おそらくはわれわれもまた、その波紋の煽りを蒙りながら思考し、語りつづけているのだろう。(蓮實重彦『物語批判序説』)
蓮實重彦はここで最後に《おそらくはわれわれもまた、その波紋の煽りを蒙りながら思考し、語りつづけているのだろう》としているように、制度を疑いつつ、そこから免れていないことを洩らしており、ラカンと同様、「私はただ相対的にばかであるに過ぎない」という資格があるという意味で③のタイプの阿呆だ。
制度的な言説は次のような特徴がある。
あなたがイデオロギーとしての物語といわれるもの、つまり「真実」との関係に於いて語られる「歴史=物語」、それは別の言葉にするなら制度化された思考とでもすべきものでしょう。わたしは、事態を簡潔にするために「制度」と呼んでいます。思考の制度化は三つの過程を踏んで一般化されるように思われます。その第一の過程は、いわゆる解決すべき問題を捏造する過程です。現代人として誰もが直面し、これと真剣にとり組むべき特権的な課題をでっちあげること。たとえば、現代フランスでいうなら、例の新哲学派がさかんに言及している「人権問題」などがそれにあたると思いますが、われわれが日々直面しているさまざまな困難の中にヒエラルキーを設けて、そのあるものを秀れて現代的な課題として特権化する。これが第一の過程だとするなら、第二の過程は、こうした今日的な課題と真剣にとり組み、それに解決をもたらすべく、隠されていた「真実」を発見するという姿勢になるでしょう。何かが、そしてそれもきわめて重要な何かがどこかに隠されていて視界に姿を見せていない。その貴重なる隠された何物かを探りあて、それを「真実」として可視的なものにする。こうして露呈された「真実」が、今日的な課題として提起された「問題」の解決に役立つだろうというわけです。例の新哲学派の文脈でいうならソルジェニーツィンによる「強制収容所」の現存という「真実」の露呈がある。まあ、誰もがその現存に無知であったとは思えませんが、それは否定しがたい「真実」として露呈されたわけです。第三の段階はこうした「真実」に基づいて提起された「問題」を解決すべく、それにふさわしい ”良い物語” を語ろうとすること……(現代思想12(1978)〈イデオロギーとしての物語〉対話:アラン・ロブ=グリエ / 蓮實重彦)
さてこれらから、けっして「制度」に絶対的には信頼をしない人物が③のタイプであることが分る。--上の蓮實重彦の文章において「真実」が鉤括弧つきになっていることに注意。そして《「真実」に基づいて提起された「問題」を解決すべく、それにふさわしい ”良い物語” を語ろうとすること》をしないひとが③のタイプであるとしよう。
ラカンはその「良い物語」を語らないひとであるのは、わたくしの少ない読書範囲では明らかであり、もしそうなら、冒頭の「人はみな妄想する」を書いた松本卓也氏の論も、《アブノーマルなのは象徴的秩序》という文脈で書かれているのなら、けっして「制度的」な見解をもっている人物とは思われない(もっとも論文の内容がそれを書いた人物とそのまま繋がることはありえないが、制度的な人間であれば、「人はみな妄想する」などという表題では、いくらなんでも「ハズカシクテ」書けないはずだという推測のもとでのわたくしの理解、すなわち肯定的な錯覚に閉じこもることができるとしておく)。
ラカンはその「良い物語」を語らないひとであるのは、わたくしの少ない読書範囲では明らかであり、もしそうなら、冒頭の「人はみな妄想する」を書いた松本卓也氏の論も、《アブノーマルなのは象徴的秩序》という文脈で書かれているのなら、けっして「制度的」な見解をもっている人物とは思われない(もっとも論文の内容がそれを書いた人物とそのまま繋がることはありえないが、制度的な人間であれば、「人はみな妄想する」などという表題では、いくらなんでも「ハズカシクテ」書けないはずだという推測のもとでのわたくしの理解、すなわち肯定的な錯覚に閉じこもることができるとしておく)。
ところでツイッター上にて、ラカン派のさる若い精神科医の発話がひどく不愉快な印象を与えたらしく、その対話者の上山和樹氏がその精神家医の発言の要約らしきものをしている(下記の文は実際にこのようにそのまま発言されたわけではなく、対話者がそのように受け止めた発話の要約)。
私はすでに決定的な理論事業と、公平な査読環境を手にしている。私の言うことに対し、学会で反論できないなら価値がない。というか、学問をなめている。――君が完全にアウェイの学会で説得をしないなら、自分で学問を作れ
この要約をみるとひどく「制度的」な発言でありーー実際の発言を再度読んでみても学会の制度を信じきるかの如き態度が露骨で、ひどく慇懃無礼な調子だが、鍵つきになっているアカウントなので敢えて直接の引用はしないーー、同じ若いラカン派の精神科医でも、冒頭の松本卓也氏の論「人はみな妄想する」(実際には内容を読んでいないのだが、さきほども書いたように、この表題からは制度批判の論だと推測される)とは天と地ほど懸け離れているようにみえる態度だ。トコロガ噂ニヨルト同ジ人物ダなどという人もおり、まさかそんなはずはあるまいと念ずるばかりで、おそらく根も葉もない噂なのだろう。
…………
ジジェクの『LESS THAN NOTHIG』 から、三種類の阿呆の話の箇所を抜き出しておく。
Introduction: Eppur Si Muove
There are two opposed types of stupidity. The first is the (occasionally) hyper‐intelligent subject who just doesn’t “get it,” who understands a situation logically, but simply misses its hidden contextual rules. For example, when I first visited New York, a waiter at a café asked me: “How was your day?” Mistaking the phrase for a genuine question, I answered him truthfully (“I am dead tired, jet‐lagged, stressed out …”), and he looked at me as if I were a complete idiot … and he was right: this kind of stupidity is precisely that of an idiot. Alan Turing was an exemplary idiot: a man of extraordinary intelligence, but a proto‐psychotic unable to process implicit contextual rules. In literature, one cannot avoid recalling Jaroslav Hašek’s good soldier Švejk, who, when he saw soldiers shooting from their trenches at the enemy soldiers, ran into no‐man’s land and started to shout: “Stop shooting, there are people on the other side!” The arch‐model of this idiocy is, however, the naïve child from Andersen’s tale who publicly exclaims that the emperor is naked—thereby missing the point that, as Alphonse Allais put it, we are all naked beneath our clothes.
The second and opposite figure of stupidity is that of the moron: the stupidity of those who fully identify with common sense, who fully stand for the “big Other” of appearances. In the long series of figures beginning with the Chorus in Greek tragedy—which plays the role of canned laughter or crying, always ready to comment on the action with some common wisdom—one should mention at least the “stupid” common‐sense partners of the great detectives: Sherlock Holmes’s Watson, Hercule
Poirot’s Hastings … These figures are there not only to serve as a contrast to and thus make more visible the detective’s grandeur; they are indispensable for the detective’s work. In one of the novels, Poirot explains to Hastings his role: immersed in his common sense, Hastings reacts to the crime scene the way the murderer who wanted to erase the traces of his act expected the public to react, and it is only in this way, by including in his analysis the expected reaction of the common‐sense “big Other,” that the detective can solve the crime.
But does this opposition cover the entire field? Where, for instance, are we to put Franz Kafka, whose greatness resides (among other things) in his unique ability to present idiocy as something entirely normal and conventional? (Recall the extravagantly “idiotic” reasoning in the long debate between the priest and Josef K. which follows the parable “Before the Law.”) For this third position, we need look no further than the Wikipedia entry for “imbecile”: “Imbecile is a term for moderate to severe mental retardation, as well as for a type of criminal. It arises from the Latin word imbecillus, meaning weak, or weak‐minded.
‘Imbecile’ was once applied to people with an IQ of 26–50, between ‘moron’ (IQ of 51–70) and ‘idiot’ (IQ 0–25).” So it is not too bad: beneath a moron, but ahead of an idiot—the situation is catastrophic, but not serious, as (who else?) an Austrian imbecile would have put it. Problems begin with the question: where does the root “becile” preceded by the negation (“im‐”) come from? Although the origins are murky, it is probably derived from the Latin baculum (stick, walking stick, staff), so an “imbecile” is someone walking around without the help of a stick. One can bring some clarity and logic into the issue if one conceives of the stick on which we all, as speaking beings, have to lean, as language, the symbolic order, that is, what Lacan calls the “big Other.” In this case, the tripartite idiot‐imbecile‐moron makes sense: the idiot is simply alone, outside the big Other, the moron is within it (dwelling in language in a stupid way), while the imbecile is in between the two—aware of the need for the big Other, but not relying on it, distrusting it, something like the way the Slovene punk group Laibach defined their relationship towards God (and referring to the words on a dollar bill “In God we trust”): “Like Americans, we believe in God, but unlike Americans, we don’t trust him.” In Lacanese, an imbecile is aware that the big Other does not exist, that it is inconsistent, “barred.” So if, measured by the IQ scale, the moron appears brighter than the imbecile, he is too bright for his own good (as reactionary morons, but not imbeciles, like to say about intellectuals). Among the philosophers, the late Wittgenstein is an imbecile par excellence, obsessively dealing with variations of the question of the big Other: is there an agency which guarantees the consistency of our speech? Can we reach certainty about the rules of our speech?
Does not Lacan aim at the same position of the (im)becile when he concludes his “Vers un signifiant nouveau” with: “I am only relatively stupid—that is to say, I am as stupid as all people—perhaps because I got a little bit enlightened”? One should read this relativization of stupidity—“not totally stupid”—in the strict sense of non‐All: the point is not that Lacan has some specific insights which make him not entirely stupid. There is nothing in Lacan which is not stupid, no exception to stupidity, so that what makes him not totally stupid is only the very inconsistency of his stupidity. The name of this stupidity in which all people participate is, of course, the big Other. In a conversation with Edgar Snow in the early 1970s, Mao Zedong characterized himself as a hairless monk with an umbrella. Holding an umbrella hints at the separation from heaven, and, in Chinese, the character for “hair” also designates law and heaven, so that what Mao is saying is that—in Lacanese—he is subtracted from the dimension of the big Other, the heavenly order which regulates the normal run of things. What makes this self‐designation paradoxical is that Mao still designates himself as a monk (a monk is usually perceived as someone who, precisely, dedicates his life to heaven)—so how can one be a monk subtracted from heaven? This “imbecility” is the core of the subjective position of a radical revolutionary (and of the analyst).
…………
なお、③のタイプの説明としてなされている非-全体の論理(女性の論理)は、次のエントリーにやや詳しい→ 「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より)