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2014年2月12日水曜日

表象文化論学会の「建て前」

前々回前回に続いて、さて切りのいいところで今回の三連発目で打ち止めにしたい(実はこれは「不快事」や「三種類の阿呆」などから引き続いており、三連発どころじゃあないのだが)。

オレの「痴性」でつぶやき続けても致し方ないので、そろそろ趣味の世界に「ひきこもる」ことにするというわけだ。
知性は情動に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうとーーーこの知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども知性の声は、聞き入られるまではつぶやきをやめないのであり、しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由のひとつである。(フロイト『幻想の未来』)

それにしてもオレの「痴性」のためかどうかは知らねど、不快な苛立たしい発話がインテリくんたちから発せられるので、ツイッターを眺めるのをやめたのだがね、血圧が上がっていけない。

…………


今でも忘れがたいのは、昨年の十月だったか、ディドロ論で表象文化論学会学会賞をとっている「俊英」のはずの比較的若い学者ーーといっても調べたら不惑を超えているようだーーのツイートなのだが、別の二人の「優秀な」若手の書き手によるツイッター上でのちょっとした舌戦後、一方の人物の親しい友人にあたるそのディドロくんが応戦するために発しったもの(「夜戦」という語が出てくるので誰に対してだかは即座に分かるだろう)。

本来連帯すべきなのに、つまらない自意識を立てて、あえて悪者ぶって関係者間に無駄な消耗を引き起こす必要はまったくない。そういう「夜戦」はいらない。同世代の連帯を妨げる目障りな言動は、「上の世代」によって大事にされた結果できた「可愛いボク」を守るためのものなのか。甘えるな。

そして二人の書き手の喧嘩の元となった発端のツイートは次の如し。

或る「若手」哲学者だか批評家だかが昔「ボクが処女作を出版するときには、東浩紀に推薦文を書いた浅田彰、二人に推薦文をもらって華々しくデビューする!

次はボクの時代だ!」と吠え出して、その閉じた醜い権力欲に唖然としたことがある。界隈そんな連中ばかりだよ。みんな、自分の仕事をしよう。

これは事実ではない、ともうひとりの書き手は反論しているし、ここではその真偽や口喧嘩の内容を云々するつもりはない。

いま取り上げたいのは「同世代の連帯を妨げる目障りな言動」という表現であって、これはわたくしにとってはひどい衝撃(=笑劇)だった。すなわち、同世代で連帯してるんだから、批判は許さない、「甘えるな」という発言が、真っ当な研究者から出てくる時代なのだな、ということに驚愕した。

おそらくこう書いたら、いや「批判はゆるさない」のではない、下らぬ揚足とりの「批判」はやめろ、ということだと言い返すのだろう。

公平を期すために、続いて発せられたツイートも併記しておこう。

豊かな時代だったら、「飲み屋のけんか」の延長の議論が話題にもなり、本も売れただろう。だが、人文界隈の不毛な議論を続けて読者を離れさせたのもまた、「飲み屋のけんか」の結果ではないか。

それにしても「同世代の連帯を妨げる目障りな言動」という発言は、なんともはしたない仲間意識メンタリティが滲みでている、と感ぜざるをえない。その同族意識は「原子力村」の連中と似たような資質があるとしか思えない。

しかもこれがディドロ研究者の発話とは。

もっぱらこっけい味のある欺瞞を指すものとして、リベルタン精神の横溢する十八世紀のフランスにあらわれた、それ自体おもしろおかしい(神秘〔ミステール〕という言葉に由来する)新語。ディドロはとてつもない悪ふざけをたくらんで、クロワマール侯爵に、ある不幸な若い修道女が彼の保護を求めていると、まんまと信じこませてしまうが、このときディドロは四十七歳。数ヶ月のあいだ、彼はすっかり感動した侯爵に宛てて、実在しないこの女のサイン入りの手紙を書き送る。『修道女』――瞞着の果実。ディドロと彼の世紀とを愛するための、さらなる理由。瞞着とは、世間を真に受けぬための積極的な方法である。(クンデラ『小説の精神』)

さらには表象文化論学会賞受賞者なのでもあるのだ。

現在の若手研究者の思考を拘束するほどの強力なパラダイムが、今日あるのかどうかは甚だ疑問である。かつては駒場の「映画論」の授業でレポートを書かせると、蓮實重彦氏の文章の拙劣な模倣が続出して辟易したものだが、今では「映画の表層と戯れる」といった類の論文はすっかり払底してしまい、それが良いことか悪いことかは軽々には断定できない。わたしに迫ってくる印象はむしろ、もはやパラダイムは崩壊したというものだ。かつてのパラダイムが機能不全に陥る一方、新たなパラダイムは誰も提起できずにおり、その結果、とりあえず「良心的」アカデミズムの中で当たり障りなく事態を収拾しようとする微温的な空気が支配的になっているようにも感じられる。それは日本のみならず世界的な現象でもある。この停滞状況にいささかの活力を吹き込むために、「表象文化論学会」にいったい何ができるだろうか。(対談:浅田 彰(京都大学) + 松浦寿輝(東京大学)「人文知の現在」)

表象文化論学会の「優秀な」出身者までが、狭い範囲の専門家の安堵と納得の風土の中で、「批評の死」を繁殖させるかのごとき発話をして恥じないのなら、他の「学者村」の連中がどんな具合なのかはおおむね推測できる。いや、「表象文化論学会」というものを買いかぶっていたに過ぎないのかもしれないが。

新たに創設された学問領域としての「表象文化論」は、単なる一ディシプリンであるにとどまらず、既存の諸分野にゆるやかに浸入し、浸透し、それらのメイ ン・プログラムを内側から書き換えて、まったく新たな知の光景を現出させる批判装置として機能することを夢見ている。それはまた、実証的な手続きを踏んだ 堅実な論究と、大学の枠をはみ出して現実に直接働きかける実践の力学とを共存させ、そこでの葛藤とディレンマそのものを生産的な糧としつつ、今、 21世紀 の「知」の空間に向かって大きくはばたこうとしている。(『表象のディスクール』序言より

松浦寿輝は「絶望」して、早期退職をしたのだったのかね、やはり。


すくなくとも「学者村」の住人であることをもっとも恥じる「建て前」をもった学会ではなかったのか。その所属者が「同世代の連帯を妨げる目障りな言動」などという厚顔無恥な表現を、仮に脊髄反射的なツイートであったかも知れぬが紛れ込ませるとは。

……プロフェッショナルは絶対に必要だし、誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。(……)

プロでありたくないというのは、アマに徹したいといった気持とはまったく別のものです。プロとアマという対立はあくまで共同体内部の問題にほかならないんだから、教育に対する反教育の擁護と同じく、意味がない。

だから、この種のプロフェッショナルに対して、絶対外国人として振舞わなければならない。僕の言う批評の原理とは、そういうことなんです。そのためには、アマチュアとしてプロに対立するんじゃあなく、プロであることの共同体的な義務感を最高度にきわだたせつつ、その限界から離れようとすることが必要になる。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)


もちろん彼らだけではない。若い世代の「インテリ」たちがそれぞれに強弱はある「連帯」なるものを組織して囲い込み、互いの批判を抑えこもうとしているかのように邪推せざるをえないときがある。


……最近ネットなどを見ていると、妙に気を使い合ったりして、あまり人の名前を出して批判したりはしない。他方、批判が一回出てしまうと、それが非難の応酬に繋がってあっという間に絶縁、といった、狭い所でお友達どうし傷つけ合わないようにという感じになっている。
しかし、コミュニケ-ションは常にディスコミュニケーションを含むし、議論は常に相互批判を含むから、それができにくくなっているとしたら忌々しき事態。人格・個人に対する批判ではないという前提で、相互に攻撃すればいい。ある程度けんかしなければお互い成長はしない。けんかするとお互い傷つくが、傷だらけでなんとかやっていくのが社会。別に仲良くやっていく必要はない。けんかし、けんかした上で共存していくというのが重要だ、ということは知っておくべき。(浅田彰氏講演録「知とは何か・学ぶとは何か」

もっとも、次のような現象はいっそう進展中であるための「連帯」、あるいは「批評の抑圧」であるだろうことを知らぬわけではないが、わたくしには越えられない一線を越えた発言としか思えない。

文化の「リエゾン・オフィサー」(連絡将校)としてのインテリゲンチアへの社会的評価と報酬とは近代化の進行とともに次第に低下し、その欲求不満がついにはその文化への所属感を持たない「内なるプロレタリアート」にならしめると私は思う。(父なき世代 中井久夫

あるいはまた次のような状況であるらしいことは、若い研究者のツイートを垣間見れば、それなりに窺知できないわけではない。

松浦寿輝さんが、東大教授を退官される前に、研究室にお訪ねしたときにうかがったのだが、今や、東大大学院でフランス文学を学んでも、最初の非常勤講師の口が見つからない時代なのだという。(城戸朱理ブログより


そうであっても《「良心的」アカデミズムの中で当たり障りなく事態を収拾しようとする微温的な空気が支配的になって》はならないだろう? チガウカネ? まずは仲間内で「傷つけあって」みたらどうだい? そこからだぜ、「批評」は。いや「批評」などとはいうまい、「原子力ムラ」と同じ穴の狢にならないためには、と言おう。

それとも、《コミュニケ-ションは常にディスコミュニケーションを含むし、議論は常に相互批判を含むから、それができにくくなっているとしたら忌々しき事態。人格・個人に対する批判ではないという前提で、相互に攻撃すればいい。ある程度けんかしなければお互い成長はしない。けんかするとお互い傷つくが、傷だらけでなんとかやっていくのが社会。別に仲良くやっていく必要はない》ってのは、貴君たちには、まったく通用しないのかい?

ーーダロウナ、殆ドノ連中ハ

《かれらがほんとうに、いちばん望んでいることは、ただ一つだ、だれからもいじめられたくないこと。それでかれらは先取りして、だれにも親切にする。

だが、それは臆病ということなのだ。たとえ「徳」と呼ばれていても。

そして、かれらが時には荒々しく語ることがあるにしても、わたしがそこに聞くのは、ただかれらの嗄れ声だけだ。――つまり、少しでも大きい声を出そうとすれば、かれらは嗄れ声になるのである。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部「卑小化する徳」手塚富雄訳)


…………

オレの「痴性」は、ニーチェの攻撃要項から外れていることはするな、と密かに囁く。

わたしの戦争実施要項は、次の四箇条に要約できる。第一に、わたしは勝ち誇っているような事柄だけを攻撃するーー事情によっては、それが勝ち誇るようになるまで待つ。第二に、わたしはわたしの同盟者が見つかりそうにもない事柄、わたしが孤立しーーわたしだけが危険にさらされるであろうような事柄だけを攻撃する。わたしは、わたしを危険にさらさないような攻撃は、公けの場において一度として行なったことがない。これが、行動の正しさを判定するわたしの規準である。第三に、わたしは決して個人を攻撃しないーー個人をただ強力な拡大鏡のように利用するばかりである。つまり、一般に広がっているが潜行性的で把握しにくい害悪を、はっきりと目に見えるようにするために、この拡大鏡を利用するのである。わたしがダーヴィット・シュトラウスを攻撃したのは、それである。より正確にいえば、わたしは一冊の老いぼれた本がドイツ的「教養」の世界でおさめた成功を攻撃したのであるーーわたしは、いわばこの教養の現行犯を押さえたのである……。わたしが、ワーグナーを攻撃したのも、同様である。これは、より正確にいえば、抜目のない、すれっからしの人間を豊かな人間と混同し、末期的人間を偉大な人間と混同しているわれわれの「文化」の虚偽、その本能の雑種性を攻撃したのである。第四に、わたしは、個人的不和の影などはいっさい帯びず、いやな目にあったというような背後の因縁がまったくない、そういう対象だけを攻撃する。それどころか、わたしにおいては、好意の表示であり、場合によっては、感謝の表示なのである。わたしは、わたしの名をある事柄やある人物の名にかかわらせることによって、それらに対して敬意を表し、それらを顕彰するのである。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

上に掲げられた批判は、おおむね第三項に当たることは言うまでもない。

ニーチェのように潔癖でも鼻が利くわけでも毛頭ないが、教育の上塗りによって隠された「内臓」の悪臭をときに嗅ぎわけてしまうという錯覚に閉じこもり得ることがある。


最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(同上)