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2014年2月21日金曜日

安倍晋三とマインドコントロール

・(憲法は)国家権力を縛るものだという考え方があるが、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的考え方

・(政府の)最高の責任者は私だ。政府の答弁に私が責任をもって、そのうえで選挙で審判を受ける」(安倍晋三――都知事が考える「立憲主義」と「憲法改正」『憲法改正のオモテとウラ』著者・舛添要一氏インタビューより)

・教育基本法は(第二次大戦後の)占領時代につくられたが、衆参両院で自民党単独で過半数をとっていた時代も手を触れなかった。そうしたマインドコントロールから抜け出す必要がある。(戦後教育はマインドコントロール 首相、衆院委で発言

安倍氏は「参謀」に、あるいはなにかの「亡霊」に、マインドコントロールされているのではないか。

……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))

…………


<憲法とはConstitution>
 憲法とは英語で”Constitution”です。法”law”という言葉が入っていません。つまりこれは、「みんなで統治権力をどのように戴くのかということを契約し合ったもの」という意味です。
<憲法とは「自治」への介入を制約するもの>
「民主」の本義は、多数決ではなく「自治」なんです。つまり、「自分たちで自分たちのこと を決める」ということ、これが民主主義の本義なんです。そこに統治権力が勝手に介入して きてしまっては、自分たちの自治が成り立ちません。だから「統治権力が介入してはいけ ない市民たちのコミュニケーションの領域」を定めたもの、これが人権規定です。 人権というのは、天賦人権論などは実はどうでも良くて、その本質的な機能は「自治に国家権力が勝手に介入できないようにするためのもの」なんです。人々の「自治に介入して はいけない」というように統治権力を制約して、相互的に契約をしているもの、これが憲法 です。 だから、「統治権力が勝手に介入してはならない」という規定を持たないものは、仮に憲 法という名前が付いていたとしても、憲法ではないということです。その意味では、今回の自民党の憲法草案は、全く憲法に関する議論にはなっていない。(宮台真治)




「小泉時代が終わって安倍が首相になったね。何がどう変るのかな」

「首相が若くて貴公子然としていて未知数で名門の出で、父親が有名な政治家でありながら志を得ないで早世している点では近衛文麿を思わせるかな。しかし、近衛のように、性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むようなことはないと信じたい。総じて新任の首相に対する批判をしばらく控えるのは礼儀である」

「しかし、首相はともかく、今の日本はいやに傲慢になったね。対外的にも対内的にもだ」

「たとえば格差是認か。大企業の前会長や首相までが、それを言っているのは可愛くない。“ごくろうさま”ぐらい言え。派遣社員もだけど、正社員も過密労働と低収入で大変だ。……」(中井久夫「安部政権発足に思う」ーー2006.9.30神戸新聞「清陰星雨」初出『日時計の影』所収)


あのね、秘密保護法案なんてだめに決まってるでしょうが。安倍が鬱病に再突入するのを待ってる暇はない。安倍はじいさんの元戦犯首相である岸信介と全く同じことをやろうとしている。政治はエディプスコンプレックスの原動力だろうが、それで次々法律をつくろうなんてゴロツキのキチガイがすることだ。(鈴木創士ツイート2013.10.29)
「不特定」秘密保護法案に賛成した議員と国民は「死んだ父」を空しく探す安倍の精神病を助長し、どっちがどっちか解らぬままに転移を繰り返し、どの仮面を剥がそうとものっぺらぼうの百面相に死化粧を施し、あまつさえ巨大なESの糞溜めの中でうれしそうにのたうち回り、病院へ直行することになる。(鈴木創士ツイート2013.11.27)

…………


第二次世界大戦におけるフランスの早期離脱には、第一次大戦の外傷神経症が軍をも市民をも侵していて、フランス人は外傷の再演に耐えられなかったという事態があるのではないか。フランス軍が初期にドイツ国内への進撃の機会を捨て、ドイツ国内への爆撃さえ禁止したこと、ポーランドを見殺しにした一年間の静かな対峙、その挙げ句の一ヶ月間の全面的戦線崩壊、パリ陥落、そして降伏である。両大戦間の間隔は二十年しかなく、また人口減少で青年の少ないフランスでは将軍はもちろん兵士にも再出征者が多かった。いや、戦争直前、チェコを犠牲にして英仏がヒトラーに屈したミュンヘン会議にも外傷が裏で働いていたかもしれない。

では、ドイツが好戦的だったのはどういうことか。敗戦ドイツの復員兵は、敗戦を否認して兵舎に住み、資本家に強要した金で擬似的兵営生活を続けており、その中にはヒトラーもいた。ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。「個々人ではなく戦争自体こそが犯罪学の対象となるべきである」(エランベルジェ)。(中井久夫 「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P88))


いまや「理解を超えた馬鹿」とするだけなのは空しい。

気をつけなくてはいけないのは、表面的な庶民的正義感のはけ口(賤民の値の騰貴)として利用してはならないことだ。

およそあらゆる人間の運命のうち最も苛酷な不幸は、地上の権力者が同時に第一級の人物ではないことだ。そのとき一切は虚偽であり、ゆがんだもの、奇怪なものとなる。

さらに、権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」とーー(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「王たちとの会話」手塚富雄訳)


《安倍晋三さんはバカだ。しかもただのバカではなく病気である。…しかし、彼が首相の座にいるのは、私たち自身が病気だからである。》(小出裕章 20140202)



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※附記:《原発をそう簡単にはやめるというわけにはいかない》(安倍晋三

人が何ごとかを語るのは、そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるためである。むしろ事態の推移には視線を注ぐまいとして、もろもろの予言や断言が行きかうことになる…(蓮實重彦『物語批判序説』)


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