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2014年2月8日土曜日

女神の舌

一つの新しい芸術作品が創造された時に起ることは、それ以前にあった芸術作品のすべてにも、同時に起る。すでに存在している幾多の芸術作品はそれだけで、一つの抽象的な秩序をなしているのであり、それが新しい(本当の意味で新しい)芸術作品がその中に置かれることによって変更される。この秩序は、新しい芸術作品が現われる前にすでに出来上っているので、それで新しいものが入って来た後も秩序が破れずにいる為には、それまでの秩序全体がほんの少しばかりでも改められ、全体に対する一つ一つの芸術作品の関係や、比率や、価値などが修正されなければならないのであり、それが、古いものと新しいものとの相互間の順応ということなのである。そしてこの秩序の観念、このヨーロッパ文学、及び英国の文学というものの形態を認めるならば、現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない。しかしこれを理解した詩人は多くの困難と、大きな責任を感じなければならないことになる。(吉田健一訳「伝統と個人的な才能」『エリオット選集 第一巻』)

《英文学者でもないかぎりエリオットなんて今の人は読まないでしょうが、彼が「伝統」とよんでいたのは、いわばインターテクスチャアリティのことなんですね。一つのテクストは、過去のテクストの総体のなかで書かれ、かつそれは過去のテクストの意味を変える、というような考えなんですね。》(柄谷行人『闘争のエチカ』)

こういった、過去のテクストの意味を変えるような出逢いがどれほどわたくしにあったのか、といえば、たいして多くの作家や芸術家を思い浮かべることができるほど、よき鑑賞者でもなく、繊細な神経を持ちあわせているわけでもない。

もちろんおそらく多くのひとと同様まったくないというわけではない。
わたくしの場合は十代の後半から二十歳前後に出遭ったのいくつかの作品以降、下にプルーストが書くような世界が古い世界とはちがって見えるというような衝撃は少ない。おそらくほとんどそのときのままなのだ。もちろん映画や文学、音楽、あるいはフロイトなどによりその後も小粒な世界の一新ということはある。

ジャコメッティの彫刻のようにすくっと立ち上がった空気が簡素な活花のまわりに流れているなとか、あの女の頬はモジリアーニのようだ、マティスの女のような髪と瞳,、あるいは唇の歪み、ゴーギャンの女の肉厚の足の甲のカンボジア娘などと今でも感じることがあるのは、二十歳前後、東京八重洲にあったブリジストン美術館に熱心に通ったせいだが、もともと当時週に空けずに通ったのは「アテネの女神のような髪を結つた」受付の女性に魅せられたためであり、何ヵ月後かに女がおなかが大きくなったのに気づき、通う足が間遠になった。

《アテネの女神のような髪を結つたそこの/おかみさんがすっぱい甘酒とミョウガの/煮つけをして待つているのだ》

《槇の生垣の中でおなかの大きくなつた女が/舌をつき出してヘラヘラと笑つた》(西脇順三郎)

人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。

私はここで、想い出すままに、私が絵のなかで出会った女たちについて、語ろうとした。その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。

私は場面を解釈し、環境を想像し、時代を考え、私が今までに知っていたことの幾分かをそこに見出し、今まで知らなかった何かをそこに発見する。現実の女が、必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女たちとも同じでないように。(加藤周一『絵のなかの女たち』)






《二十三の時のレンブラントの自画像に/似ている男に会つた/女神の舌にふれた時の/よろこびに驚いたような眼つきをした/……》(西脇順三郎》

女神の舌にふれた経験などわずかしかない。





彼がいまになって私たちを訪問しにやってくるのは、私には数年おそきにすぎる思いだった、なぜなら私はもはそのころとおなじほど彼を讃美してはいないからだった。そのことは彼の名声のあの拡大と矛盾するものではない。昔から、一つの作品が完全に理解され勝利を博するころには、まだ無名の、べつの作家の作品が、一段と気むずかしい何人かの知識人のまわりに、新しい礼讃をまきおこしはじめ、やがて強い威力をほとんど失ってしまった有名作家にとってかわらなかったためしはめったにない。私が何度も読みかえしたベルゴットの書物のなかの、彼の文章は、私自身の思惑、私の部屋のなかの家具、街のなかの馬車とおなじほど私の目にはっきりしていた。そこでは何もかもたやすく目に見えた、それは過去にいつも見ていたままではないまでも、すくなくとも現在見慣れているままに見えたのだ。ところで新しい作家はすでに何篇かの作品を発表しはじめていて、その作品のなかでは、事物相互のあいだの関係が、私のむすびつけかたとひどくちがうために、彼の書いていることがほとんど何も私にはわからなかった。その作家はたとえばこんなふうにいうのだ、「撒水車のホースは道路のみごとな舗装に感心していた」(これはまだやさしかった、私はそれらの道路に沿ってすらすらと進んでいった)。「それらの道路は五分ごとにブリアンやクローデルから出てくるのであった……」こうなるともう私にはわけがわからなかった、というのも、私は街の名を期待していたのに人の名が出てきたからであった。ただ私には、この文章の書きかたが下手なのではなく、私のほうが最後までついてゆくねばり強さと敏捷さとももたないのだ、と感じられるのであった。

私は躍動をあらたにし、足と手のたすけを借りて、事物相互の新しい関係を自分で見通せるような場所に達しようとするのであった。そのたびに、文章のほとんどなかばまできて、私ははたと行きずまってしまうのだが、それはのちに軍隊で梁木と呼ばれる器械体操をやらされたときとおなじであった。それでもやなり私はその新しい作家に、体操の点でゼロをもらう無器用な子どもが、自分より上手な他の子供をながめるときの、賞讃の念を抱くのであった。そのときから、私はベルゴットを賞讃しなくなり、彼の透明さは私に物足りなく見えた。かつて、フロマンタンが描くとよくわかる物が、ルノワールだともうわからない、といった時代があった。

こんにちならよい趣味の人たりはわれわれに向ってこういう、――ルノワールは十八世紀の大画家である、と。しかし、そういうことを口にするとき、彼らは忘れているのだ、時を。すなわちルノワールが大芸術家としての待遇を受けるには十九世紀のただなかにあってさえ多くの時を必要としたことを。そのようにして世に認められることに成功するには、独創的な画家にしても、独創的な芸術家にしても、いずれも眼科医のような方法をとる。そんな画家とか芸術家とかが、絵や散文の形でおこなう処置は、かならずしも快いものではない。処置がおわり、眼帯をとった医師はわれわれにいう、ーーさあ、見てごらん。するとたちまち世界は(世界は一度にかぎり創造されたわけではない、独創的な芸術家が出現した回数とおなじだけ創造されたのだ)、われわれの目に、古い世界とはまるでちがって見える、しかも完全にはっきり見える。女たちが街のなかを通る、以前の女たちとはちがう、つまりそれはルノワールの女たちというわけだ。われわれがかつて女だと見るのを拒んだあのルノワールの女たちというわけなのだ。馬車もまたルノワールである、そして水も、そして空も。はじめて見た日どうしても森とは思えず、たとえば無数の色あいをもっているがまさしく森に固有の色あいに欠けているタペストリーのようだった、そんな森に似た森のなかを、われわれは散歩したくなってくる。そのようなものが、創造されたばかりの、新しい、そしてやがて滅びるべき宇宙なのである。その宇宙は、さらに独創的な新しい画家や作家がひきおこすであろうつぎの地質的大変動のときまでつづくだろう。

ベルゴットのお株をうばって私をひきつけた作家は、私が習慣にしたがって意味をたどろうとした文章の関係の不統一のためにそれの理解に苦労させたのではなく、むしろ関係の申しぶんのない統一の新しさのために私を苦労させたのであった。いつもおなじ点まできて私がはたと行きづまるのを感じるのは、私の力の出しかたが毎回おなじであることを示していた。それにしても、千に一度、その文章のおわりまでその作家についてゆくことができたとき、私の目に見えてくるものは、かつてベルゴットを読んで私が見出したものに似てはいるが、つねにそれより快い、一種のおかしさ、真実性、魅力なのであった。私は思いかえすのであった、そういえば私がいまベルゴットの後継者から期待しているものに類する、世界を見る目とおなじ一新を、そう何年もまえにでなく私にもたらしたのはベルゴットであったことを。そして、内心こんなことを自分に反問するにいたった、ホメロス時代から大して進んでいるわけでもない芸術と、たえまのない進歩の状態にある科学とのあいだに、われわれがつねに投げるあの区別には、なんらかの真実があるのだろうかと。もしかすると、芸術は、その点では普通に考えれらているのとは反対に、科学に似ているのかもしれなかった、独創的な新しい作家はいずれもおのれに先だった作家を乗りこえて進歩をとげるのだと、私には思われてくるのであった。したがって、こんにち新人といわれる作家に、二十年後になって、私が苦労なくついてゆけるであろうときには、またべつの作家が出現して、その人のまえに現在の新人がベルゴットのあとを追ってすみやかに後退しないとは、誰が私にいえたであろう? プルースト「ゲルマントのほう 二」より 井上究一郎訳)

…………

フロイトは前期だけでなく後期にいたるまで「美は性感覚の領域に由来している」とオッシャル。

「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる。われわれが、性器そのものは眺めてみればもっとも激しい性的興奮をひきおこすにもかかわらず、けっしてこれを「美しい」とはみることができないということも、これと関連がある。(フロイト『性欲論三篇』フロイト著作集5 人文書院 P26  原著1905年)
……ここで、興味ある例を一つつけ加えることができよう。それは、人生の幸福を主として美の享受に求める態度である。その場合の美とは、われわれの感覚および判断が美と認める一切のものを含み、人間の身体や身振りの美、自然物や風景の美、芸術創造物の美はもとより、学問的な業績の美さえも例外ではない。人生目的についてのこのような美的態度は、外界から迫ってくる苦難にたいしてははなはだ無力である反面、さまざまの不幸の償いになりうる。美の享受には、そっと麻痺させるような、特別の感覚としての性格がある。美の効用はかならずしもはっきりせず、美が文化にとって必然的なものかどうかも曖昧だ。けれども、文化に美は不必要だと主張する人間はいないだろう。美学は、美が感知されるための条件を研究しているが、美の本質と由来の解明には成功していない。そして、よくあることだが、この失敗を隠すため、威勢こそいいが、内容は空疎な言葉のかずかずがまき散らされる。残念なことに、精神分析もまた、美については、他の学問にもまして発言権がない。ただ一つ確実だと思われるのは、美は性感覚の領域に由来しているにちがいないということだけである。おそらく美は、目的めがけて直接つき進むことを妨げられた衝動の典型的な例なのであろう。「美」とか「魅力」とかは、もともと、性愛の対象が持つ性質なのだ。そのさい注意すべきことは、性器そのものは眺めた場合にはかならず刺激として働くのに、美しいと評価されることはほとんどないことで、これに反し美は、ある主の第二次性徴のように思われる。(フロイト『文化への不満』著作集3 P446~ 原著1930年)

「性」といえばいまではいささか奇異の念を抱くひとがいるかもしれない。だが「性感覚」はエロス感覚なのだ。

外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩といして結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P111-112)