若い画家は、教師を見習うことから始める。すでに完成された様式のいくつかを次々に試みながら、自分自身の世界を見出そうとする。多くの場合には、そういう時期が生涯にわたり、画家は遂に自分自身を見出さないだろう。しかし彼が天才ならば、あるとき、自分自身の様式、その独特の空間と色彩、個性的な手法と共に彼自身の絵画的世界を発見するだろう。オランダの油絵の伝統的な様式で静物画を描き、印象派の手法で風景を描いていた青年画家が、アルルの町である朝眼をさますと、ファン・ゴッホになる。
一度自己の世界を発見した画家は、二度とその世界から離れることがない。その世界は深まり、その手法は発展する。しかし一つの様式から、根本的に異る他の様式へ移ることはなく、殊に二つの様式を併用することはない。その世界は汲めども尽きず、その様式を通して表現し得ることにはかぎりがないだろうからである。たとえばデュフィは、青い海と空、椰子の樹と露台の花を、ルオーは、道化師の顔と月夜の道を行く人物を、生涯描きつづけてやまなかった。逆に、生涯多くの様式を用いつづけた画家は、デュフィやルオーと同じ意味での一流の芸術家ではなかった。
例外はピカソである。周知のように、ピカソの様式は時期によって異る。また同じ時期にも多くの様式が併存する。しかもその各々が、独立した絵画的世界を作り、一流の画家が生涯をかけて到達した仕事に匹敵していた。たとえば「青の時代」の老婆の肖像や自画像は、今世紀の絵画の最高の作品にちがいない。同じことは、立体主義の時代の静物画についてもいえるし、「アヴィニヨンの娘たち」に代表される時期の裸女の絵についてもいえるだろう。ピカソは自己の様式を探していたのではなく、多くの自己の様式を発見したのである。彼だけは、芸術家としての、複数の生涯を生きた。
しかし表現様式の多様性は、必ずしも題材の多様性を意味しない。ピカソは、生涯を通じて、ほとんど常に、人体を、殊に女の身体を、また殊に「モデル」として特定の女の姿態を、描きつづけた。ピカソこそは、あらゆる意味で、女を愛し、女を描いた芸術家である。
一九五三年の夏にペルビニヤンで出会ったというジャクリーヌ・ロークの肖像画の連作を、翌年七月パリの個展で私は見た。その連作は、写実的な具象画から始めて、抽象化の度合を異にする同じ「モデル」の肖像が、遂に女一般となり、さらに抽象化を進めて、もはや、それが女であることさえ判じ難い「もの」と化するまでの過程を、一望の下に明示していた。しかし、それは抽象化の過程の説明ではなかった。そうではなくて、それぞれの段階における画面の、それとして独立した堅固な世界の展示であった。その一つが「花とジャクリーヌ」(1954年6月)である。青と赤の背景、そこに散らした白い薔薇、太く黒い線で浮きあがらせた若い女。その女の顔の表情は、通った鼻すじと結んだ口もとに、険しくはないが断乎として意思を示し、大きな眼の輝きに、優しくはないが微妙な感情の動きを示す。けだし絵のなかの女の表情のこれ以上に美しい例は、少ないだろう。……(加藤周一『ピカソの女たち」)
1985年に出版された『絵のなかの女たち』(南想社)からの文だが、もともと「マダム」(鎌倉書房)に連載されていたもの(1982.1~1983.12)らしい。ここにもいつものとおり加藤周一の歯切れのよい爽快な文体がある。もし加藤周一のスタイルの欠陥があるとするならば明晰にすぎるということだろう。複雑なことを割り切って書きすぎる、文芸や政治はもっと多くのものが絡み合っているのだ、との批判はありうる。たとえば次のデリダの文の「宗教」の語に「芸術」や「政治」を代入してみよう。
われわれは二十世紀後半のこういうスタイルを知ってしまっている。だがときに加藤周一の怜悧な断言調はすこぶる快い。小倉朗はかつて、《その結実としての文体は、すぐれた数学者のつくる数式のような美しさがある。》(小倉朗「加藤周一」)と語った。
これらの文は『日本美術文化序説』の序説のようなものだと「あとがき」で書かれている。すなわち、加藤周一の代表作といってよい『日本文学史序説』に続く序説の試みだったということになるが、それは実現されなかった。
いかに「宗教を語る」か? 宗教について? 今日、とりわけ単数定冠詞つきの宗教について? この日、いかに恐れやおののきなしに、あえて単数で語るか? これほど短い時間に、これほど性急に? いったい誰が、問題は特定できると同時に新しくもある主題だと、恥ずかしげもなく言いはるだろう? いったい誰が、図々しくも宗教に何らかの警句をあてはめるだろう? そのために必要な勇気と尊大さと冷静さを手に入れるには、一瞬、捨象〔=抽象〕を、すべての捨象、あるいはほとんどすべての捨象、あるいはある程度の捨象を行ったふりをしなければならないだろう。最も具体的で近づきやすい捨象を、しかし同様に捨象のなかで最も不毛な捨象を、担保にしなければならないだろう。
捨象によって自らを救う〔=逃げる〕べきか、あるいは捨象から逃げる〔=自らを救う〕べきか?(ジャック・デリダ『信仰と知』松葉祥一・榊原達哉訳)
われわれは二十世紀後半のこういうスタイルを知ってしまっている。だがときに加藤周一の怜悧な断言調はすこぶる快い。小倉朗はかつて、《その結実としての文体は、すぐれた数学者のつくる数式のような美しさがある。》(小倉朗「加藤周一」)と語った。
これらの文は『日本美術文化序説』の序説のようなものだと「あとがき」で書かれている。すなわち、加藤周一の代表作といってよい『日本文学史序説』に続く序説の試みだったということになるが、それは実現されなかった。
何が絵の質を決めるのだろうか。それは客観的には決まらない。それは各人が古典との長いつき合いを通じて、次第に養ってきた絵画に対する一種の態度を唯一の拠りどころとして、みずから決めてゆくほかないものだろう。その態度は、人によってちがう。すなわち当人の個人的な面とも係わる。しかし全く恣意的に人によってちがうのではなく、全く個人的な面のみに係わるのではない。なぜなら個人を超える古典の総体が、それぞれの個人の感受性を特定の方向へ、いわば導くように作用するからである。その結果、ある時代のある文化のなかでは、古典とのながいつき合いを通ってきた個人の間に、芸術に対する態度の共通の枠組が成立する。その枠組こそは、芸術的趣味または価値の体系の「時代性」を示すだろう。個人の態度は、その枠組のなかで、それぞれちがいながら、同じ時代の特性を帯びるのである。
しかし評価することなしに創作することはできない。みずから絵を描くためには、みずから絵を評価しなければならない。画家が古典を必要とするのは、古典を模倣するためではなく、絵画を定義するためである。時代が急激に変わり、何を古典とするのか標準も急に変わってゆくときに、―――したがって絵画の定義そのものが不安定化するときに、仕事を完成しようとする画家には、何ができるだろうか。彼らは、彼ら自身の時代を無視してでも、前の時代から受けとった古典の全体とのつき合いを維持するほかない。それこそは、たとえばジョルジュ・ルオーの、あるいは富岡鉄斎の、創造的時代錯誤にほかならないだろう。(『絵のなかの女たち』「まえがき」)
ただいかんせん書名に『絵のなかの女たち』とあるように、絵画以外のこと(女たちのことなど)が主に書かれているという感は否めない。《私はしばしば「絵」から逸脱して、空想を「女」の方へ伸ばしたり、また「絵」にたち戻って画面にとどまったりした。またさらに、その画面を作った芸術家の方へ話しをつなげて(……)考えたりした。(……)そこから何が浮んでくるのだろうか。要するに、私の「絵」に対する、または「女」に対する愛着ということになるのかもしれない、私が愛した、あるいは愛したでもあろう女たちの。》
もっともこの書の「まえがき」にある文は、再三引用しているが加藤周一が書いた最も蠱惑的な文のひとつであると、わたくしは思う。
フロイトがいうように《「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味している》(女神の舌)のであるならば、男は女のことをめぐってばかり書いてなにが悪いというのだろう。いやそう書けばすぐさま、美の形式性を強調する岡崎乾二郎やボードレールの言葉が浮んでこないわけではないが。
すくなくとも創作者はそうでなくてはならないだろう。だが鑑賞者は?
プルーストの音楽への態度は次のようであった(カペー四重奏とプルースト)。
だがここでジャン・ジュネ=ジャコメッティの至高の文をも忘れないでおこう。
わたくしはこの文を、《エロスは死をめざしタナトスは生をめざす》(Paul Verhaeghe)となんとか重ねあわせてみたい誘惑に駆られる。あるいはロラン・バルトのプンクトゥムと。
プンクトゥムはラカン用語の享楽に限りなく近い。そして、S・シュナイダーマンの『ラカンの《死》』によれば、ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていたとのこと。
なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだと。こうして性→享楽→死→エロス、そしてエロス=性の円環をこじつけたい誘惑に駆られる。だがいまはその場ではない。
さてごく標準的な「女」をめぐる好みの文章に戻って、プルーストの『失われた時をもとめて』から抜き出そう。
ふたたび、加藤周一の別の書から次のような文を抜き出すこともできる。
あるいはまた、『絵のなかの女たち』に戻れば。
…………
……私にとっては、或る人間について重要に思われることは彼の生涯における偶発的な諸事件ではなく、彼の生れとか、彼の恋愛事件とか、種々の不幸とか、その他、彼について実地に観察することができる事実の殆どすべては、私には何の役にも立たない。すなわちそれらの事実は、或る人間にその真価を与え、彼と彼以外のあらゆる人間との、また彼と私との決定的な相違を生ぜしめている事柄について、私に何事をも教えてはくれない。
そして私としてもしばしば、この種類の、我々の認識を実質的には少しも深めはしない生活上の消息について、相当な好奇心を抱くことがあるのだが、私の興味を惹く事柄が必ずしも私にとって重要なものであるとは限らないのであって、これは私だけでなく、だれの場合にしても同じことが言える。要するに、我々は、我々を面白がらせることに対して常に警戒していなければならない。(ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』 吉田健一訳)
もっともこの書の「まえがき」にある文は、再三引用しているが加藤周一が書いた最も蠱惑的な文のひとつであると、わたくしは思う。
人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。
再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。一〇年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。
私はここで、想い出すままに、私が絵のなかで出会った女たちについて、語ろうとした。その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。
私は場面を解釈し、環境を想像し、時代を考え、私が今までに知っていたことの幾分かをそこに見出し、今まで知らなかった何かをそこに発見する。現実の女が、必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女たちとも同じでないように。(加藤周一『絵のなかの女たち』「まえがき」)
フロイトがいうように《「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味している》(女神の舌)のであるならば、男は女のことをめぐってばかり書いてなにが悪いというのだろう。いやそう書けばすぐさま、美の形式性を強調する岡崎乾二郎やボードレールの言葉が浮んでこないわけではないが。
「軽薄にソネットを扱いそこにピタゴラス的な美をみないのは馬鹿げている」(ボードレール)。ピタゴラス的な美とは、”現実”や”意味”と無関係に形式的な項の関係のみで成り立つものである。(柄谷行人『隠喩としての建築』)
だからぼくの立場はやはり形式主義ということになります。そんな得体の知れないものが対象としてあるように見えて、実際は掴むこともできないのはわかっている。よってそれを捉まえるよりも、具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか、そういうレヴェルでしか技術は展開しない。(岡崎乾二郎)
すくなくとも創作者はそうでなくてはならないだろう。だが鑑賞者は?
プルーストの音楽への態度は次のようであった(カペー四重奏とプルースト)。
・音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではない
・粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ。
だがここでジャン・ジュネ=ジャコメッティの至高の文をも忘れないでおこう。
美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)
わたくしはこの文を、《エロスは死をめざしタナトスは生をめざす》(Paul Verhaeghe)となんとか重ねあわせてみたい誘惑に駆られる。あるいはロラン・バルトのプンクトゥムと。
プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。(『明るい部屋』)
プンクトゥムはラカン用語の享楽に限りなく近い。そして、S・シュナイダーマンの『ラカンの《死》』によれば、ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていたとのこと。
なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだと。こうして性→享楽→死→エロス、そしてエロス=性の円環をこじつけたい誘惑に駆られる。だがいまはその場ではない。
さてごく標準的な「女」をめぐる好みの文章に戻って、プルーストの『失われた時をもとめて』から抜き出そう。
若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト「ゲルマントのほう 二」井上究一郎訳)
……それどころか、じつをいうと私が、さっきのようにアルベルチーヌをながめながら、絶妙の古色を帯びたこんな奏楽天使像を自分は占有しているのだと得意になりかけたとき、彼女は早くも私にとって興味のない女になっているのであった。やがて私は彼女のそばにいることがやりきれなくなってくるのだ、しかしそういった瞬間も長つづきしたためしはなかった。人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである、だからすぐに私も、自分がアルベルチーヌを占有していないことにふたたび気づきはじめるのだった。彼女の目のなかに私は読みとるのだ、私には予想もつかないよろこびが、あるときは希望になり、あるときは思出もしくは追懐となって、ちらちらと通りすぎてゆくのを。(「囚われの女」)
ふたたび、加藤周一の別の書から次のような文を抜き出すこともできる。
私はながく彼女を愛していると持っていたが、ひとりの女にほんとうに夢中になったときに、彼女と私の間の関係がそれとちがうものであったことに気づいた(……)。相手の責任のない不幸を、私が相手の生活のなかにつくり出す、ということを承知の上で、私が行動するーー行動せざるをえない、というときに、その当の相手と話すことのあるはずがない。私は喋り、喋ることの無意味さを感じ、疲れきった。私は放心状態で彼女に別れ、二度と会うまいと考えた。もはや相手のことを考えつづける気力もなかった。それは完全に自己中心的な状態である。しかしそういう状態が成立すると同時に、私はそういう自分自身を第三者のように眺めていた。この「自己」とは何だろうか。一人の女から去って、別のもう一人の女へ向う人間の内容は何であろうか。その二人の女との関係を除けば、私のなかには何も残らず、ただ空虚だけが拡がっているように思われた。(加藤周一『続 羊の歌』)
あるいはまた、『絵のなかの女たち』に戻れば。
理解するとは、分類することである。一人の女が他の女に似ている点に注目する(「スイもアマイもかみわけた」見方は、そうでなければ、成立しないだろう)。あるいは、一人の男がもう一人の男に似ている点に(「男はみんなこういうものだ」)。しかし愛するとは、分類を拒むことである。その女を愛するのは、他の誰にも似ていないから、つまりかけ替えがないからである(「オレとオマエの仲だもの……」)。故に理解の内容は、社会的であって―――社会的でない理解はそもそも成立しない―――、愛の内容は、本来非社会的であり、純粋に私的であり、余人に伝え難い。
しかし恋人たちの感情もゆれ動くだろう。ある時の感情が、次の瞬間に、どう変わってゆくのか、たしかな保証はない。相手の心理を忖度しても然り、自分自身の気分を省みてもなおかつ然り。みずからそこにたしかな持続をもとめ、拠りどころを築き、全く衝動的ではない一聯の行動の動機をそこから抽きだすためには、それが「愛」であるとか「恋」であるとかみずからいうほかない。しかるに「愛」にしても「恋」にしても、何かを名づけ、何かをいうためには、言葉を用いざるをえない。しかるに言葉は決して純粋に私的ではなく、社会的なものである。いうことは、社会化することであり、余人を私的空間に引き込むことである。どうすれば余人に伝え難いことを余人に伝えることができるだろうか。
別の言葉でいえば、非社会的なものの社会化は、いかにして可能であろうか。個別的対象の個別性=かけ替えのなさを、切り捨てて分類するのではなく、それを特殊な時と特殊な場所のなかに固定したまま、安定化し、明確化し、その時と場所を越えての意識に対し―――それが自分自身の意識であろうと、第三者の意識であろうと―――、到達可能なものにするためには、どういう手段を用いることができるだろうか。その手段は芸術的表現である。〔『絵のなかの女たち』「まえがき」)
…………
レナード・バーンスタインは『音楽のよろこび』(1954)のなかで次のように書いている。
彼は、音楽における意味を四種のレベル、すなわち①物語的=文学的意味 ②雰囲気=絵画的意味 ③情緒反応的意味 ④純粋に音楽的な意味 に分類したうえで、 ④だけが音楽的な分析を行うに値すると述べる。
さらに「音楽を説明すべきものは音楽そのものであって、その周囲に寄生虫のように生じた、音楽以外のもろもろの観念ではない」と。
最初の印象はピカソの作品は圧倒的だ。だが《じっと見ている「時間」によって、視覚に様々な不純なものがじわじわ侵入して、感覚が解けて》ゆくという眩暈を起こさせる経験を促すものは比較的少ない。
他方、マティスは《「解けた時間」のなかで対象との安定した距離を失い、それによってほとんど距離零で色彩や絵具の質感を官能的な震えとともにまさぐるように触知する資質(痴呆的な資質)に恵まれた》とされている。《しかしそこに強引に批評的な距離(絵画の形式性、あるいは媒介性)を導入せずにはいられない》と。この二重性の指摘は、マティスという画家のピカソとは異なる魅力を言い当てている。
もっとも絵画については、ごくシロウトの鑑賞者として、ピカソのある時期の作品(オルガやマリ・ヴァルテルからドラ・マール時代)を好んでいたが、マティスの魅力というものに齢を重なるごとに傾いてゆくということはある。
しかしながら、若い頃、ブリヂストン美術館で最初に出あったピカソの小さな作品《生木と枯木のある風景》の白い雲と樹は、いまでも、ある風景にめぐり合ったとき、ああピカソの空、ピカソの樹幹や枝! と感じることから逃れられない。
他方、マティスは《「解けた時間」のなかで対象との安定した距離を失い、それによってほとんど距離零で色彩や絵具の質感を官能的な震えとともにまさぐるように触知する資質(痴呆的な資質)に恵まれた》とされている。《しかしそこに強引に批評的な距離(絵画の形式性、あるいは媒介性)を導入せずにはいられない》と。この二重性の指摘は、マティスという画家のピカソとは異なる魅力を言い当てている。
もっとも絵画については、ごくシロウトの鑑賞者として、ピカソのある時期の作品(オルガやマリ・ヴァルテルからドラ・マール時代)を好んでいたが、マティスの魅力というものに齢を重なるごとに傾いてゆくということはある。
しかしながら、若い頃、ブリヂストン美術館で最初に出あったピカソの小さな作品《生木と枯木のある風景》の白い雲と樹は、いまでも、ある風景にめぐり合ったとき、ああピカソの空、ピカソの樹幹や枝! と感じることから逃れられない。
こんにちならよい趣味の人たりはわれわれに向ってこういう、――ルノワールは十八世紀の大画家である、と。しかし、そういうことを口にするとき、彼らは忘れているのだ、時を。すなわちルノワールが大芸術家としての待遇を受けるには十九世紀のただなかにあってさえ多くの時を必要としたことを。そのようにして世に認められることに成功するには、独創的な画家にしても、独創的な芸術家にしても、いずれも眼科医のような方法をとる。そんな画家とか芸術家とかが、絵や散文の形でおこなう処置は、かならずしも快いものではない。処置がおわり、眼帯をとった医師はわれわれにいう、ーーさあ、見てごらん。するとたちまち世界は(世界は一度にかぎり創造されたわけではない、独創的な芸術家が出現した回数とおなじだけ創造されたのだ)、われわれの目に、古い世界とはまるでちがって見える、しかも完全にはっきり見える。女たちが街のなかを通る、以前の女たちとはちがう、つまりそれはルノワールの女たちというわけだ。われわれがかつて女だと見るのを拒んだあのルノワールの女たちというわけなのだ。馬車もまたルノワールである、そして水も、そして空も。はじめて見た日どうしても森とは思えず、たとえば無数の色あいをもっているがまさしく森に固有の色あいに欠けているタペストリーのようだった、そんな森に似た森のなかを、われわれは散歩したくなってくる。そのようなものが、創造されたばかりの、新しい、そしてやがて滅びるべき宇宙なのである。その宇宙は、さらに独創的な新しい画家や作家がひきおこすであろうつぎの地質的大変動のときまでつづくだろう。(プルースト「ゲルマントのほう Ⅱ」井上究一郎訳)
◆ドラ・マール Dora Maar