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2014年2月25日火曜日

「夜中の一時だったか/それとも一時半」

「夜中の一時だったか
それとも一時半」

ケイタイ切っとくのを忘れたよ
目が醒めちゃったから
モルトウィスキーを一口
ダイジョウブカナ、痛風
それでとーー

ダンヒルのパイプは寿命だね
美丈夫の生涯独身だった叔父の形見でさ
足掛け四〇年ものだからな
マウスピースがすかすかでね
海泡石のパイプは詰まってるし
刻みタバコも湿ってるな

「ダンヒルのパイプを河原のすすきの中へ
すててヴァレリの呪文を唱えた
「お前さんは曲がつている。すずかけの木よ」
なんてことはできないな
呪文ぐらいは唱えるさ
開け胡麻って
「扉を開く読書、アリババの呪文、魔法の種」

「過去をふり返るとめまいがするよ
人間があんまりいろいろ考えるんで
正直言ってめんどくさいよ
そのくせい自分じゃ何ひとつ考えられない
ぼくは自分を鉛筆の落ちた音のように感ずる
カチャンコロコロ……
過去がないから未来もない音だね

それでとーー
ちょっともう続けようがないなこの先は」






私は、たまたま高等学校において、古代ギリシャ文学を愛する教師に勧められ、当時ようやく出版された独習書を使って古代ギリシャ語を勉強しようとした。哲学よりも詩を好み、ギリシャ詞華集の一部を暗誦しようとした。

この勉強は、京都大学法学部に入学してからも継続した。私は、そのまま行けば、ひそかにギリシャ文学を読む会社員か公務員になっていたであろう。

しかし、私は結核になった。当時、結核の経歴があるということは卒業しても失業を意味した(リッツォスの青春期と似た状況である)。治癒後、私は、独立して生きる可能性が高い医師になろうと思い、医学部に転入学した。(中井久夫「私とギリシャ文学」『家族の深淵』所収)

ーー今でもいるのかね、こういう「教養」を身につけている人は。
すでにヴァレリーやエリオット、リルケなどの原典を
甲南の九鬼文庫で読んでいた後の話だからな
何度読んでも愕然とするね
十代の後半のオレはいったいなにをやっていたというのだろう、と


韓国と日本では知識人の基準が少し違う。日本では何らかの専門家であることが必要である。しかし、それでまあ十分である。韓国では、専門の力量に加えて高度の一般教養がなくてはならない。いま小学生から英語を教え、高校で二ヶ国語を必修としている隣国の教育の凄さに日本人は無知である。この家(中井久夫が下宿したY夫人家:引用者)に来訪する韓国の知識人との交際はこよなく洗練され高度なものであった。夫人との毎晩の四方やま話も尽きなかった。当時の私は韓国から毎日出稼ぎに日本へ行っては毎晩帰っているようなものであった。三年間私は文化的に韓国に住んでいた。おそらく、その最良の部分の一端に触れていた。(中井久夫「Y夫人のこと」『家族の深淵』所収


一八歳の中井久夫が休学中(結核だが、個人的絶望のせいでも、とある)、西脇順三郎氏との間で何度か親密な手紙のやりとりをしたことは、知る人ぞ知る、である。

……自分が妙なことにならないために詩の翻訳を自分に課した。これはその後、精神的な危機の際の私の常套手段となった。占領下、H百貨店の洋書部主任、東大仏文でのY氏の好意で入手した洋書が多かった。また私の高校に寄贈されていた九鬼周造氏の蔵書も教師の名で貸与してもらって筆写していた。後者の中にT・S・エリオットの『荒地』があった。

ノートを作ったりしているうちに、N氏の訳が出た。当時としては豪華な装丁と紙質と活字だった。書評は絶賛が続いた。しかし、私は氏がいくつかの初歩的な誤訳をされているように思われた。(……)大いにためらってから、私は氏に手紙を書いた。著名人に手紙を書くのは初めてである。私が当時、鬱屈していたことは否定できない。

私は、数日後、厚い速達に驚かされた。氏は、感動的な率直さで誤訳を認めておられた。(「N氏の手紙」『記憶の肖像』所収)

浅田彰は十年以上まえの東京大学に於ける講演で次のように発言している、--ということは当時の東大にも当然まれだということだろう。


たとえば自分は医者になるがゲーテは原書で読んだとか、自分はフランス文学をやっているが彗星が来る周期に関しては必死にPCで計算してみたというほうが重要。最低限のスタンダードが教育されている上で一人の人間の中で広く浅くたくさんの人と教養を深めようというより、狭く深くでいいから、それが複数並び立つのがいい。医学をやっている人がゲーテを読んだってあまり普遍的な広がりはないかもしれないが、なくていい。深いが狭い、しかし狭いが深いというようなものが複数あってそれらがネットワークを作ることが重要。

もっというと、それが複数の人の間で拡がっていって、深いが狭い、狭いが深いというようなものがいくつかショートする状況を作ることが重要。情報ネットワークの発達でそれを可能にする条件は整いつつある。昔は物理的に全然関係ない学校の人、いわんや別の場所の人とコミュニケートするだけでずいぶん大変だった。今はそれはネットですぐできる。そういうものを使って良い形でのコミュニケ―ションを作ることが重要。(浅田彰氏講演録「知とは何か・学ぶとは何か」)

まじでまともな「人材」つくり直すのだったら
「3歳から小学校入学前の幼児と母親を対象の
のたぐいをやらなくちゃな
十代後半ではまったくおそいんだよ


…………


「憩いに就く」


夜中の一時だったか
それとも一時半

酒場の隅だったね
板仕切りの後ろ
きみと二人。他には人はいなかったね
ともしびもほとんど届かなくて
給仕はドアのきわで眠っていた

誰にも見られなかったけれど
どうせこんなに燃えたからには
用心しろといっても無理だよね。

……

神のごとき七月の燃えさかる中

大きくはだけた着物と着物の間の
肉の喜び。
肉体はただちにむきだしとなってーー
そのまぼろしは二十六年の時間をよぎって
この詩の中で今憩いに就くのだよ(中井久夫訳  以下同)


◆「酒場の隅」あるいは「からみあい」ヴァリエーション

亭主がまだ部屋から出ていくかいかないうちに、フリーダは、はやくも電燈のスイッチを切るなり、カウンター台の下のKのそばに来ていた。

「好きな人! わたしの大好きな人!」と、彼女は、ささやいたが、Kのからだにはふれなかった。恋のために気が遠くなったみたいに仰向けに寝ころんで、両腕をのばしていた。これからはじまる愛の陶酔をまえにしては、時間も無限であるらしかった。(……)

ふたりは、抱きあった。Kの腕のなかで、小さなからだが燃えていた。彼らは、失神したような状態でころげまわった。Kは、この失神状態からたえず抜けだそうとこころみたが、どうにもならなかった。しばらくころげまわっているうちに、どすんとにぶい音をたててクラムの部屋のドアにぶつかった。それからは、こぼれたビールの水たまりや床一面にちらばったごみのなかに寝ころんでいた。そうして、ふたりの呼吸と心臓の鼓動がひとつになった何時間がすぎていった。そのあいだじゅうKは、自分は道に迷っているのかもしれない、あるいは、自分以前にはまだひとりの人間も足をふみ入れたことがないような遠い異郷の地に来てしまったのかもしれないという感じ、ここでは空気ですらも故郷の空気とは異質で、その異質な空気のために息がつまりそうでありながらも、その妖しい魅力にたぶらかされてこのまま歩きつづけ、道に迷いつづけることしかできないという感じをたえずもちつづけていた。(カフカ『城』前田敬作訳)

ところが、ボーイは、調理場の半ば開いた扉とサイド・テーブルの間の、こちらからは良く見えない陰になっている床の上で、空色のスカート丈の短いユニフォームのウエイトレスと激しくもつれあっているのだった。スカートがまくれあがってしまっているので、ストッキングをつけていない長い脚が宙を泳ぐように動き、ボーイはウエイトレスの脚をすくいあげるようにして、抱え込もうとしていた。食堂には何組かの客が食事をしているのだが、客たちはボーイの振舞いには無関心で、というよりも、まるで気がついていないらしく、二組の夫婦の連れている小さな子供たちだけが、床の上の活劇めいた淫らな行為を熱心に見つめていた。

わたしはすっかりあきれてしまい、それに、はっきり言えば、それはかなり刺激的な光景だったので、どぎまぎして、平然としている彼女の顔を見た。彼女はボーイとウエイトレスの淫らな振る舞いに気づいているのだが、気にするでもなく、自分で食堂の調理場に」近いバーのコーナーに足を運んで、カンパリ・ソーダを拵えて来て、椅子にすわりながら、意味もなくわたしの顔を見て無邪気な様子で微笑みかけるのだった。苛立たしい微笑だ。それから、わたしは唐突に、あのボーイの奴はいつもああなんですか、と批難がましい口調で彼女に質問し、彼女は首をかしげて考え込むような仕草をして、そうねえ、いつもというわけじゃあないけれど、と答える。……(金井美恵子『くずれる水』)

私たちはからみあって組みうちをするのだった。私は彼女をひきよせようとし、彼女はしきりに抵抗する。奮闘のために燃えた彼女の頬は、さくらんぼうのように赤くてまるかった。彼女は私がくすぐったかのように笑いつづけ、私は若木をよじのぼろうとするように、彼女を両脚のあいだにしめつけるのであった、そして、自分がやっている体操のさなかに、筋肉の運動と遊戯の熱度とで息ぎれが高まったと思うまもなく、奮闘のために流れおちる汗のしずくのように、私は快楽をもらした、私にはその快楽の味をゆっくり知ろうとするひまもなかった、たちまち私は手紙をうばった。するとジルベルトはきげんよくいった、

「ねえ、よかったら、もうしばらく組みうちをしてもいいのよ。」

おそらく彼女は私の遊戯には私がうちあけた目的以外にべつの目的があるのをおぼろげながら感じたのであろう、しかし私がその目的を達したことには気がつかなかったであろう。そして、その目的を達したのを彼女に気づかれることをおそれた私は(すぐあとで、彼女が侮辱されたはずかしさをこらえて、からだをぐっと縮めるような恰好をしたので、私は自分のおそれがまちがっていなかったのをたしかめることができた)、目的を達したあとの休息を静かに彼女のそばでとりたかったのだが、そんな目的こそほんとうの目的であったととられないために、なおしばらく組うちをつづけることを承諾した。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに』井上究一郎訳)

…………


「午後の日射し」


私の馴染んだこの部屋が
貸し部屋になっているわ
その隣は事務所だって。家全体が
事務所になっている。代理店に実業に会社ね

いかにも馴染んだわ、あの部屋

戸口の傍に寝椅子ね
その前にトルコ絨毯
かたわらに棚。そこに黄色の花瓶二つ
右手に、いや逆ね、鏡付きの衣裳箪笥
中央にテーブル。彼はそこで書き物をしたわ
大きな籐椅子が三つね
窓の傍に寝台
何度愛をかわしたでしょう。

(……)

窓の傍の寝台
午後の日射しが寝台の半ばまで伸びて来たものね

…あの日の午後四時に別れたわ
一週間ってーーそれからーー

その週が永遠になったのだわ


カヴァフィスは登場人物の容貌をほとんどまったく記述しない。せいぜいが、「詩的な眼」などといって済ませる。服装も身のこなしも叙述しない。舞台についても単純な数語である。「自然が出てこない」とは古くから言われたとおりである。まさに仮面劇である。 しかし、カヴァフィス詩を読む時、この寡黙に直面して、われわれは何らかの不足不満を感じるだろうか。イメージが湧いてこないとか、この辺はどうなっているのだと疑問に思ったりなど決してしないと思う。何かが足りないという感覚は生じない。ふしぎな過不足のなさである(「未刊詩編」にはある。彼が自詩を精選した「カノン(正典)にはない)。すなわち詩人の彫琢精選の結果である。 一方われわれは演出の自由を委ねられていると感じる。われわれはカヴァフィス劇の演出家とならされる。これがカヴァフィスの第三の魔法である。これが彼の詩を普遍的なものにしている要素の一つである。われわれはわれわれなりに演出できるし、せざるをえない。 (……) 状況を共有し、演出者となり、「ゴシップ」感覚を享楽するという、一見矛盾した点からであろうが、カヴァフィス詩の読者の中には、あるふしぎな感覚、「コミットしながらも醒めている」という奇妙な状況が生じる。すなわち、われわれはカヴァフィス詩の状況に共感し共振するが、決して主人公に同一化することはない。彼が感傷的になっている時でさえ、われわれは、その感傷からある距離を保ち、決してこの距離を失うことはない。おそらく、詩人自身が対象との距離を失わないからであろう。カヴァフィス詩の現代性は、安易な感情移入と同一化とを許さないというところにある。(中井久夫「劇詩人としてのカヴァフィス」『家族の深淵』所収)


「タベルナ」


ベイルートのタベルナ、あいまい宿をはいずりまわる私。
アレクサンドリアにいたたまれなかった。
タミデスに去られた。ちくしょう。
手に手をとって行ってしまった、長官の息子めと。
ナイルのほとりの別荘がほしいためだ。市中の豪邸もだな。
どんな顔して俺がおれる、アレクサンドリアに?
……
そんな人生にも救いはある。一つだけある。
永遠にあせない美のような、わが身体に残る移り香のような、救いはこれだ。タミデス、
いちばん花のある子だったタミデスがまる二年
私のものだった。あまさず私のものだった

しかも邸やナイルに臨む別荘目当てじゃなかったってこと(カヴァフィス「タベルナにて」)


ギリシャの詩人カヴァフィス(1863-1933)は、人が群れ立つ広がりから出られなかったようですね。彼は、少年時代は英国で教育を受けているわけだけれども、十代の後半からずっとアレキサンドリアにいたわけです。一九三三年に死んでいるけれでも、前の年にアテネで喉頭がんの手術を受けました。そのあと、アテネの郊外のギリシャ神話に名高い山が見えるところで静養するように、友人が設定するんですけれども、脱走してしまう。そして、カヴァフィスならあそこに行ったに違いないと思って、アテネのいちばん雑踏しているところを捜すと、はたしてそこにいたという話です。

彼の公刊されてる詩には、ほとんど自然が出てきません。遺稿集のなかには、多少植物も出てきますけれども。全部、町であり、その町と人間と追憶、そして、追憶のからまった町並みです。ほとんど彼の記憶そのものと化したようなアレキサンドリアの町というものですね。

ボードレールも、若いときは、過激なものを少し書いています。カヴァフィスも、ヨーロッパ人の評論をよむと、最初からアレキサンドリアの町の申し子みたいになっている。しかし実際には、二十代の後半あたりは、イギリスに対して、ギリシャの文化遺産を持ち去っていってことを抗議するような文章を書いています。彼がアレキサンドリアの町を一時逃れてコンスタンティノープルに行くのは、英国の艦隊がアレキサンドリアを砲撃し、カイロに進撃して、事実上エジプトを支配していく過程においてです。そして、その過程において、彼は諦念をもってアレキサンドリアの町にひっそり住み直すわけですが、昼は小役人として働き、夜はホモの世界に生き、もう一つの顔が詩人であるということです。

デカルトだって、ある種の断念のなかで都市のなかに定住するわけですね。中国にも、ほんとうの隠者は市に隠れるという成句があるでしょう。彼がオランダに住み着くのは、一つには、言論の自由ということもあるんだろうと思います。しかしオランダの町のざわめきというのを、森のなかの鳥のさえずり、というようなかたちで表現している。とにかく、都市のなかで森の静寂のようなものを味わっていて、非常に快適だと言っているんです。『方法序説』の終わりのほうかな。群衆のなかこそ隠れ家となんだというわけなんです。群衆のなかに混じって何かをやっているわけではないんですね。

あのころのいちばん近代的な都市、無名性を許容する都市というのは、アムステルダムなどのオランダの都市だったと思うんです。そういう共通性があってーーある人たちは、権力を求めて都市に来るのかもしれないけれどもーーある人は、国内的であれ、国外的であれ、亡命するために都市に来るのかもしれない。実際、農村に亡命することはできませんね。

パリとかロンドンというのは、あらゆる肌の色の人がいますけれども、イギリスの田舎にそういう人がポッと入っているかというと、それはないですね。そういう意味では、都市というものは、元来の群れから出た人間が潜り込めるようなものかもしれない。

ルソーが、森に二十歩入ったらもう自由だといっている。耕地は統制されているのですね。腐葉土のようにいろいろのものが棲めるのが自然発生都市というものかもしれません。計画された都市、たとえばつくば学園都市なんていうと、これはだいぶ違うかもしれない。これは正反対のものかもしれませんね。隠れ棲むということができない。そこがケンブリッジやオクスフォードと違う。

カヴァフィスのアレキサンドリアは、彼の詩からみると、重層した記憶の町でしょうがね。実際は相当雑駁な新興都市だと思うんですよ。アラビアンナイトから出てきたような町を予想する人もいますけれども。ことに西洋人でカヴァフィスが好きな人には、そういう思い入れがあるんだけど、実際は、あれは十九世紀になってから、エジプトが近代化を始めて、タマネギだとか綿だとかタバコだとか、農作物の集散所として栄えたぐらいで、けっしてそんな由緒ある町ではない。むしろ猥雑な町だったんでしょうね。トルコ風のコーヒー屋があるかと思ったら、イギリスのクラブがある。中東ふうの淫売窟があるかと思ったら、ヨーロッパ人のクラブのようなものがある。たぶんそのようなところだったのでしょうね。

それもどんどん変わってきて、昔はここにカフェがあったけれども、今は全然なくなっているんだというようなことを、カヴァフィスは詠んでいるし、彼はそういう重層した記憶というなかで住んでいたんでしょうね。(中井久夫「微視的群れ論」 『精神科医がものを書くとき』〔Ⅰ〕所収)


「野蛮人を待つ」  


「市場に集まり 何を待つのか?」

 「今日 野蛮人が来る」

「元老院はなぜ何もしないのか?
 なぜ 元老たちは法律も作らずに座っているのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  今 法案を通過させて何になる?
  来た野蛮人が法を作るさ」

「なぜ 皇帝がたいそう早起きされ、
 市の正門に玉座をすえられ、
 王冠をかぶられ、正装・正座しておられるのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  皇帝は首領をお迎えなさる。
  首領に授ける羊皮紙も用意なすった。
  授与する称号名号 山ほどお書きなすった」

「なぜわが両執政官、行政監察官らが
 今日 刺繍した緋色の長衣で来たのか?
 なぜ紫水晶をちりばめた腕輪なんぞを着け、輝く緑玉の指輪をはめ、
 みごとな金銀細工の杖を握っているのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  連中はそういう品に目がくらむんだ」

「どうしていつものえらい演説家がこないのか?
 来て演説していうべきことをいわないのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  奴等は雄弁、演説 お嫌いなんだ」

「あっ この騒ぎ。おっぱじった。なにごと?
 ひどい混乱(みんなの顔が何とうっとうしくなった)。
 通りも辻も人がさっとひいて行く。
 なぜ 皆考え込んで家に戻るんだ?」

 「夜になった。野蛮人はまだ来ない。
  兵士が何人か前線から戻った。
  野蛮人はもういないとさ」

「さあ野蛮人抜きでわしらはどうなる?
 連中はせっかく解決策だったのに」


この詩は四一歳の作で出発の遅い詩人としては初期の作品であるが、カヴァフィス詩の特徴がよく出ていると思う。

まず、(1)短い。この詩は長いほうで、彼の詩は一般に三ページを滅多に越えず、数行のことも多い。(2)しかも、その中でストーリーが完結する。(3)読むものをいきなり「事件の核心」に降り立たせる。われわれはいきなり状況に投入され、めまいを覚え、息をのむ。(4)現場にいあわせる感覚がある。この詩ではわれわれは対話を小耳にはさむ思いがするが、対話の相手となる場合も、隣室に独語を聞く時もある。しかも(5)読者は登場人物と決して同一化できず、現場にありながら醒めていなければならぬ。この感覚が特にカヴァフィス詩独自であると私は思う。(6)人間を中心とする寸劇、それも仮面劇である。登場人物の容貌も服装も決して与えられず、場面もヒント程度である。自然は出番がない。演出は大幅に読む者にゆだねられている。能か狂言仕立てにならないかと空想したくなる。(7)歴史ものは必ずどんでん返し、あるいは裏の意味がある。この詩の場合は明白だが、よく考えてやっとわかるものもある。(8)古代と現代とが二重写しである。同時代的に感覚されている。(9)ある市井性、世俗性、下世話さ、ゴシップ性といでもいうべきものがある。(10)彼の風刺には読者の中にある「内面化された世論」へのおもねりがない。非常な皮肉家と見る人もいるが、運命の前の人間の小ささというギリシャ悲劇的感覚につながるという見方も可能であろう。(中井久夫「現代ギリシャ詩人の肖像」『精神科医がものを書くとき』〔Ⅱ〕所収 広栄社)


「船上」 


このちいさな鉛筆がきの肖像は
あいつそっくりだ。

とろけるような午後
甲板で一気に描いた。
まわりはすべてイオニア海。

似ている。でも奴はもっと美男だった。
感覚が病的に鋭くて
会話にぱっと火をつけた。

彼は今もっと美しい。
遠い過去から彼を呼び戻す私の心。

遠い過去だ。すべて。おそろしい古さ。
スケッチも、船も、そして午後も。


このぴりっとした寸劇は彼ならではである。いきなり場面に強い照明を当てる第一行。スケッチは当時の同性愛者たちの写真代りであった。そしてイオニア海は、ギリシャに深入りしている楠見千鶴子さんによれば「エーゲ海ほど激しく挑発的で明晰な色合いを持たない代わりに、柔らかく潤んだ大気と混じり合ったけだるい曖昧さで思わず吐息をつかせてしまう」。しかし、この追悼詩の最終行は? スケッチも船も古くて当然。だが「午後」とは? むろん、その午後ははるかな過去だ。だが、はっと疑念がきざす。回想に耽る只今も陳腐だというのでは? そうなれば感傷はすべてくつがえる。(中井久夫「イオニア海の午後」『家族の肖像』所収)


「はるかな昔」


この記憶をぜひ話したい
だが今はもうひどく色あせてーー消え尽きたかのようーー
はるかな昔だから、私の青年時代だから。

ジャスミンの肌――
あの八月の夕べーーはたして八月だったか?――
眼だけは思い出せるーー青――だったと思う
そう。サファイアの青だったね


……一九八九年春、『カヴァフィス全詩集』は、第四十回読売文学賞の研究翻訳賞を受賞した。選考委員たちは、英訳でカヴァフィスを読んでいる人ばかりであるから、日本語の詩としてのカヴァフィスが評価されたのであろうが、カヴァフィスの偉大さが日本語をとおして日本人に評価されたと思いたい。刊行以来四ヶ月で受賞が決まった時、既に限定一五〇〇部はすべて売り切れており、直接売ってくれと私のところに手紙を下さる人さえあった。詩集としては驚くべきことである。詩集の再版は日本でも少ない事件である。

初版を「限定版」としたからには、しばらく再版しないのが紳士的であった。一九九一年に「普及版」が出る前に、私はもう一度原典と各国語にあたった。この普及版が出てからの新しい現象は、大衆雑誌に引用や書評がのるようになったことである。『メンズ・ノンノ』という男性服飾雑誌(一九九一年七月号)がカヴァフィス詩の一部を掲載し、『Hanako』という雑誌の東京版(一九九一年八月十二日号)が推薦図書に『カヴァフィス全詩集』を挙げた。現代人に読むに耐える愛の詩は多くないのであろう。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」『家族の深淵』所収)


「老人」


カフェの騒がしい片隅で
頭をつくえに伏せて老人がすわっている。
連れはない。前に新聞紙。

老年のありきたりのあわれな姿。
老人は思う、強く賢く見目よかった時を、
楽しまずに過ごした歳月の多くを。

ずいぶん歳をとった。知っている。わかる。
感じもある。 若かったのはほんの昨日。 そんな気がする。

時は過ぎた、速く、実に速く。

「分別」が自分を愚弄した。老人は思う、
バカだった。いつも信じた あのごまかし。
「明日にしよう。時間はまだたっぷり」。

思い出す。衝動に口輪をはめた。喜びを犠牲にした。
失ったせっかくの機会がかわるがわる現れて
今あざわらう、老人の意味なかった分別を。

さて考えすぎた。思い出しすぎた。
頭がくらくらする。ねてしまう老人、
頭をカフェのテーブルにやすめて。


ーーまあそこまで言うなよ、カヴァフィスさん




その老学者はまわりの騒がしい若者たちを眺めていたが、突然、このホールのなかで自由の特権をもっているのは自分だけだ、自分は老人なのだから、と思った。老人になってはじめて人は、群集の、世間の、将来の意見を気にせずともすむ。近づいてくる死だけが彼の仲間であり、死には目を耳もないのだ。死のご機嫌をうかがう必要もない。自分の好きなことをし、いえばいいのだ。(クンデラ『生は彼方に』)

(私の魂)といふことは言へない
その證據を私は君に語らう
……

しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために
書きとめた

ーーー伊東静雄 【鶯】(一老人の詩)  

自由詩における改行の意味はどういうところにあるだろうか? 散文詩とどこが違うのであろうか。これには、十分な説明を聞いたことがない。私はこう考えている。読む速度をひそかに規定しているのであろう、と。長い行は速い速度で、短い行はゆっくりした速度で読みように、という指示を下しているのである。散文詩とは、ほぼ同じ速度で読まれる詩である。音韻的には、散文とはそういうものであるというのが、私だけの定義である。同じエリティスの詩でも「狂ったザクロの木」は「エーゲ海」よりも速い速度で読まれるのが自然だと私は思い、私の翻訳では、そのように訳してある。思い入れたっぷりの現代日本詩の朗読法は私の好みではない。現代ギリシャ詩の朗読のように、もっと速い速度で、過度の抑揚を付けずに、ほとんど散文的に、しかし行の長さによって速度を変えるか、行間休止時間を変え、頭韻や脚韻に注意して読まれるべきである。そうすれば、日本語においても、母音と母音、子音と子音の響き合いによる美しさが現れるはずである。

ついでにいえば、私にとって、詩とは言語の徴候的使用であり、散文とは図式的使用である。詩語は、ひびきあい、きらめき交わす予感と余韻とに満ちていなければならない。私がエリティスやカヴァフィスを読み進む時、未熟な言語能力ゆえに時間を要する。その間に、私の予感的な言語意識は次の行を予感する。この予感が外れても、それはそれで「快い意外さ  la bonne surprise」がある。詩を読む快楽とは、このような時間性の中でひとときを過ごすことであると私は思う。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」)

…………

中井久夫のカヴァフィス詩訳は「濡れている」のだよなあ
ヴァレリー訳はそれほどまでにも感じないのだけれど
原詩にもよるのか イオニア海によるものか

《学者たちのこごしくこちたい邦訳は私の心の琴線を掻き鳴らすものではなかった(上田敏や永井荷風の言葉もやや遠かった)》と書いているけれども
中井久夫のエッセイにさえも感じることのすくないあの「濡れ」の感覚

私は、詩の翻訳可能性にかんしての議論は表層言語の水準では解決できないものであると考えている。訳詩というものがそもそも果たして可能かという議論はいつまでも尽きない永遠の問題である。これが、ゼノンの逆理に似ているのは、歩行は現実にできているのだが、それを歩行と認めるかどうかという問題だからだ。ゼノンの逆理に対してディオゲネスは「立って歩けば解決できる」と言ったが、それでもなお「歩いているというのは何かの間違いだ」「ほんとうは歩けないはずだ」という反論はありうるだろう。つまり、詩の訳はできているし、あるのだが、それでもなお「それは原詩とはちがう」「ほんとうは詩の訳はできない」ということはできる。

私は、多くのものが他のもので代表象〔ルプラザンテ〕できる程度には詩の翻訳は可能であると考える。それだけでなく、もっと強く、原文を味到できる人も、その人の母語が別の言語であるならばその人の母語によって訳詩を読むことにかけがえのない意義があると考える。

その詩を母語としない外国語学の専門家が原文を母語のように味到できるという可能性は絶無ではないが、言語の生理学からは非常に至難の技である。ましてや詩である。

人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。


それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。

いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。

この戦慄は、訳者の戦慄と同じでなくてもよい。むしろ多少の違和感があることこそあなたの中にそういう戦慄を蘇えらせる契機となる。実際、訳詩家は翻訳によって初めて原詩の戦慄を翻訳に着手する以前よりも遥かに深く味わうものである。そうでなければ、経済的に報われることが散文翻訳に比してもさらに少ない詩の翻訳を誰が手掛けるだろうか。

翻訳以前の原詩は、いかに精密であり美しくてもアルプスの地図に過ぎない。翻訳は登頂である。ただに頂上を極めることだけではなく、それが極められなくとも、道々の風景を実際に体験する。翻訳を読むことは、あなたが原文を味到することが十分できる方〔かた〕であって、その翻訳にあきたりないところがあっても、登頂の疑似体験にはなる。愛するすべての外国語詩を原語で読むことは誰にもできない相談であるから、訳詩を読むことは、その言語に生まれついていない人には必ず独立の価値があって、それをとおして、原詩を味わうのに貢献すると私は思う。(中井久夫「訳詩の生理学」ーー「女の味」)