コメントを貰ってもコメント欄には書かない方針にしている。あそこはどうも自閉的な場に感じられるから。――ということはどこかに書いておいたほうがいいのかな……
貴君は「バカジャナイノ?」が気に入らないようだが、貴君の質問も似たようなものではないかい?
質問とはあることを知りたいと思うことである。しかし、多くの知的論争においては、講演者の発表に続く質問は欠如の表明ではなく、充実の確認である。質問という口実で、弁士にけんかを仕掛けるのだ。質問とは、その場合、警察的な意味を持つ。すなわち、質問とは訊問である。しかし、訊問される者は、質問の意図にではなく、その字面に答えるふりをしなければならない。その時、ひとつの遊戯が成立する。各人は、相手の意図についてどう考えるべきか、わかっていても、遊戯は、真意にではなく、内容に答えることを強制する。誰かが、さりげなく、《言語学は何の役に立つのですか》と、私に質問したとする。それは、私に対して、言語学は何の役にも立たないといおうとしているのだが、私は、《これこれの役に立ちます》と、素直に答えるふりをしなければならない。対話の真意に従って、《どうしてあなたは私を攻撃するのですか》などといってはならない。私が受け取るのは共示〔コノタシオン〕であり、私が返さなければならないのは外示〔デノタシオン〕である。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)
浅田彰は「哲学者」としてはバカにみえるといっているだけで、活動家としてはバカとは言っていない。ただ啓蒙的に語っているだけであり、たとえば今若くして哲学の勉強をしている人が「哲学者」はあれでいいと思ったら困るよ、と語っているとわたくしは読む。
僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。
21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。
……住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。(浅田彰)
一言で批判(吟味)して効果的なのは「バカ」であり、ときには使っていいという立場をわたくしはとっている。
たとえば蓮實重彦の《バディウは馬鹿》発言。
あるいは、《ジジェクは銃殺すべき》(『「知」的放蕩論序説』)
これは趣味判断の問題であり、それではいけないというひともいるだろう。
浅田彰の批判はニーチェの攻撃要項からそんなに外れていないようにみえるがね
わたしの戦争実施要項は、次の四箇条に要約できる。第一に、わたしは勝ち誇っているような事柄だけを攻撃するーー事情によっては、それが勝ち誇るようになるまで待つ。第二に、わたしはわたしの同盟者が見つかりそうにもない事柄、わたしが孤立しーーわたしだけが危険にさらされるであろうような事柄だけを攻撃する。わたしは、わたしを危険にさらさないような攻撃は、公けの場において一度として行なったことがない。これが、行動の正しさを判定するわたしの規準である。第三に、わたしは決して個人を攻撃しないーー個人をただ強力な拡大鏡のように利用するばかりである。つまり、一般に広がっているが潜行性的で把握しにくい害悪を、はっきりと目に見えるようにするために、この拡大鏡を利用するのである。わたしがダーヴィット・シュトラウスを攻撃したのは、それである。より正確にいえば、わたしは一冊の老いぼれた本がドイツ的「教養」の世界でおさめた成功を攻撃したのであるーーわたしは、いわばこの教養の現行犯を押さえたのである……。わたしが、ワーグナーを攻撃したのも、同様である。これは、より正確にいえば、抜目のない、すれっからしの人間を豊かな人間と混同し、末期的人間を偉大な人間と混同しているわれわれの「文化」の虚偽、その本能の雑種性を攻撃したのである。第四に、わたしは、個人的不和の影などはいっさい帯びず、いやな目にあったというような背後の因縁がまったくない、そういう対象だけを攻撃する。それどころか、わたしにおいては、好意の表示であり、場合によっては、感謝の表示なのである。わたしは、わたしの名をある事柄やある人物の名にかかわらせることによって、それらに対して敬意を表し、それらを顕彰するのである。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)
第二の戦争要項だけは、対談で語って同調する福田和也がいるから、やや保留するが。
《「おれの曲に拍手する奴らを機銃掃射で/ひとり残らずぶっ殺してやりたい」と酔っぱらって作曲家は言うのだ》(谷川俊太郎「北軽井沢日録」より『世間シラズ』所収)
あるだろ、こんな心持
別に作曲家でなくても
そうだな
たんなるネットの書きこみでもさ
「憎んでいると思ったこともない代わりに
言葉を好きだと思ったこともない
恥ずかしさの余り総毛立つ言葉があるし
透き通って言葉であることを忘れさせる言葉がある
そしてまた考え抜かれた言葉がジェノサイドに終ることもある」(同「鷹繋山」)
恥ずかしさの余り総毛立つ言葉が
多くの拍手を以て流通していると
「ひとり残らずぶっ殺してやりたい」
と思うことが
なかったら幸せものだね