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2013年8月27日火曜日

「知らないふり」

前投稿に早速コメントを貰っていますが、コメント欄に応答するのは苦手なので、ここに書きます。というか、すこし前、書いたのだけれど投稿を思いとどまった文があるので、それを掲げます。これはことさら特別なことを書いているわけではなく、読み返してみたら、まさに知識人ぶりたい人間の典型のような「はしたない」文章で、まあ返答になるのかどうかは別にして、あなたの刺激になったらいい、それは前投稿と同じく。

“知識人”をどこかに想定しそれを批判することで自らを意味あらしめようとするようなタイプ、それが知識人なのである。(柄谷行人「死語をめぐって」ーー「フローベールの『紋切型辞典』をめぐって」より)

…………

未だに「福島のコメは…」とか言っている人は,昨年1000万袋以上の全量全袋検査で,100Bq/kg超が71袋しか出なかった(それらは廃棄)事実も,その意味も,その理由も,その背後にあった努力も知らない(ないしは知らないふりをしている)hayano 2013-08-22

早野龍五氏のツイートであり、おそらくこのように語った文脈というものがあるのだろうが(たぶん早野批判者へのあてつけ)、これだけ取り出してみると、いかにも「ナイーヴな」科学者らしい発言に見えてしまう。ひとはそれを知っていても怖れるという心理を早野氏は「知らないふりをしている」。

検査はあるとき、あるいはある範囲で完璧であったにしても、「想定外」の出来事が起らぬとはどうしていえよう。

想定外? 金輪際ふたたび聞きたくない言葉だ、ーー《彼らには「想定外」がものすごく多い。こうした「無知」で「無恥」な専門家たちの指示で動いてパニックになれば、分からないことだらけになって当然。私は「科学というのは罪科(つみとが)の学だ」と言っている。このような「科学(とががく)」はものごとをけっして全体で見ようとせず、専門領域の中で部分的真理ばかりを探究する。そして深刻な事故が起こると枝葉末節の議論に終始し、情報を隠蔽する。》(槌田 劭「原発と「科学」」)


ひとはいつまでも完璧ではありえない。それをひとびとはこの二年半いやというほど知らされたのではないか。わたくしならたとえば幼い子供やら孫がいたら、福島、あるいはその近県の食べ物を与えるのを極力避ける。それが人情というものだ。いや子供だけではない。たとえば福島産と関西産の農産物が二種類並んでいたら、よほどのことがないかぎり後者を選ぶのではないか。もっとも、わたくしは海外住まいなので、日本に住む人の実感と懸け離れているのかもしれないが。

最近東南アジアの一国であるわたくしの住む国で、日本からのサンマなどの魚が突然大量に輸入されている。しかも安価であり助かるには助かるのだが、一年ほど前からの流通でありその唐突の大量出現には時期的にいささかの懸念を持たざるをえず、たいして心配性でないつもりのわたくしでも、子供たちに与えるのは、ほどほどにしておこうと思ってしまう。そもそも、ひとはほとんどの場合、その「真価」ではなく、記号=レッテルによって消費活動をおこなう。

もっとも、かつて次のような記事を読んだ影響もある→「タイの日本向け輸出缶詰は、日本産が95%


早野:笑えないですよね。だって、知事が県内産の食材安全ですと言って、どうして県庁の食堂は県外産の食材使うのか。だから依然として地元食材を使った定食を長期間測るプロジェクトというのが頓挫しています。でも、僕は、まだ諦めていません。どこかでできないかと思っています。(早野氏 ロングインタヴュー

一年ほどまえの話であって、いまはどうなっているのか分らないが、「笑って」はならない。それが人情というものだ。


早野氏の一時期の孤軍奮闘のごとき活躍を知らぬわけではない。とくに内部被曝のデータ集めの努力(「給食をはかろうよ」)には敬意を表さざるをえない。

《ここはチェルノブイリではない、福島のデータをしっかり見よう》(2012.5.27)、とのツイート、あるいはデータの提示、《福島の実測データ見ましょう.その上で心配するのは自由.》などにも粛然とした。

だが早々とした「誠実で真摯な」公衆啓蒙の発言は、政治的に事故の過小評価に利用されたしまったのではないかという疑念は残る。

政治的な関与は最小限にとどめると自ら宣言し自他ともそう認めつつも、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人物はいたるところに存在する。科学者だけではない、学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割に無自覚な連中のすまし顔を誰もがいやというほど目にしてきている。

早野氏のいくつかの発話は、《近隣の危険区域の住民には十分な補償を払って安全な地区に集団移転してもらうほかない、と思うな。》(浅田彰)であったはずのことを最小限に抑え、「コスト社会的損失のバランス」などと語る霞ヶ関の官僚たちにていよく利用されがちな無防備なものであり、冒頭の不用意なツイートもそれと同じ穴の狢である。

すこしまえ巷間を賑わした「早野論文」をめぐって、あるいはベラルーシ中央科学研究所所長のバンダジェフスキー博士との対話について、軽率になんらかの判定を下すつもりは毛頭ないが、「福島県内の土壌の汚染から危惧されていた内部被ばくのレベルよりも、住民の実際の内部被ばくの水準はかけ離れて低く、健康に影響がでる値では到底ない」やら「これらの結果から何がわかるのか。放射性物質に汚染されている食品を定常的に摂取し続けていないと内部被ばくの数値が上がることはない。原発事故後、土壌の放射性物質汚染の高い地域で流通している食物は、ほとんど汚染が無かったということが、改めて実証されたということだ」やらの発言は、狭い専門家集団のパラダイムからのみのものであり、やはり一般市民がミスリーディングされてしまう危険性がある。

たとえば参照資料2にある別の立場からは、「常識」に反する。

WBC検査自体が、内部被ばくの「実態」を正確に評価するに耐えるものではなく、もちろん「安全」を担保し得るものでもないことは、内部被ばくの研究者の間では「常識」です。

また、早野教授は「健康に影響がでる値では到底ない」などと断言してしまっておられますが、被ばくによる健康影響に「安全閾値」など存在しないことは、放射線防護における国際的コンセンサスであり、これも「常識」です。


※参照資料:
1、早野龍五教授が「餅は餅屋」から放射能リスコミ・被曝賠償問題ロビー活動を行うまで
2、”医療ガバナンス学会MRIC”に投稿するも、即刻不受理となった『「早野氏論文」への公開質問状』


口はばったいことを印象論で言いたくはないが、素人目には、早野氏には、「専門家」としての弱さがある。総合知の人ではない(そもそも「総合知」とは曖昧な言葉だが、ここではカントの分析的判断、反省的判断、総合判断の最後のものとだけしておく。早野氏は分析的判断の人だろう)。評判の高い『なめらかな社会とその敵』の著者鈴木健は、事故後比較的早い時期に次のようなツイートをしている、

要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人〜数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。

その「専門家」の発言を素直に聞いてしまうマスコミや一般公衆が悪いという言い方もできる。

もちろん「専門家」のかけがえのなさを貶すつもりは毛頭ない。

プロフェッショナルは絶対に必要だし、誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

だがわれわれは大衆文化のなかに生きている。そして早野龍五氏は「証人」としてのポジションを事故後わずかの期間で獲得してしまっている(それがここのところいくらか揺らいではいるとはいえるのだろうが)。そしてその「証人」の発言は、総合知の人の発言と錯覚されやすい。

ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

科学者は、「相手が予想外の動きをしては困る」のであり、かつ「人間的現象のうち非合理的と判断したことには意味を与えることができない」。科学的であろうとする努力が「想定外」や「偶然」を現実から遠ざけてしまう。


《科学は向かい合うものを徹底的に対象化する。そしてほどんどつねに成り立つ「再現性のある」定式の集合である。対象化と再現性は表裏一体である。すなわち、「相手」が予想外に動きをしては困るのである。》(中井久夫(「医学・精神医学・精神療法は科学か」『徴候・記憶・外傷』所収)


「専門家たちは、自分たちが何をしているのか、考えていない。それが最大の危険なのだ。」

「私があえて示唆するとすれば、専門家による評価を望ましい方向に改革するためには、専門家を志望する者には皆、しっかりした哲学の基礎的訓練を受けることを義務づける必要があるのではないかということだ。」

「科学は中立であるどころではない。科学は、それ自体のうちに、一つの意図を持っている。科学は一つの形而上学を現実に完成させたものだ。」

「テクノクラシーはこのような保障(原子力の安全性)を与えることに関しては、無能である。その理由は本質的なもので、状況によるものではない。それは、テクノクラシーは、さまざまな人間的現象のうち非合理的と判断したことには意味を与えることができないということなのだ。」

「とりわけ、専門家の狭い意味での合理主義的では、人間が、人類に対し、最大限の悪をなすために自殺することもできるなど予想だにできないのだ。」(デュピュイ「テクノ・セントリズムの終焉」)

もっとも、これはいわゆる「理系」に属する専門家の哲学的、あるいは倫理的素養の不足批判ばかりではなく、いわゆる「人文系」の自らの専門以外はプレモダン的とでもいうべき発言を繰り返す人たちの顔貌をも想い起こさなければならない。


中井久夫はかつて、《韓国と日本では知識人の基準が少し違う。日本では何らかの専門家であることが必要である。しかし、それでまあ十分である。韓国では、専門の力量に加えて高度の一般教養がなくてはならない》(「Y夫人のこと」)と書いているが、これが現在の実態であるかどうかは知るところではないが、日本では、ある分野での優秀な専門家であれば、傾聴に値する「知識人」として扱われてしまうという印象は依然として強い。

もちろん、彼らも教養人として「哲学的素養」を身につけているつもりではあるのだろう。だが、《アルチュセールがおもしろいことをいっている。科学者は最悪の哲学を選びがちである、と(笑)。 細かい実験をやってて、そこではすごくハードな事実に触れているのに、それを大きなヴィジョンとして語り出すと、 突然すごく恥ずかしい観念論になっちゃうことがあるわけ。それこそアニミズムとかね。》(浅田彰ーー村上龍との対談)

《繰り返すが、ヴィリリオを引くまでもなく科学技術の問題はきわめて重要だし、「あくまで現実的に何が可能かを見極めようとする工学的な思考」はとことん徹底されなければならない。しかし、それがすべてだ、それ以外のいわゆる哲学的(あるいはもっと広く人文学的)な思惟などと いうのはノンセンスな夢想に過ぎない、という実証主義的批判は、それ自体、大昔から繰り返されてきた紋切型に過ぎず、受け入れることができない。必要なのは、すべてを工学的思考に還元することではなく、人文学的なものを工学的に思考すると同時に工学的なものを人文学的に思考することなのだ。私は「事故の博物館」の頃から(いや、もっと以前から)現在にいたるまで、そのような立場を一貫して維持してきたつもりである。そして、それが最初に示唆するのは、地球 環境問題が、もとより主観的な良心の問題(「やるだけやったし、まいっか」)ではないと同時に、客観的な工学の問題に尽きるものでもなく(現在をはるかに 凌ぐ計算力をもったシミュレータが出現しても、最終的にすべてを明確な因果関係によって把握することはできないだろうが、問題は、むしろ、そうした不完全 情報の下でいかに判断するかということなのだ)、文明のあり方そのものにかかわる思想的・政治的・社会的な問題だということなのである。》(浅田彰


…………

附記:中井久夫「危機と事故の管理」より(『精神科医がものを書くとき』所収 広英社)より


【注意のむら、あるいは次の事故への無防備】
事故が続けて起こるのはどういうことかについては、飛行機の場合はずいぶん研究されてるようで、私はその全部を知ってるわけではありませんが、まずこういうことがあるそうです。

一つの事故が起こると、その組織全体が異常な緊張状態に置かれます。異常な緊張状態に置かれるとその成員が絶対にミスをしまいと、覚醒度を上げていくわけです。覚醒度が通常以上に上がると、よく注意している状態を通り過ぎてしまって、あることには非常に注意を向けているけれど、隣にはポカッと大きな穴が開くというふうになりがちです。

注意には大きく分けて二つの種類があって、集中型(concentrated)の注意と、全方向型(scanning)の注意があるわけですけれども、注意を高めろと周りから圧力がかかりますと、あるいは本人の内部でもそうしようと思いますと、集中型の注意でもって360度すべてを走査しようとしますが、そういうことは不可能でありますし、集中型の注意というのは、焦点が当たっているところ以外には手抜きのあるものですから、注意のむらが起こるということです。

注意の性質からこういうことがいえます。最初の事故の後、一般的な不安というものを背景にして覚醒度が上がります。また不安はものの考え方を硬直的にします。ですから各人が自分の守備範囲だけは守ろうとして、柔軟な、お互いに重なりあうような注意をしなくなります。各人が孤立してゆくわけです。

また、最初の事故の原因とされるものが、事故の直後にできあがります。一種の「世論」としてです。人間というのは原因がはっきりしないものについては非常に不安になります。だから明確な原因がいわば神話のように作られる。例えば今ここで、大きな爆発音がしますと、みんなたぶん総立ちになってどこだということと、何が起こったんだということを必死に言い合うと思います。そして誰か外から落ち着いた声で、「いや、今、ひとつドラム缶が爆発したんだけれど、誰も死にませんでした」というと、この場の緊張はすっとほぐれて私はまた話を続けていくと思います。たとえその原因なるものが見当違いであっても暫くは通用するんですね。そして、原因だとされたものだけに注意が集中して、他のものへは注意が行かなくなります。

以上のように、それぞれ絡み合って全体として次の事故を起こりにくくするような働きが全然なくなる結果、次の事故に対して無防備になるのでしょう。


【士気の萎縮】
demoralization――士気の萎縮――というのは経験した人間でないとわからないような急変です。これを何に例えたらいいでしょうか? そうですね、こどもが石合戦をしているとします。負けてるほうも及ばずながらしきりに石を放っているんですが、ある程度以上負けますと急に頭を抱えて座り込んで相手のなすがままに身を委ねてしまう。これが士気の崩壊だろうとおもいます。つまり気持ちが萎縮して次に何が起こるかわからないという不吉な予感のもとで、身動きできなくなってくるということですね。

もっとも現在は、「注意力のむら」とか「士気の萎縮」とは別の次元のことが起っているのだろう「福島第1原発の汚染水封じ込め、メルトダウン以来最大の試練」)。短期的視野のあからさまな弊害と圧倒的な戦力不足よる後手後手にいまさらながら驚愕せざるをえない。

※参照:「何を今更言ってるんだろう

…………

附記:【報告】ジャン=ピエール・デュピュイ「悪意なき殺人者と憎悪なき被害者の住む楽園」

「科学的評価」のみの罠(倫理的、法律的といった他の規範から切り離された形での「客観的真実」を求める態度)により、チェルノブイリ・フォーラムの報告には、きわめて特殊な<死体の山の隠蔽>がされている。
重要な効果をもたらす可能性がきわめて低い行為や出来事というものが存在します。それらがほとんど無意味だという理由で、道徳的または理性的な計算がそれらを存在しないものと扱ってよいのでしょうか。ほとんど知覚不可能な効果しかもたらさない一方で、おおぜいの人々に関わってくる行為や出来事があります。効果が知覚できないということで、考慮に入れるのを断念すべきでしょうか。これらの問いに肯定的に答えると、すぐさま連鎖式のパラドクスの数ある形のひとつに打ちあたることになるでしょう。
原子力関連の国際機関に対してどのような批判ができるでしょうか。私は、そこで働くのは有能かつ誠実な人々だと賭けてもいいと思います。(……)

われわれを統治す人々の〈意図〉など重要ではありません。重要なのは状況です。倫理的な問いを別の領域に追いやり、最終的には二次的な領域に追いやるという精神です。核を扱う人々の悪意ではなく、この構造こそ悪=厄災の主要な源にほかならないのです。

…………

くりかえせば、早野氏の「誠実さ」や「真摯さ」、「有能さ」、あるいはその啓蒙的役割は、まれにみるものであり、敬意を表する。


大学本部から「早野黙れ」と言われたが
今まで、あまり喋ったことのない秘密を少し話しますと、やはり私たちは組織に属している人間なので、喋っていいことといけないことがあるかということで、東京大学が次画像のような通知を出しました。要するに「大学本部が仕切るので、個々の教員は勝手なことを言うな」という通知です。私は直接、大学本部から「早野黙れ」と言われました。そこで理学部長などとも少し相談して、黙らないことにしました。

原発について勉強しない大学院生たち
講演後に行われたトークセッションや質疑応答を終えた後、早野氏は「印象的だった」という1つのエピソードについて語った。

 それは今年夏、全国から素粒子や原子核といった理学分野の大学院生たちが集まるサマースクールに、レクチャーに行った時のこと。レクチャーの前に「原発はどうやって止めるか」「ゲルマニウム半導体検出器とNaI検出器とガイガーカウンターは何が違うのか」というテストをしたところ、惨憺(さんたん)たる結果だったという。

 「震災から4~5カ月経ったのに、友達や家族と会話したことはないのか。『あんた物理やっているんだってね。これどういうこと?』と必ず聞かれたんじゃないか。聞かれてその時答えられなかったら恥ずかしいと思って、勉強しなかったのか」と愕然としたという早野氏。「今後若い人を育てていくに際して、かなり心してやっていかないといけない」と締めくくった。