いやまだたまには見ているよ
あんたたちのツイートの話だ
あんたたちといってもあんたたちがこのブログをまだ読んでいるのかどうかはしらないがね
つまりイマジネールな「あんたたち」だ
人間観察にはいいからねえ、ツイッターってのは
二一世紀のヴァーチャル「人間園」ってとこさ
オレはあんたたちのツイートのあとに「~と云うアタシを見て!」とつけ加えて読んでいるぜ
どれもこれももピッタリくる
いや参考になる、もって他山の石とする
它山之石 可以攻玉
いやいや買いかぶりすぎかもしれない
あんたたちのなかの何人かのあんたはたんなる文芸愛好家の
《インテレクチュアルなところはとくに感じられない、ごく平凡なあかるい性格の女性》(須賀敦子『ユルスナールの靴』)かもな
あんたたちのツイートの話だ
あんたたちといってもあんたたちがこのブログをまだ読んでいるのかどうかはしらないがね
つまりイマジネールな「あんたたち」だ
人間観察にはいいからねえ、ツイッターってのは
一九世紀の動物園設立に先立って精神病院の見物が一八世紀都市住民の日曜日の楽しみであった(“人間園”)としても、これにも一つだけよい点、すなわち精神医療を公衆の目にさらすところがあり、精神病院をめぐる忌まわしい事件、とくに遺産横領のために相続人を病院に入れる事件は、むしろ一九世紀の特徴である。(中井久夫『分裂病と人類』)
二一世紀のヴァーチャル「人間園」ってとこさ
オレはあんたたちのツイートのあとに「~と云うアタシを見て!」とつけ加えて読んでいるぜ
どれもこれももピッタリくる
いや参考になる、もって他山の石とする
它山之石 可以攻玉
いやいや買いかぶりすぎかもしれない
あんたたちのなかの何人かのあんたはたんなる文芸愛好家の
《インテレクチュアルなところはとくに感じられない、ごく平凡なあかるい性格の女性》(須賀敦子『ユルスナールの靴』)かもな
一度でもいいから、「~と云うアタシを見て!」をつけてもピッタリこない発語ができるかい?
文体とかエクリチュールとかがたがた云っていないで、まずはそこからだな
人はけっして他人のために書くのではないこと、何を書こうとも、そのことでいとしい人に自分を愛させることにはならぬのだということ、エクリチュールはなにひとつ補償せず、昇華もせぬこと、エクリチュールはまさしくあなたのいないところにあるのだということ、そうしたことを知ることこそが、エクリチュールのはじまりなのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「書く」)
エクリチュールは英語にしたらWRITINGなのだから
まあ書くことはすべてそうだっていうひともいるけどね
アタシを振り向いてのメタメッセージしかない発話さえもそうだっていい
湿った瞳を交わしあうのが好きなタイプなのだろうからお説教をするつもりはない
わかるだろ?
だいたいまともな詩人やら作家はそれしか云ってないぜ
まあ書くことはすべてそうだっていうひともいるけどね
アタシを振り向いてのメタメッセージしかない発話さえもそうだっていい
湿った瞳を交わしあうのが好きなタイプなのだろうからお説教をするつもりはない
わかるだろ?
だいたいまともな詩人やら作家はそれしか云ってないぜ
詩は言葉が現われるひとつの姿なのですから、また、したがってその本質からして対話的なものなのですから、詩はひとつの投壜通信であるのかもしれません。どこかに、どこかの岸に、ひょっとすれば心の岸に打ち寄せられるかもしれないという信念――必ずしもいつも確かな希望をもってではありませんが――のもとに、波に委ねられる投壜通信です。詩は、このようなあり方においてもまた、途上にあるのです。つまり詩は何かにむかって進んでいるのです。何にむかっているのでしょう。開かれている何か、占有しうる何か、ひょっとすれば語りかける『あなた』。語りかけうる現実にむかってです。(パウル・ツェラン)
ひとりごとを云えってわけじゃないんだな
ひとりごとなんて嘘っぱちに決ってる
《ツイッターの中にはひとりごと設定でしゃべる人と、呼びかけ設定でしゃべる人がいる。ごくたまに演説の人もいる。個人的には、すべての語尾に(ぼそっ)をつけた気持ちでツイートしたいと思っている(机ドン)》
小田嶋隆氏のツイートだがね
一見とても機知あふれる短文だ
呼びかけ設定や演説口調のツイートは「うるさいぜ」と読める
「ひとりごと」といわず「ひとりごと設定」としているわけで
なかなかつけいる隙をあたえない
好意的にとれば、ひとりごとの「ふり」ってことだよな
そもそもひとりごとってのは場合によってはこんなだからな
《彼は自分のことを語り、自分のことを繰りかえし、自分を押しつけ、強迫的な独白のように際限もないディスクールのなかに、あたかも閉じこめられているかのようである。》(ロラン・バルト)
小田嶋隆氏のツイートだがね
一見とても機知あふれる短文だ
呼びかけ設定や演説口調のツイートは「うるさいぜ」と読める
「ひとりごと」といわず「ひとりごと設定」としているわけで
なかなかつけいる隙をあたえない
好意的にとれば、ひとりごとの「ふり」ってことだよな
そもそもひとりごとってのは場合によってはこんなだからな
《彼は自分のことを語り、自分のことを繰りかえし、自分を押しつけ、強迫的な独白のように際限もないディスクールのなかに、あたかも閉じこめられているかのようである。》(ロラン・バルト)
書くってのはなんかへの呼びかけさ
ただ肝心なのは小文字の他者への呼びかけか
大文字の他者への呼びかけかってとこだな
競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ「私」の同類たち
その他者とは結局「自意識」なわけでね
ツェランのいう投壜通信ってのは「大文字の他者」に向けてってことさ
ーー「あんたのお母さん! 私の希望の処女! あんたの胸の二つのレモン!」
「女」へのピロポが究極の「大文字の他者」への呼びかけさ
《未知の女に声を掛け、ひとつのメッセージ、機知、彼女の魅力をたたえる短い詩を送ること》
《男、ピロペアドールは相手の女を引き止めることは求めないし、奇妙なことに、同時にそれは根本的に無欲なもの》
ピロペアドールとは、未知の女が自分の前を通り過ぎていくのを常に眺めている、そして自分の存在を認めてくれる一瞬の間、女を引き止めておこうとする不幸な男、それは女la femmeの裡に体現されている他者Aに聞き入られることを放棄しない男です。(ジャック=アラン・ミレール)
女はだれに呼びかけるだって?
女だって存在しない「大文字の女」へさ
どんな女性であっても、女性によって体現されているものは(……)言語のコードの場である大文字の他Aなのです。ピロポが典型的な状況だと思われたのは、大文字の他Aの構造的な機能が常に他Autreの性を表わしてきた女性によって支えられているからです。他の性といっても、けっして、それが男性に対して他の性である、といえるような意味ではありません。両性は互いに他のもので、それぞれがもうひとつの相手としますが、もっとも深い意味で女性といわれる性が根源的に他者(Autre)なのです。そしてその神秘はずっと男達、分析家も含む、を惹きつけてきました。そして最初の男性の分析家であったフロイトは、一人の女が何を欲するか、という神秘は彼自身も明らかにすることができなかった、と述べていました。そこには精神分析の壁ともいえるものがあるのです。(同ミレール)
まあだからほとんどどの女もナルシシズムにみえるってことはあるがね
……ヴァージニア・ウルフはこうも書いているーー「彼女は自分がとても若いと感じると同時に、信じられないほど年をとっているとも感じていた。」敏捷であると同時に、緩慢で、すでに目の前にいたかと思えばまだそこに来ていないといった具合で、「彼女は剃刀の刃のようにあらゆるものに分け入っていった。それと同時に、彼女は外に身を置いて眺めていた。(……)生きるということは、たとえ一日だけだとしても、とても危険なことなのだーー彼女は常日頃からそう思っていた。」<此性>、霧、そしてまばゆい光。<此性>には始まりも終わりもないし、起源も目的もない。<此性>は常に<ただなか>にあるのだ。<此性>は点ではなく、線のみで成り立つ。<此性>はリゾームなのである。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)
さて此性ってなんだったか
まあこのへんはわかんねえなあ
クモになったら出会えるものじゃないかねえ
ヴェイユでもデュラスでもそういってるんじゃないかい?
オレはよくは知らないけど
人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。
かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。
自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。
(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)
ヴァレリーの「他者」はあきらかに「大文字の他者」だ
標準的な解釈ではこの「他者」は「言語」だけれど
言語は大文字の他者だ
ブランショの呼びかけだってこの流れのなかにある
自己が他者を認知し他者のうちにおのれを認知するということに満足するのではなく、自己が他者によって疑問に付されていると感じ、限定されえず涸れることなくおのれを超えてあふれ出る責任によってしか、それに答えることが出来ないというほどまでに疑問に付されていると感じるような、そうしたある先行する関係がはっきりと宣明されうるのでなかったら、倫理の可能性はありえない。(モーリス・ブランショ「恋人たちの共同体」)
最近、次のようなツイートを読んだな、ユンガー研究者のつぶやきだがね
《ヴィシー政権の独語通訳の仕事をしていたらしい元極右のブランショは、ヴィシー政権というフランスの現実を問わず、当初は「脱走兵」「米英の傀儡」のドゴールの方へ逃げた。それが、戦後のブランショの、あの肖像不明性のルーツとすれば、戦後フランスの思想や文学の正体も分かろうというものだ。》
デリダはハイデガーも、ポール・ド・マンも、そしてブランショもかばうんだよな、
政治的な、つまりナチにかかわる攻撃から擁護するんだよ
ブランショの「「死ぬために書く」ってのはなんだろうね
なんかがトラウマになってんじゃないか
疲労は、不幸のうちでもっともつつましいもので、中性的なものの中でもっとも中性的なものだ。それは、選択することが許されるなら、誰もが虚栄心から選択することのなかろう体験である。(……)疲労とは、所有的な状態ではなく、問題視することなく吸収する状態にほかならぬ。(ブランショーー蓮實重彦「バルトとフィクション」より)
まあこれも蜘蛛っぽいがね
私はしばしば他者たちの疲労を知らぬ性格に驚かされる(唖然とするしかない)。(……)エネルギー ――とりわけ言語的なエネルギー ――は、私を唖然とさせる。それは、私には、狂気の徴候としか思えない。他者とは、疲れを知らぬ存在なのだ。(晩年のバルトの日記より『偶景』所収)。
ーーあだしごとはさておき
日記がひとりごとってのも大嘘さ
すくなくとも公開される日記がひとりごとのわけがない
日記も、読まれることを予想して書かれることがしばしばある。永井荷風の『断腸亭日乗』やジッドの『日記』は明らかにそうであろう。精神医学史家エランベルジェは、日記を熱心に書きつづける人には独立した「日記人格」が生まれてくると言っている。日記をつける人も読む人も、このことは念頭に置くほうがよいだろう。(中井久夫「伝記の読み方、愉しみ方」『日時計の影』所収)
ブログ人格やSNS人格ってのはあるんだろうな
で、いまこうやって書いて
ここのところのブログ人格を壊してるってわけさ
たまには「小文字の他者」にむけて書いたっていいだろ
お前さん、かっこつけてなんかいってたな
「再出発」だと?
笑わしちゃあいけない
まず大嘘を拭いされよ
根っからの猫っかぶりめ!
アタシがツイッターやめたら真実がわからなくなる! とか云ってたじゃないか
とんでもないやつだぜ
真実はアタシは大嘘つきってことだろ?
いずれにせよ、その齢でいまだ「青春」まっただなかなって感じだぜ
そのオクターヴの高さ
……中村武羅夫氏は青春という時期の陰湿さを大そう強調している。一方、私に質問した学生は、その時期の明るさを大そう強調している。そして、その強調の仕方がいずれも一オクターヴ高い感じがする。
この一オクターブ高いという感じが、いつも青春というものにつきまとう。そして、陰湿さも明るさも、いずれも楯の両面のような気がする。(吉行淳之介「鬱の一年」
あんたたちのだけでなく、自分の文にだって反吐ばっかりさ
オレに跳ね返ってこないことは書いても致し方ない
死ぬ前までには微調整ぐらいしたくてね
君は死にかけていてぼくはぴんぴんしている
ぴんぴんしているだけでぼくは君に対して残酷だが
もし君が死んで墓に入ってしまえば
今度は残酷なのは君のほうだ
君はもう利口ぶった他人に吐き気をもよおすこともないし
利口ぶった自分に愛想をつかすこともない
君の時間はゆったりと渦巻き
もうどこへも君を追い立てたりはしない(谷川俊太郎「コーダ」より『モーツァルトを聴く人』
なぜ書くかって? 毎日のように
言い訳は用意してるさ
……私が何も書かなかったら、どうなっていたであろうか。振り返ってみれば、あまりよいことになっていないのではないか。ひょっとすると独善的になるか、あるいは無内容になっていたと思う。
トーマス・マンは、「もし自分が書かなかったら限りなく憂鬱になっていただろう」と言っているが、重い鬱病になっていたかもしれない。独善的あるいは無内容になる前にまず憂鬱になっていただろう。それは、臨床経験が日々供給する無数の観念や命題の萌芽的状態が乱れ飛ぶ状態に頭を長い間置いておくことだからである。
これは結構苦しいものだ。書くことは明確化であり、単純化であり、「減圧」である。何よりも、書くことに耐えない多くの観念が消え去る。あるものは、その他愛なさによって、あるものは不整合によって、あるものは羞恥によって却下される。(中井久夫『精神科医がものを書くとき』)
まあオレの場合は、これは半ば嘘だがね
ほとんど引用が多いわけで、メモなら別に公表しなくてもいいわけだ
本を読んでて同じようなことを誰かが書いてたな、と探して時間を失うことは少なくなった、そんな便利のため、ーーなんてのも嘘っぽいわけだ
単なる個人的なメモと、象徴界に登録した、つまり公表したメモってのは、後者の方が格段に覚えているってのはあるがね
まあこれもていのいい言い訳さ
己れにウンザリし過ぎたら急にやめるかもな
この文だって自分に愛想つかすために書いてるかもな
まあでもそんなことはどうでもよろしい
《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》(ニーチェ『この人を見よ』)
まあ魂も時にはオナラをするさ
でも美しい魂ってのはオナラばっかりだな
…………
My Favorite Things 谷川俊太郎
raindrops
on roses and whiskers on kittens
bright
copper kettles and warm woolen mittens
brown
paper packages tied up with strings
these are
a few of my favorite things……
Oscar Hammerstein 2nd
どんなに好きなものも
手に入ると
手に入ったというそのことで
ほんの少しうんざりするな
どんなに好きなものも
手に入らないと
手に入らないというそのことで
ほんの少しきらいになるんだよ
バラの上の雨のしずくに
仔猫のひげ
みがきあげた胴のヤカンに
あったかなウールの手袋か
かわいそうなオスカー
脚韻てのは踏んずけると
ずいぶんひどい音がするね
まあ魂も時にはオナラをするさ
コップに水が一杯欲しいんだ
のどがかわいているから
半杯じゃ少なすぎるし百杯じゃ溺死する
水は好きだよ