「下顎呼吸がはじまったな」と看護人が云った。
母は口をひらいたままーーというより、その下顎が喉にくっつきそうになりながらーー喉の全体でかろうじて呼吸をつづけている。「これがはじまると、もういかんですねえ」と、看護人は父をかえりみた。
父は無言でうなずいた。そして信太郎に、「Y村に電話するか」と云った。
すると信太郎は突然のように全身に疲労を感じた。と同時に、眼の前の二人に、あるイラ立たしさを覚えて云った。
「べつに、また死ぬときまったわけじゃないでしょう。それに電話したって、伯母さんは来れるかどうか、わからんですよ」
二人は顔を見合わせた。やがて父は断乎とした口調で云った。「Y村へは報せてやらにゃいかんよ。報せるだけでも……」
たしかに、自分の云ったことは馬鹿げたことだ、と信太郎はおもった。しかし確実にせまってきた母の死を前にして、儀礼的なことが真先にとり上げられるということが、なにか耐えがたい気持だった。
(……)
すべては一瞬の出来事のようだった。
医者が出て行くと、信太郎は壁に背をもたせ掛けた体の中から、或る重いものが抜け出して行くの感じ、背後の壁と“自分”との間にあった体重が消え失せたような気がした。そのまま体がふわりと浮き上がりそうで、しばらくは身動きできなかった。
看護人が母の口をしめ、まぶたを閉ざしてやっているのに気づいたのは、なおしばらくたってからのことのようだ。看護人の白い指の甲に黒い毛が生えているのがすこし不気味だったが、彼の手をはなれた母を眺めるうちに、ある感動がやってきた。さっきまで、あんなに変型していた彼女の顔に苦痛の色がまったくなく、眉のひらいた丸顔の、十年もむかしの顔にもどっているように想われる。……そのときだった、信太郎は、ひどく奇妙な物音が、さっきから部屋の中に聞こえているのに気づいた。肉感的な、それでいて不断きいたことのなお音だ。それが伯母の嗚咽の声だとわかったとき、彼は一層おどろいた。人が死んだときには泣くものだという習慣的な事例を憶い出すのに、思いがけなく手間どった。なぜだろう、常人も泣くということを彼は何となく忘れていた。その間も絶えず泣き声がきこえてきて、その声はまた何故ともなく彼を脅かし、セキ立てられているような気がした。ついに彼は泣かれるということが不愉快になってきた。それといっしょに、泣き声をたてている伯母のことまでが腹立たしくなった。あなたはなぜ、泣くのか、泣けばあなたは優しい心根の、あたたかい人間になることが出来るのか。(安岡章太郎『海辺の光景』)
ーーこの箇所を読むと、いつも思い出す、わたくしの母の通夜、義理の伯母が涙目で母に死に化粧をしようとした手を振り払ってしまったことを(まだわたくしは若かった、二十代の前半だった)。儀礼としての通夜や葬式に苛立っていたわけだ。あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりする連中に。
ーーと文脈とは異質の映像を挿入したが、異質ついでに、蓮實重彦の文をも挿入しておこう。
伊丹十三と蓮實重彦は、伊丹氏の手料理を食しながら、対談するほど仲が良かったらしい。伊丹氏にとって蓮實重彦はもっとも褒められたい批評家だった。それが、映画『お葬式』のあとは、絶縁状態となる。
『お葬式』はちっとも面白くない。
それで、試写室の出口に伊丹さんが来ていて「どうですか」って言うから、正直に「最低です」と言って別れました。たぶん、それが彼と言葉を交わした最後だと思う。その後も、彼の作品は全部見てますよ。けれど、ひとつとしていい場面の撮れない人だったと思う。キャメラが助けてないし、あんなにいいショットがない映画って珍しいと思います。
それから、どうも劇の構造が全部面白くない。
伊丹父子、万作と十三のふたりは、作品の質とは無縁に評価されている点で同じだと思います。伊丹万作って、今見られるものでは面白いものはひとつもない。
つい最近有名な、『国士無双』の断片を見たんですけど、全く駄目だった。なぜあんなに皆が面白いというのか理解できませんでした。まったく演出のできない、いいショットのひとつもない人だと思います。(蓮實重彦は『帰ってきた映画狂人』)
この評言の正否を問う力はわたくしにまったくはない(そもそも伊丹作品のなかでは『お葬式』にもっとも魅了された人間だった)。だが、「作品の質とは無縁に評価されている」ひとたちが、映画の世界だけでなく、われわれの周りには至るところにいるには違いない。たとえば、ヴァレリー・アファナシエフで次のように言う。
さして美しくも醜くもない一人の女性が―――リストの『ピアノソナタ ロ短調』のビデオクリップを製作する。(……)このカリスマ的女性ピアニストは、衣装を替えたり付けたりひげをつけたりパイプを吹かしたりして、ファウスト、メフィストフェレス、マルガレーテの三役を演じ分けてみせる。すると聴衆は言う。「何という個性、何という大胆さ、何という芸術家、何というピアニストなんだろう!」。ソナタの演奏がへたくそなことは言わずもがなだが、誰もそんなことは気にもしない。そもそも、ほとんど曲を聴いてはいないのだ。(『ピアニストのノート』)
小説や詩でも同じく。まずはわれわれの思い込みを揺るがしてくれる批評家の言葉は、ときに傾聴に値する。たとえば、ナボコフ。
ナボコフはチェーホフを高く評価し、彼が他のロシア作家に与えた評価としてはトルストイのAプラスに次ぐAをプーシキンとチェーホフに与えている。他の作家の評価は、ツルゲーネフがAマイナス、ゴーゴリがB、ドストエフスキイはCマイナス(かDプラス)で、「チェーホフよりもドストエフスキイが好きな者にはロシアの生活の本質は決して理解できないだろう」とウェレズリー大学の女子学生たちに話していた(Hannah Green, "Mister Nabokov," 37)。
いまの批評家でこのように語ることができる人がいるだろうか。守るべきなにものかがあれば、ひとは背中からでも撃たなければならない。《これはどうですか?青山さんはいつか瀕死の奴を背中から撃てます?映画の中でも、なんでも。》(「ゴダールとイーストウッドは背中から撃つ!」)
ーーたとえば若き中井久夫の痛烈な医学界批判だけでなく、己の破門をめぐる後年までの中井久夫の非妥協性を見よ(中井久夫と破門)。
なにも守るものがない人間は、曖昧模糊とした春のような気質の「日本人」をやって、折ある毎に互いに湿った瞳を交し合い、慰め合い頷き合い、あるいは「絆」「寄り添う」などといって誤魔化し合い、さらには「涙を流す」ふりをしていればよろしい(京城の深く青く凛として透明な空)。
そういう私によくわかったのは、かつて耳にした気がする彼女のマーテルリンクにたいする嘲笑のことで(もっとも、いまは彼女はマーテルリンクを讃美しているが、それは文学の流行に敏感な女性の精神的弱点によるもので、文学の流行の光というのは、おそくなってから射してくるのである)、そのことが私によくわかったのは、つぎのことが私にわかったのと軌を一にしていた、すなわり、メリメがボードレールを嘲笑し、スタンダールがバルザックを、ポール=ルイ・クーリエがヴィクトル・ユゴーを、メーヤックがマラルメを、それぞれ嘲笑していた、ということである。むろん私にわかっていたのは、嘲笑者は、自分が嘲笑している相手にくらべて、なるほどせまい考をもっているが、しかしより純粋な語彙をもっている、ということである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)
…………
母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。それはまだ否定的であるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう…(アルベール・カミュ『異邦人』 英語版自序)
社会を構成する事実は慣習である。慣習とは、どのような方法をもってしても、またどのように程度をかげんしても、他に方法がないゆえに個人が受け入れ逐行するところの人間的ふるまいの形態である。それらは共存から成り立っている周囲世界、すなわち「他の人たち」、「人びと」……そして社会によって押しつけられたものである。(オルテガ・イ・ガセト『個人と社会─人と人びと─』)
《耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』)
価値の平準化
ニーチェにも、バタイユにも、同じテーマがあります。「未練」のテーマです。現在のある形がおとしめられ、過去のある形が賛えられるのです。この現在も、この過去も、実をいえば、歴史的ではありません。両者とも、デカダンスという、両義的で形式的な運動によって読み取られます。こうして、反動的でない未練、進歩的な未練が生まれるのです。デカダンスとは、通常の共示〔コノタシオン〕とは逆ですが、凝りに凝った、過剰文化的な状態を意味しているのではなく、逆に、価値の平準化を意味しているのです。たとえば、悲劇の大量復活(マルクス)、ブルジョワ社会におけるお祭り的消費の隠密性(バタイユ)、ドイツ批判、ヨーロッパの病い、疲弊、最後の人、《あらゆるものを矮小化する》あぶらむしのテーマ(ニーチェ)。これに、ミシュレの一九世紀――彼の世紀――に対する、「退屈」の世紀に対する毒舌をつけ加えてもいいでしょう。皆、ブルジョワ的平準化がもたらす同じ嘔吐感を感じています。ブルジョワは価値を破壊しません。平準化するのです。小さくし、卑小なものの体制を確立します。(ロラン・バルト『テキストの出口』)