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2013年7月31日水曜日

中井久夫と破門

私がヴァレリーを開くのは、決って危機の時であった。

私が自由検討を維持するためにはかなりの努力を要する状況があった。ヴァレリーは、頭をまったく自由な状態に保つために役にたってくれた。主に彼の散文である。ヴァレリーは危機感受性とでもいうべきものがある。個人的危機の解決が政治的危機への対応を呼び醒ますのである。私の場合がそうであるかどうか、おのれでは定めがたいが、私には二十歳代は個人的にも家庭的にも職場的にも危機が重なってきた。私はそれらを正面から解決していったが、ついに、医学部の構造を批判的に書いた匿名の一文が露頭して私は“謝罪”を拒み、破門されて微生物の研究から精神科に移った。移った後はヴァレリー先生を呼び出す必要は地震まで生じていない。(中井久夫「ヴァレリーと私」2008.9.25(書き下ろし)『日時計の影』所収)

数度は読み返しているはずなのに、記憶からすっぽり抜け落ちていた。本来なら、「中井久夫と楡林達夫」をめぐってのメモをしたときに付け加えるべき文章だろう。


ーーと、ここまでメモして放ってあった。「破門」をめぐる文章がほかにはなかったか、とはことさら捜すつもりではなかったが、ベットサイドのテーブルには、中井久夫のエッセイ集が何冊か置いてある。翻訳ものやら英文やらを読んでいる合い間に、一息いれるつもりでパラパラめくって小さなエッセイをいくつか読むことがある。それはやわらかい日本語が懐かしくなるときだったりもするが、そもそもわたくしには中井久夫の文章の調子がひどくあう。

そうして昨晩また「破門」にめぐりあった。このエッセイだって、《眼を挙げて私は凍りついた。ややあって私はかすかにうなずいた。しかし、私の身体はそれ以上は動かなかった。》の箇所前後がとても気に入っていて、何度も読んでいるはずなのに、「破門」の言葉の存在は忘却していた。

「韓国人のよりも非妥協的な」ともあり、わたくしも三十歳前後、ひとに非妥協的な性格、--お前には、日本は向かないよ、などと呆れ返られた身でもあり、印象深いエッセイだったのだが。

Y夫人は「わが民族の欠点は妥協を知らないことだ」と何度も言われたそうだ。「韓国のゲーリー・クーパー」といわれたハンサムな新聞社長が訪問してきたり、夫人の大正時代からの親友、野党の総裁、故P女史が、国際電話で長話をしたり、あるいは娘さんはMIT卒の同国人の電子工学者と結婚して米国東部に住まっているなどともある。

「妥協の天才、日本人」と「非妥協的な韓国人」をめぐっては、次の文を引用しておこう。

私から見ると、韓国にあるような大胆な活動性が望ましいが、キム教授から見ると、むしろそのことが墓穴を掘る結果に終わることが多かった。韓国では激しい行動をしない者が非難されるが、それはなぜか、という新聞記者の問いに対して、教授は、つぎのように応えている。《知行合一という考え方が伝統的に強調されてきたからだと思う。知っているなら即刻行動に移さなければならないとされていた。行動が人生の全てを決定するわけではない。文明社会では行動とは別に、思考の伝統も必要だ》。日本と対照的に、韓国ではむしろ、もっと慎重に「空気」を読みながら行動すべきだということになるのかもしれない。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」



…………

さて、「破門」をめぐる箇所をすこし長く引用しよう。

『家族の肖像』のなかに、《昭和三十八年の秋から四十一年の同じく秋まで、私はある韓国のおばあさんの家に下宿していた》と始まる「Y夫人のこと」というエッセイがある。昭和九年生まれの中井久夫であるから、二十九歳から三十二歳までのこと。

夫人には話さずじまいだったが、当時の私は最悪の状態にあった。事実上母校を去って東京で流動研究員となっていて、身を寄せた先の研究所で自己批判を迫られていた。フッサールという哲学者の本を読んでいるところを見つかったのである。研究室主宰者は、「『プラウダ』がついに核酸の重要性を認めたよ」と喜びの涙を流しておられた、誠実で不遇のマルクス主義者だった。傘下の者が「ブルジョア哲学」にうつつを抜かすのを許せなかったのであろう。筆名で書いたものもバレて、そのこともお気に召さなかった。

しかし、私にはやはり理不尽に思えた。「かつて政党に加入したこともない者が政治的な場でもないここでなぜ自己批判か」と返して、押し問答になった。結局、私は「自己批判」を拒否した。(……)

破門は私が現状打開を図る機の熟さないうちに起こった。時あたかも、長男の義務を果たすこと乏しくて私の家は傾き、友の足は遠のき、また「知りしひと皆とつぎし」頃であった。

たまたま、指導者の電話を夫人のかたわらで受けた。電話機は、夫人との語らいの場の炬燵の傍にあった。「はい、ナカイさんへのお電話」と夫人が受話器を手渡してくれた。「オイ、あれは何だ、あれとはあれだ……自己批判せい」と聞き馴れた声色であった。夫人の傍でなければ、私は挫けていたかもしれない。兜を脱げば許してあげようという示唆があった。しかし、日本統治を拒否して上海に亡命した夫人、北占領下のソウルの地下室に一年潜伏した彼女が聞いているところで、どうして些細な理不尽に屈せられよう。

夫人の背の床の間には三・一事件の烈士の独立宣言の軸が掛けられていた。私はそれを見つめながら応酬を続け、ついに受話器をつと置いた。一時間にも、それ以上にも長く感じたが、実際はどうだったのであろう。いずれにせよ、ウイルス学との縁の終わりである。初冬の寒い夜であった。私を支えた背後の力を、今は亡き電話線の向こうのお方はつゆご存じなかったに違いない。

(……)

二十年後、かつて自己批判を迫ったその人と出会った。球団に名を残すある会社の会長の葬儀である。故人は草分け時代の日本ウイルス学の隠れた援助者であった。

初夏の京の真っ白な驟雨はしばしば、お宅のすぐ裏の天智天皇の陵墓を隠した。別のテントに氏の姿がみえた。氏も私を認めた。私はある大学の精神科の講座を担当しはじめたところであった。

どちらが動くかという、無言の勝負であった。人々がふたりがどう出るかを意識しているのが私にはわかった。かちかちと時計の音が聞こえてくるような時間が流れた。

ついにたまりかねてであろう、かつてその社から大学へと派遣されて研究員だった方が、雨脚のはねしぶく砂利道を走ってこられた。当時まずしい私に晩ご飯を何度もおこってくれた青年社員である。他にも私たちへのかずかずの侠気があって、それはこの人が後に重役にならずに社を去る遠因の一つとなったらしい。「……さんもこのごろ孤独でね、もういいではありませんか……」。「……さん」は旧帝大の教授を経て今その社の「かかりうど」であった。

旧師の孤独の個人的理由を私は実は知っていた。「私の中の精神科医」が咽喉をつまらせた。しかし「破門」された側が動くわけには行くまい。

ついに、氏は雨を冒してこられた。氏から私のテントに来られたのである。いつも昂然としておられた氏の背は曲がっていた。「きみのその後はよく聞いている。ウイルス学からの転向者ではいちばんの成功者だと誇りに思っているよ」――そう氏はいわれて、手を差し出された。

眼を挙げて私は凍りついた。ややあって私はかすかにうなずいた。しかし、私の身体はそれ以上は動かなかった。

ついに戻ってゆかれる氏の後ろ姿をみつつ、私は「韓国人よりも非妥協的な」わが身を呪った。夫人のいわれた非妥協性のことである。

実際は「成功者」という言葉が私を阻んだのであった。しかし、先生はひょっとすると「世俗の成功」などを指しておられなかったかもしれず、世俗的な意味にとったのは私の卑しさであったかもしれなかった。

いずれにせよ、火花の時は過ぎた。程なく氏の他界を新聞紙上に見た。

今の私には、そのころ貴重品だった、おべんとうのタラコをわけてくださった笑顔の氏が眼にみえる。氏は学会の“孤児”たちをよく丹念に拾って研究室につれてこられた。……(中井久夫「Y夫人のこと」『家族の深淵』所収)


これだけではない、かつての「楡林達夫」には、その痛烈な医学界批判の余燼のような次のような文章もある。

一般に、医学系出版社は、ボスだけを握っていれば、そちらからの原稿依頼で、皆かしこまって書くと思っているふしがある。ある編集会議に出た時のことを思い出す。編集委員が集まったところで、編集者が挨拶をして、では夕食を用意させたありますから召し上がって後はよろしきと言って退席し、編集者抜きで会議が始まった。私は失礼なと思ったが、これは編集者は口を挟みませんという、医学界ではしかあるべき態度と受け取られていた。こういうふうであるから、医学書は悪文に満ち、金ぴかの俗悪な装丁の本が多いのであろう。

ほんとうかどうか、医学界のボスには、誤字訂正をしても激怒するのがあるそうで、こういう手合いを相手にしていると、編集者もたまらないであろう。私も面白くないので、医学系出版界とは積極的に関係を持たない方針である。幸い精神医学だけの出版社が別個にある。これには、精神医学の本は専門家以外にも販路があるという事情もあるだろうが、著者-編集者関係の違いも大いに手伝ってのことだろう。(中井久夫「執筆過程の生理学」『家族の深淵』1995)


※附記:

《医師団という意味での医局の運営は、私の若い日の医学界批判に背かないように心掛けた。私は、それによって「破門」されて、精神医学に転じたのである。私のやり方で得るところのあった人も、そうでない人もあったかと思う。私の中には、人に強制するのを最小限にしたい強い意向があって、それは戦時下の国民学校生の窒息的な体験からであった。》(中井久夫「一精神科医の回顧」『時のしずく』2005 所収)

《一九六六年は、翌年が学園紛争の精神科版が始まる年である。私は当時、東大分院にいた。私は、東大精神科の闘争組から自主選出助手候補に選ばれたと知らされた。私は、東大本院の病棟に行って、あるリーダーと会った。私は「お手並み拝見」と言い、彼は私のペンネームを口にして、「それを越えてみせる」と言った。


私は精神科に来る前に、所属していた研究所の改革に参加しており、また、匿名で、当時の日本の医療批判の本を書いていた。彼はそれを知っていたわけである。もっとも、研究所の改革は、劇的な成功の後、まだ科学者として一人前とはいえない若手が、所長をはじめとする人事などを動かすようになっていた。私は、それに絶望し、また自己嫌悪を催して、東大の今は医科学研究所である当時の伝染病研究所に、学術振興会流動研究員として去ったわけである。》(同「一精神科医の回顧」)


追記:この「破門」の出来事からしばらく経っての、中井久夫の写真(三十六歳前後)がある。そこには後年のやわらかく穏やかさの印象を与えてくれる氏の顔貌とは異なり、慎ましくも信念に熱くもえる硬派の青年の姿がある。





勤務していた青木病院(東京都調布市)の慰安旅行の記念撮影で(左端)=1970年


…………

――匿名の出版はその頃ですか

 63年、楡林達夫というペンネームで社会学者と「日本の医者」という本を書きました。教授が人事を支配し、博士論文指導の謝礼を受け取る医学部の内情を批判したものです。うわさになり、兼務していた東大の研究所で上司から問いただされましたが、謝罪を拒み、破門されました。逃げ隠れするぐらいなら本は書きません。6年間在籍したウイルス研から、精神科の臨床医に転じました。