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2013年4月12日金曜日

柄付眼鏡





チェロを弾く若い女の姿
股を拡げて艶光りする
グラマラスな楽器を抱えこむ
トラウザーズなど履かないでほしい
ジャクリーヌ・デュ・プレのように
股をおっぴろげる必要はない
慎ましく
内股なのはかまわない
なまめかしい膝から足の線
その奥もかすかに
汗ばんではいないか
「あたし、Philippe Pierlotが好きなのです
ご存知ですか」
「ああ、少し、
バッハが好きだからね
Philippe Herrewegheと仲が良かったんじゃないか
レオンハルトととも」
「まあ、よくご存知のこと!」
心なしか若いチェリストの目が潤んでみえる
「今度、小さな演奏会をやりますから
是非きてください、おねがいします」
なんだ、商売のための媚態か
(今聴いたへたくそな演奏など聴きたくないよ)
だがにこやかな態度をたもって曖昧に頷く
今朝、電話がかかってくる
「このあいだは楽しかったです
この国は音楽後進国でせいぜいショパンやモーツアルトの話ばっかり
近いうちにもう一度お会いしたですわ」
これは脈があるのか
だが三十歳はなれた女だ
媚態=コケットリーとはなにか
それは相手に性的な関係がありうるとほのめかし
でもその可能性は確実なものとしてはあらわれない態度だ
まいったね
ああ、なんてまた不幸なんだ
磁石のように、ひそかに女にひきつけられるとは
そいつが過ぎさるのを待たなくては
衰弱するのを

女に惚れそうになると
チェーホフの『犬を連れた奥さん』を読み返してみるのがいい
「チェロを連れた乙女」
《女のことになるとまず極まって悪く言っていたし、自分のいる席で女の話が出ようものなら、こんなふうに評し去るのが常だった。――「低級な人種ですよ!」》

《…さんざん苦い経験を積まさせられたのだから、今じゃ女を何と呼ぼうといっこう差支えない気でいるのだったが、その実この『低級な人種』なしには、二日と生きて行けない始末だった。男同士の仲間だと、退屈で気づまりで、ろくろく口もきかずに冷淡に構えているが、いったん女の仲間にはいるが早いかのびのびと解放された感じで、話題の選択から仕草物腰に至るまで、実に心得たものであった。》
なんだって?
だがローネットは不在だ

……


チェーホフの『犬を連れた奥さん』――ウラジーミル・ナボコフは、これまでに書かれた短編小説の中でも最も素晴らしい物の1つであると言う。


ナボコフはチェーホフを高く評価し、彼が他のロシア作家に与えた評価としてはトルストイのAプラスに次ぐAをプーシキンとチェーホフに与えている。他の作家の評価は、ツルゲーネフがAマイナス、ゴーゴリがB、ドストエフスキイはCマイナス(かDプラス)で、「チェーホフよりもドストエフスキイが好きな者にはロシアの生活の本質は決して理解できないだろう」とウェレズリー大学の女子学生たちに話していた(Hannah Green, "Mister Nabokov," 37)。

ナボコフにとっては、ドストエフスキーだけでなく、リルケもトーマス・マンも評価が低い。このように思い切って主張できるのは(そして彼の批評にはその主張の裏づけが念入りに書かれている)、どんな分野の批評でも気持がよい。それを凡て肯う必要はない。われわれの思い込みを揺るがす、それだけでも価値がある。


そういう私によくわかったのは、かつて耳にした気がする彼女のマーテルリンクにたいする嘲笑のことで(もっとも、いまは彼女はマーテルリンクを讃美しているが、それは文学の流行に敏感な女性の精神的弱点によるもので、文学の流行の光というのは、おそくなってから射してくるのである)、そのことが私によくわかったのは、つぎのことが私にわかったのと軌を一にしていた、すなわり、メリメがボードレールを嘲笑し、スタンダールがバルザックを、ポール=ルイ・クーリエがヴィクトル・ユゴーを、メーヤックがマラルメを、それぞれ嘲笑していた、ということである。むろん私にわかっていたのは、嘲笑者は、自分が嘲笑している相手にくらべて、なるほどせまい考をもっているが、しかしより純粋な語彙をもっている、ということである。(プルースト「囚われの女」)

…………

マルチンは読みはじめた。もうとっくに読んで知っているのだが、愛するあまり百回でもくり返し読んでなお飽きない作品、『犬を連れた奥さん』を選んで。ああ、彼女がヤルタの波止場の人ごみの中で、柄付眼鏡を失くすくだりのなんと巧みなことか!─(チェーホフ『青春』


その柄付き眼鏡(ローネット)を、後年私はボヴァリー夫人が持っているのを発見した。さらにその後ではそれがアンナ・カレーニンの所有になっていた。そして最後にはチェーホフの犬を連れた貴婦人の手に渡り、それを彼女がヤルタの桟橋でなくすのだった。─『ナボコフ自伝─記憶よ、語れ』


ヤルタの波止場――柄付き眼鏡(ローネット)を失くすくだり(神西清訳

海がしけたので船はおくれて、日が沈んでからやっとはいって来た。そして波止場に横着けになる前に、向きを変えるのに長いことかかった。アンナ・セルゲーヴナは柄付眼鏡を当てがって、知り人を捜しでもするような様子で船や船客を眺めていたが、やがてグーロフに向かって物を言いかけたとき、その眼はきらきらと光っていた。彼女はひどくおしゃべりになって、突拍子もない質問を次から次へと浴びせかけ、現に自分で訊いたことをすぐまた忘れてしまった。それから人混みのなかに眼鏡をなくした。

この後、ヤルタの旅行者――齢の離れた男女は、《すると彼は、ややしばしじっと女を見つめていたが、いきなり抱きしめて唇に接吻した。さっとばかり花の匂いと雫が彼にふりそそいだ。》

ふたりはそれぞれの住まいに戻るが互いに忘れられない。

グーロフはアンナの住む町を訪れ、劇場に向かう。

ここでも柄付き眼鏡。

アンナ・セルゲーヴナもはいって来た。彼女は三列目に腰をおろしたが、グーロフはその姿を一目みた瞬間ぎゅっと心臓がしめつけられて、現在自分にとって世界じゅうにこれほど近しい、これほど貴い、これほど大切な人はないのだということを、はっきり覚ったのだった。田舎者の群のなかに紛れ込んでいるこの小さな女、俗っぽい柄付眼鏡かなんかを両手にもてあそんでさっぱり見映えのしないこの女、それが今や彼の全生活を満たし、彼の悲しみであり、悦びであり、彼の現在願い求める唯一つの幸福なのだ。やくざなオーケストラや、みすぼらしい田舎くさいヴァイオリンの音につれて、彼はああ何ていい女だろうと思うのだった。かつは考えかつは空想を描くのだった。



初めての幕間に良人は煙草をのみに出て行って、彼女は席に居のこった。やはり平土間に席をとっていたグーロフは、彼女の傍へ歩み寄ると、無理に笑顔をつくりながら顫える声でこう言った。――「ご機嫌よう」 彼女は彼の顔を見るとさっとばかり蒼ざめたが、やがてもう一ぺん、わが眼が信じられないといった風に、恐る恐る彼の方をふり仰ぎ、両手のうちにぎゅっと扇を柄付眼鏡もろとも握りしめた。てっきりそれは、気を失うまいと自分を相手に闘っているものらしい。二人とも無言だった。彼女は坐ったままだったし、彼は彼で、女のうろたえように度胆を抜かれて、隣へ腰をおろす決心がつかずに立っていた。
彼は彼で、女のうろたえように度胆を抜かれて、隣へ腰をおろす決心がつかずに立っていた。彼女は彼の顔を見るとさっとばかり蒼ざめたが、やがてもう一ぺん、わが眼が信じられないといった風に、恐る恐る彼の方をふり仰ぎ、両手のうちにぎゅっと扇を柄付眼鏡もろとも握りしめた。


こうやって柄付眼鏡が〈対象aの役割を果たしていることが知れる。ナボコフに促されていまごろこの小説の類稀なるすばらしさに気づくが、まあ死ぬまで気づかないよりはましだろう。

あの女はある一点を除いては完璧だ、と<わたくし>はいう。だが実はその唯一の欠陥に<わたくし>は魅惑されている。「本質的に副産物であるような状態」――《私は自分に対して「これからあの女性に恋しよう」とは言えない。あるとき、恋をしていることに気づくのだ。(エルスター)》――この副産物。隠された財宝、《「彼らの中にあって、彼ら以上のもの」。すなわち、彼らの肯定的特質のいずれとも結びつけることもできないにもかかわらず、魔法のオーラを発する、捉えどころのなく、手の届かないX。》(ジジェク)

ラカン用語の対象a〉に抵抗があるなら、物理学用語のストレンジ・アトラクタでもよい。