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2013年4月19日金曜日


先々夜、自らは須臾の間の不摂生のつもりが、たちまち、ひと月かかって養生し回復しつつあった足の具合が、とくに蹠の痛みが再発する。ふたたび階段の昇り降りが苦行の身になり、妻に二階まで食事を運んでもらうことになった。尿酸値が高いせいなのだが、少し前に調べてみたかぎり、そもそもわたくしの好物は、要警戒の食べ物ばかりで、とくに今年に入って、歩いて買い物ができる近場に新鮮な魚介類を売る店ができ、以前から蝦や蟹はあったにしろ、この魚屋にて、蝦蛄や赤貝、名のしらぬ牡蠣に近い味のする貝などが手軽に入るようになり、それらを二日に空けず大量に食したのが大きな原因のひとつだろう。

運動不足もあり、しばらく前までは、早朝、二日に一度、妻とともにテニスに出かけたのだが、今年に入って肘の具合が悪くなり(いわゆる「テニスエルボー」)、旧正月の祝いの前後から、息子たちと一緒に出かける週一度しかやっていないのも悪い。


ベッドに病臥し慰みに、晩年脊椎カリエスに冒された正岡子規の名品『病牀六尺』を読む。

病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして……。
わたくしの場合、《苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ》にはいまだほど遠い症状であり、あまり文句はいうまい。子規の死を間じかに控えたこの時期の作品、たとえば「死後」などにも顕著だが、独特のユーモアがあり、それは、《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す》(ボードレール)態度だ。
誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。(フロイト「ユーモア」 フロイト著作集3 P408)
あるいはフロイトはこうも言う、《ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。》


これは晩年の漱石のエッセイの末尾書かれる態度でもあり、子規が親友漱石の「滑稽味」として評している若年時からのこのユーモアの力を忘れてはならない、漱石の根のひとつが、かりに中野重治のいうようであっても。――《「てめえたちはな……」と彼は彼らにいつた、「日本の読者階級だなんて自分で思つてるんだろう?しかしてめえたちはな、漱石の文学を読んだことなんざ一度だつてねえんだぞ。てめえたちにやそもそも漱石なんか読めやしねえんだ。漱石つてやつあ暗いやつだつたんだ。陰気で気違いみてえに暗かつたんだ。ほんとに気違いでもあつたんだ。ところがあいつあ、一方で、はらの底から素町人だつたんだ。あいつあ一生逃げ通しに逃げたんだ。その罰があたつて、とうとうてめえたちにとつつかまつて道義の文土にされちまつたんだ。」(中野重治「小説の書けぬ小説家」1937

私は今まで他の事と私の事をごちゃごちゃに書いた。他の事を書くときには、なるべく相手の迷惑にならないようにとの掛念があった。私の身の上を語る時分には、かえって比較的自由な空気の中に呼吸する事ができた。それでも私はまだ私に対して全く色気を取り除き得る程度に達していなかった。嘘を吐いて世間を欺くほどの衒気がないにしても、もっと卑しい所、もっと悪い所、もっと面目を失するような自分の欠点を、つい発表しずにしまった。私の罪は、――もしそれを罪と云い得るならば、――すこぶる明るいところからばかり写されていただろう。そこに或人は一種の不快を感ずるかも知れない。しかし私自身は今その不快の上に跨がって、一般の人類をひろく見渡しながら微笑しているのである。今までつまらない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、あたかもそれが他人であったかの感を抱きつつ、やはり微笑しているのである。(夏目漱石『硝子戸の中』)
ここには、まるで『ユーモア」のフロイトがいるようであり、『硝子戸の中』は、1915年(大正4年)に朝日新聞連載、フロイトの『ユーモア』は、1928年に書かれている。

ーーいずれにせよ、子規や漱石のユーモア的態度は、ちょっとした困苦のときに力づけられる。


ところで、わたくしの場合、病臥していると、読書のために手にとる書物や耳を傾ける音楽がふだんのものと変る傾向がある。昨晩から子規を読み、あるいは漱石や鴎外などの日本の古典に手が伸びる。音楽は、バッハやヴェーベルンではなく、モーツアルトやスカルラッティだ。昨晩は、グールドの奏するモーツアルトを聴き続ける。

「モーツァルトを聴く人はからだを幼な子のように丸め/その目はめくれ上がった壁紙を青空さながらさまよっている/まるで見えない恋人に耳元で囁きかけられているかのようだ」(谷川俊太郎)

音楽に耳を傾けていれば、食事の時間がわずかに遅くなっても癇癪は起すまい。

病気が苦しくなつた時、または衰弱のために心細くなつた時などは、看護の如何が病人の苦楽に大関係を及ぼすのである。殊にただ物淋しく心細きやうの時には、傍の者が上手に看護してくれさへすれば、即ち病人の気を迎へて巧みに慰めてくれさへすれば、病苦などは殆ど忘れてしまふのである。しかるにその看護の任に当る者、即ち家族の女どもが看護が下手であるといふと、病人は腹立てたり、癇癪を起したり、大声で怒鳴りつけたりせねばならぬやうになるので、普通の病苦の上に、更に余計な苦痛を添へるわけになる。(子規 同上)

二階の書斎兼寝室の窓からは、木蓮、プルメリアやジャスミンの白い花が風に靡いて芳香を運んでくるのだから、一鉢の草花がなくてもかまわぬ。

暑き苦しき気のふさぎたる一日もやうやく暮れて、隣の普請にかしましき大工左官の声もいつしかに聞えず、茄子の漬物に舌を打ち鳴らしたる夕餉の膳おしやりあへぬほどに、向島より一鉢の草花持ち来ぬ。緑の広葉うち並びし間より七、八寸もあるべき真白の花ふとらかに咲き出でて物いはまほしうゆらめきたる涼しさいはんかたなし。蔓に紙ぎれを結びて夜会草と書いつけしは口をしき花の名なめりと見るにその傍に細き字して一名夕顔とぞしるしける。(正岡子規『病牀六尺 』)

当地には、いまだ物売りの声も生き残っている。

起き上がることを許されていなかった私は、童話を聞き、まだ聞かない話を想像し、同じ庭の植込みを何度も眺め、天井板の木目をあらゆる細部まで観察し、しかし時間をもて余して、六畳の部屋の外の世界からやって来るすべての音に耳を澄ませていた。(……)廊下を近づいてくる母の足音には、あらゆる期待があったし、遠い台所での物音には、食べものについてのすべての考えがよびさまされた。玄関の戸の開く音は、父が往診に出かけるのか、外から帰ってきた報らせであった。そして家の外から納豆売りの声と豆腐屋のらっぱの音の聞こえてこない日はなかった。しじみ売りや竿竹屋やパン屋さえも、それぞれ節をつけて呼ばわりながら、塀の外を通っていった。そういう物売りの声は、高い板塀にかこまれ静まりかえった家の六畳の一部屋のなかにまで、働いて生きている男たちの、さまざまな息づかいを、実に鮮かに、はこんできた。今では、東京の郊外の家の窓をひらくと、疾走する自動車の機械的な音だけが入ってくるけれども、その頃の東京には、まだ人間の肉声があふれていたのである。寒い冬の夜、シナそば屋の笛が近づき、はっきりと節を唄い、またはるかに遠ざかってゆく。その哀調は、凍りついた道や、ふところに手を入れて急ぎ足にゆく人の下駄の音や、近所の風呂屋の温かそうな明り窓、電信柱の上に高く冴えている鎌のような月のすべてを、忽ちよびさました。また雨戸を鳴らす木枯、渋谷駅を通る貨物列車の遠い汽笛……母の弾く琴の音は、そういう私の音の世界の一部分であり、おそらくあのヴェルレーヌがうたった「街のざわめき」から本質的に異なるものではなかったろう。(加藤周一『羊の歌』上P39-40

《いまだ起出る気力なし。終日横臥読書す。》(荷風)でありながら、鬱蒼と繁った樹間からは《鳥語欣々たり》であり、雨季の前触れのようにして強風がふけば、《西北の風烈しく庭樹の鳴り動く声潮の寄来るに似たり》であるのだから、澄んだ空気はなく、雲が美しくない土地でも我慢しよう。

高原の夏は、郭公の声と共にはじまる。中学校の最後の年の夏を、信州の追分村で過してから後、私は毎年の七月にその声を聞くようになった。浅間山麓のから松のなかで、その声は遠くまた近く、澄んだ空気をふるわせ、かえって周囲の自然の静寂をひきたたせた。東京の騒音は俄かに遠く、私は林の中の小さな家に着いた瞬間から、汗と埃にまみれた合宿練習や、渋谷駅の雑踏や、美竹町の家の西陽のさす二階の部屋を忘れた。そこには郭公の声と共に、芝と火山灰の小径があり、青空のなかで微風にそよぐ白樺の梢があり、雑木林の間を縫って流れ来るり流れ去る霧があり、また浅間の刻々に変る肌と、遠く西の地平線を限る紫の八ヶ岳があった。そこでは群青の空が深く、真昼の入道雲が壮大で、夜空の星は鮮やかあった。七月の末まで避暑の人々はほとんどあらわれず、近所にあった学生の夏期寮も閉じたままで、八月には忙しくなる油屋や、夏の間貸しをする村の農家も、まだ客を迎えていなかった。演奏会のはじまるまでに管弦楽団が楽器の調子を合わせるあのざわめきのように、私は郭公の声を聞きながら、やがて村が東京から集まって来る人々でにぎやかになるのを待っていた。(同 P137