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2013年4月23日火曜日

木瓜の愚鈍(漱石と子規)


またしても足が痛くてなって、しばらくほとんどの時間をベッドの上で過ごす仕儀になり、暇にまかせて、漱石や子規をすこしまとめて読んでみようとしたのだけれど、今回は足の痛みがあっさりと四日ばかりでとれてしまい、そうすると読み続ける忍耐がなくなる、軀が自由の身には他の事に気がうつる。

いまごろ漱石や子規だって? 再読だよ、あたりまえだろ
……カンブルメール夫人が、「再読すべきだわ、ショーペンハウアーが音楽について述べていることを」といっているのを耳にはさむと、彼女ははげしい口調でこう言いながらその文句に私たちの注意をうながした「再・読とは傑作ねえ! 何よ! そんなもの、とんでもない、だまそうとしたってだめなの、私たちを」老アルボンはゲルマントの才気の形式の一つを認めてにっこりした。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳 文庫 P532

昔のように肺病で家で寝込むとかサナトリウムで過ごすとか、あるいは監獄とかであれば、読書の特権的時間を持ち得たのだろうけど、オレの特権的時間はたちまち水泡に帰したよ

しかし子規も漱石も現代のテクストというわけではないから、「貴族的な読書」――早読みしないこと、丹念に摘みとることーーでなく飛ばし読みでもかまわないのだろう。

……この密着した第二の読み方は現代のテクスト、限界=テクストにふさわしい読み方である。ゾラの小説を、ゆっくり、通して読んで見給え。本はあなたの手から滑り落ちるだろう。現代のテクストを、急いで、断片的に読んで見給え。このテクストは不透明になり、あなたの快楽に対して門戸をとざすことだろう。あなたは、何事かが起こればいいと思う。しかし、何も起こらない。言語活動に起こることは話の流れには起こらないか らだ。すなわち、《起こる》もの、《過ぎ去る》もの、二つの縁の断層、悦楽の隙間は、言語活動の量(ボリューム)の面において、言表行為において生ずるの であって、言表の連続において生ずるのではない。早読みしないこと、丹念に摘みとること、現代作家のものを読むには、昔のような読書のひまを再び見出すこ と、すなわち、貴族的な読者になることだ。(ロラン・バルト『テキストの快楽』)

《「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な理窟だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる……》(漱石『草枕』)

――という具合で、断片読みだな、ベッドに縛りつけられない今は。

蓮實重彦はこの『草枕』の断片を参考にしてかどうかは知らねど、次のような「生産的」な発言をしている
たとえば夏目漱石の『猫』なんて、連載されたときは、みんな順を追って読んだかもしれないけれど、いま、はじめから律儀に読んで読み終わって、ああ面白いと思うやつはバカだと思う。そもそもそうした読まれ方にふさわしい構成を持っていないのだからあれはちょっと見ればいいわけです。いずれにしても、断片的かつ局部的な読み方のほうが生産的なんです。プルーストの『失われた時を求めて』にしたって、あれを読了して感動したというやつはバカだと思う。何回も読んだという人いますけれどね。あれは断片で充分なものであって……。(『闘争のエチカ』)

…………


例えば、 漱石には、 途中で死んでしまいましたけれども、 正岡子規がいた。 正岡子規のような人がいるんだから、 何を書いたって、 とことん自分の日本語をわかってくれる人がいると得心できたと思うのです。 つまり、 書く人間にとっては、 どれぐらいの人がどれぐらいのレベルで読んでくれるだろうかということが重要なのです。 二葉亭四迷なんか読むと、 ああ、 これだけの密度のものを読者が読むのを期待して書けたんだと、 それがうらやましく思います。
 こんな密度で書いてしまったら、 いまの人は読んでくれないだろうと。 それに加速度がついて、もう読みやすいということだけに重点が置かれるようになるんじゃないかと。―――「著者と語る『日本語が亡びるとき』 水村美苗 2009、2,6」――www.jnpc.or.jp/files/opdf/415.pdf

 以前、この講演録を読んだときには
別に気もとめずに読み過ごしたのだけれど
これは少し不用意な発言ではないか
と、二人の伝記も評論も殆ど読んだことがない
わたくしが言うのは不用意かもしれない
いいたいことはわかる
それにこの講演自体はすばらしい
水村美苗の『続 明暗』に感嘆したことのある身でもある
イェール大学大学院仏文科博士課程で、ポール・ド・マンの教えを受け
プリンストン大学講師、ミシガン大学客員助教授、スタンフォード大学客員教授として、
日本近代文学を教えたことのある才女であることを知らぬわけではない

水村氏のことだから漱石や子規の書簡まで綿密に読んでいるのだろう
わたくしにはそんなところまで全く手が届かない
だけれど子規は漱石が小説を発表する前に死んでいる
小説を発表する前の漱石は、
漢詩と俳句に情熱を捧げたとは寺田寅彦の言(夏目先生の俳句と漢詩
漱石自身の言葉にこうもある

さて正岡子規君とは元からの友人であったので、私が倫敦に居る時、正岡に下宿で閉口した模様を手紙にかいて送ると、正岡はそれを『ホトトギス』に載せた。『ホトトギス』とは元から関係があったが、それが近因で、私が日本に帰った時(正岡はもう死んで居た)編輯者の虚子から何か書いて呉れないかと嘱まれたので、始めて『吾輩は猫である』というのを書いた。所が虚子がそれを読んで、これは不可ませんと云う。訳を聞いて見ると段々ある。今は丸で忘れて仕舞ったが、兎に角尤もだと思って書き直した。  今度は虚子が大いに賞めてそれを『ホトトギス』に載せたが、実はそれ一回きりのつもりだったのだ。ところが虚子が面白いから続きを書けというので、だんだん書いて居るうちにあんなに長くなって了った。夏目漱石『処女作追懐談 )

《正岡子規のような人がいるんだから、 何を書いたって、 とことん自分の日本語をわかってくれる人がいると得心できたと思う》ほど、子規の死以前に書いてたんだろうかね、俳句と漢詩以外に。漢文ということはありうる。また漱石の学生時代に老子についてのレポートはある。

或時僕が房州に行った時の紀行文を漢文で書いて其中に下らない詩などを入れて置いた、それを見せた事がある。処が大将頼みもしないのに跋を書いてよこした。何でも其中に、英書を読む者は漢籍が出来ず、漢籍の出来るものは英書は読めん、我兄の如きは千万人中の一人なりとか何とか書いて居った。(漱石『正岡子規』
互いに影響し合ったには相違ない

あの時分から正岡には何時もごまかされていた。発句も近来漸く悟ったとかいって、もう恐ろしい者は無いように言っていた。相変らず僕は何も分らないのだから、小説同様えらいのだろうと思っていた。それから頻りに僕に発句を作れと強いる。其家の向うに笹藪がある。あれを句にするのだ、ええかとか何とかいう。こちらは何ともいわぬに、向うで極めている。まあ子分のように人を扱うのだなあ(……) 非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わして居ったので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかったから、まあ出来ていた。こちらが無暗に自分を立てようとしたら迚も円滑な交際の出来る男ではなかった(同上)

枝葉末節だな
どうでもいいことなのはわかってるよ
才女でも口を滑らすことはある
講演で、というか講演後の質疑応答での発言であり、うっかりということもあるだろう
(間違っていたら失礼としておこう)


ところで子規の有名な句「柿くへば」は漱石の句を受けて書かれたようなものらしい
(これも「常識」なんだろうね、漱石、子規読みには)

鐘撞けば銀杏散るなり建長寺 ≪漱石≫ 明治28年 9月6日(海南新聞)
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  ≪子規≫ 明治28年11月8日(海南新聞)

ーーまあこの程度のことも知らなかった人間がなんたら書くのは失礼というものだ。

 …………

正岡子規 18671014日(慶応3917日) - 1902年(明治35年)919

夏目漱石 186729日(慶応315日) - 1916年(大正5年)129日)

1889年(明治22年)、同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と、初めて出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。このときに初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、のちに漱石は子規からこれを譲り受けている。Wikipedia
 ……

 子規は人間として、又文學者として、最も「拙」の缺乏した男であつた。永年彼と交際をした何の月にも、何の日にも、余は未だ曾て彼の拙を笑ひ得るの機會を捉へ得たた試がない。又彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さへ有たなかつた。彼の歿後殆ど十年にならうとする今日、彼のわざ〳〵余の爲に描いた一輪の東菊の中に、確に此一拙字を認める事の出來たのは、其結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余に取つては多大の興味がある。たゞ畫が如何にも淋しい。出來得るならば、子規の此拙な所をもう少し雄大に發揮させて、淋しさの償としたかつた。(夏目漱石『子規の画』

――この「拙」は、この文のすこし前に、《東菊によつて代表された子規の畫は、拙くて且眞面目である。才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、繪の具皿に浸ると同時に、忽ち堅くなつて、穂先の運行がねつとり竦んで仕舞つたのかと思ふと、余は微笑を禁じ得ないのである。》とある。


これは子規批判とも読める箇所で、付き合い上での子規の親分ぶりを思い出して苦笑の感慨を洩らしている以外にも、「才を呵して直ちに章をなす彼の文筆」に苦情の追懐を呈しているといってよい(ここで先走りして、下に引用される漱石の言葉を使えば、木瓜のような「愚かにして悟った」ところがない、と)。たしかに、子規の文には「肩に力が入ってる」印象を受けるものが多い。自らの主張を江湖に知らしめることに余念が無い。


あまり熱心には読んではいないのだが、たとえば、『歌よむに与ふる書』。

貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拜するは誠に氣の知れぬことなどと申すものゝ實は斯く申す生も數年前迄は古今集崇拜の一人にて候ひしかば今日世人が古今集を崇拜する氣味合は能く存申候。

定家といふ人は上手か下手か譯の分らぬ人にて新古今の撰定を見れば少しは譯の分つて居るのかと思へば自分の歌にはろくな者無之「駒とめて袖うちはらふ」「見わたせば花も紅葉も」抔が人にもてはやさるゝ位の者に有之候
ーーいやいや、こう書き写せば、その主張の嫌味以外にも、どこかユーモラスなところがあるな……


なかんずく、最晩年の『病牀六尺 』や『死後』は、そのユーモア、--《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す》(ボードレール)ーーを楽しんだのだけど…、あれを「拙」とは言わないということになるのか。


余の如き長病人は死という事を考えだす様な機会にも度々出会い、又そういう事を考えるに適当した暇があるので、それ等の為に死という事は丁寧反覆に研究せられておる。併し死を感ずるには二様の感じ様がある。一は主観的の感じで、一は客観的の感じである。そんな言葉ではよくわかるまいが、死を主観的に感ずるというのは、自分が今死ぬる様に感じるので、甚だ恐ろしい感じである。動気が躍って精神が不安を感じて非常に煩悶するのである。これは病人が病気に故障がある毎によく起こすやつでこれ位不愉快なものは無い。客観的に自己の死を感じるというのは変な言葉であるが、自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、其考が自己の形体の死を客観的に見ておるのである。主観的の方は普通の人によく起こる感情であるが、客観的の方は其趣すら解せぬ人が多いのであろう。主観的の方は恐ろしい、苦しい、悲しい、瞬時も堪えられぬような厭な感じであるが、客観的の方はそれよりもよほど冷淡に自己の死という事を見るので、多少は悲しい果敢ない感もあるが、或時は寧ろ滑稽に落ちて独りほほえむような事もある。主観的の方は、病気が悪くなったとか、俄に苦痛を感じて来たとか、いう時に起こるので、客観的の方は、長病の人が少し不愉快を感じた時などに起る。(『死後』)
この箇所は、柄谷行人の小名品、「ヒューモアとしての唯物論」でも引用されているのだけれど、柄谷はこの《「客観的」という言葉は、子規の場合、自分が自分自身を高みからみる「自己の二重化」を意味している。子規が「写生文」と読んだ「客観的」描写は、実は、近代小説のナラティヴあるいはナレーターによっては不可能なものなのである》としている。


漱石の句に、「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」とある。そして『草枕』には次の文がある。

木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直(まっすぐ)かと云ふと、決して真直でもない。只真直な短い枝に、ある角度で衝突して、斜に構へつゝ全体が出来上って居る。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔かい葉さへちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであらう。世間には拙を守ると云ふ人がある。此人が来世に生れ変ると屹度木瓜になる。余も木瓜になりたい。(夏目漱石『草枕』十二)




「拙を守る」は、もともとは、陶淵明の五言詩「帰園田居(園田の居に帰る)」の「守拙帰園田(拙を守って園田に帰る)」からのようで、つまり「愚直な生き方、不器用な生き方を守りとおそうと故郷の田園に帰って来た」となる。

ところで子規は漱石をこう評している。


我俳句仲間において俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は漱石なり。漱石最もまじめの性質にて学校にありて生徒を率ゐるにも厳格を主として不規律に流るるを許さず。紫影の文章俳句常に滑稽趣味を離れず。この人また甚だまじめの方にて、大口をあけて笑ふ事すら余り見うけたる事なし。これを思ふに真の滑稽は真面目なる人にして始めて為し能ふ者にやあるべき。(『墨汁一滴』) 

ーーこの評は、晩年の子規随想、『墨汁一滴』『病床六尺』『死後』にも当てはまる印象を受けるんだけどね、《真の滑稽は真面目なる人にして始めて為し能ふ者にやあるべき》ーー子規の晩年の滑稽味を「拙」、「愚かにして悟ったところ」、少なくともその片鱗とするわけにはいかないものか。



…………


俳句とは如何なるものかという問に対して先生の云った言葉のうちに、俳句はレトリックのエッセンスであるという意味の事を云われた事がある。そういう意味での俳句で鍛え上げた先生の文章が元来力強く美しい上に更に力強く美しくなったのも当然であろう。また逆にあのような文章を作った人の俳句や詩が立派であるのは当然だとも云われよう。実際先生のような句を作り得る人でなければ先生のような作品は出来そうもないし、あれだけの作品を作り得る人でなければあのような句は作れそうもない。後に『草枕』のモニューメントを築き上げた巨匠の鑿のすさびに彫んだ小品をこの集に見る事が出来る。(寺田寅彦『夏目先生の俳句と漢詩』)


今頃、正岡子規の『俳人蕪村』を読んでみる
(つまり飛ばし読みしてみる)
俳句に全く馴染んでいない身にとって
芭蕉と蕪村の句が並べて評されているだけでも尊い

《五月雨は芭蕉にも

五月雨の雲吹き落せ大井川  芭蕉
五月雨をあつめて早し最上川  同

のごとき雄壮なるものあり。蕪村の句またこれに劣らず。

五月雨の大井越えたるかしこさよ
五月雨や大河を前に家二軒
五月雨の堀たのもしき砦とりでかな》

ーーただし、読み飛ばしたせいなのか、この書には滑稽味はあまり感じられない、肩に力が入っている。

……


子規は月並風の排除に努めて来た習わしから、ともすれば、脚をとる泥沼なる「さび」に囚われまいと努め努めして、とどのつまりは安らかな言語情調の上に、「しおり」を持ち来しそうになって居た。而もあれほど、「口まめ」であったに拘らず、其が「何やらゆかし」の程度に止って、説明を遂げるまでに、批評家職能を伸べないうちに亡くなって行った。《ていぶるの 脚高づくゑとりかくみ、緑の陰に 茶を啜る夏》平明な表現や、とぼけた顔のうちに、何かを見つけようとしている。空虚な笑いをねらったばかりと見ることは出来ないが、尻きれとんぼうの「しおり」の欠けた姿が、久良岐らの「へなぶり」の出発点をつくったことをうなずかせる。(折口 信夫『歌の円寂する時

ここで折口信夫の書く子規評、 《あれほど、「口まめ」であったに拘らず、其が「何やらゆかし」の程度に止って、説明を遂げるまでに、批評家職能を伸べないうちに亡くなって行った》というのが正しいならば、漱石の書く、《子規は人間として、又文學者として、最も「拙」の缺乏した男》、つまり《愚かにして悟った》ところが全く無いまま生涯を終えてしまったと言いうるのかもしれない。

ここで、思い切って、「愚かさ」という語に触発され、まったく畑違いであろう、蓮實重彦の『凡庸な芸術家の肖像』から引用し、かつ利用してみよう


どこかしら正当な根拠のようなものと戯れ続けることで日々の執筆を習慣化したマクシムには、ギュスターブ(フローベール)のように書くことの無根拠と戯れる愚鈍さが欠けていた。
マクシムの「情熱」は、もっぱら、 その書くべき何かに向けられていたにすぎない 。そのとき言葉は、素直に筆に従属するのみで、書き手を脅かす薄気味悪い環境へと変貌したりはしないようだ。ただ、 書くことの無根拠さをきわだたせることは避けようとする配慮だけが、その筆を支えていた のである。

つまりは、《どこかしら正当な根拠のようなものと戯れ続けることで日々の執筆を習慣化した子規には、漱石のように書くことの無根拠と戯れる木瓜の愚鈍さが欠けていた。》

《子規の「情熱」は、もっぱら、その書くべき何かに向けられていたにすぎない 。そのとき言葉は、素直に筆に従属するのみで(才を呵して直ちに章をなす彼の文筆)、書き手を脅かす薄気味悪い環境へと変貌したりはしないようだ。ただ、 書くことの無根拠さをきわだたせることは避けようとする配慮だけが、その筆を支えていた のである。》


漱石のテクストは、筋を放ったらかして、細部がときならぬ肥大化を見せ、言葉の独走が起る。もちろん言葉が独走するといっても常に迅速さを齎しはしない(それは停滞としても、迂回としても、無方向な横滑りとしても起る)。

ここでは長くなるから例は挙げない。ただ李哲権という方が書かれた二段組百項にあまる『隠喩から流れ出るエクリチュールーー老子の水の隠喩と漱石の書く行為』(2010)に例文が豊富である。

ーーさて、子規のテクストは、《もっぱら、その書くべき何かに向けられていたにすぎない 。そのとき言葉は、素直に筆に従属するのみで(才を呵して直ちに章をなす彼の文筆)、書き手を脅かす薄気味悪い環境へと変貌したりはしない》のだろうか。晩年の随想に滲むユーモアはそうではない逸脱があるように感じるのは、病臥時に芽生えたわたくしの子規へのシンパシーのせいだけか。

《ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上に置いてある。余は痛をこらへながら病床からつくづくと見て居る。痛い事も痛いが綺麗な事も綺麗ぢや。(四月十五日)》ーー(『墨汁一滴』)

明治35年9月18日、子規は、どれも糸瓜を詠んだ辞世の句を三つ、自ら筆を執って書きつけた直後に意識を失い、翌19日の未明に息をひきとった。まだ36歳であった。(正岡子規と糸瓜

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間に合わず
をとヽひのへちまの水も取らざりき