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2013年4月21日日曜日

吉原幸子と谷川俊太郎の朗読、あるいは詩の音読をめぐって(中井久夫)







日 没       吉原 幸子


雲が沈む
そばにゐてほしい

鳥が燃える
そばにゐてほしい

海が逃げる
そばにゐてほしい

もうぢき
何もかもがひとつになる

 指がなぞる
 匂わない時間の中で
 死がふるへる

蟻が眠る
そばにゐてほしい

風がつまづく
そばにゐてほしい

もうぢき
夢が終わる

何もかもが
黙る


…………

朗読にあう詩がそうでない詩があるんだろうな
荒川洋治の「朗読批判」
というのがあったけどね
「自己満足と自己陶酔の朗読会」
さもありなん

だがこれはどうかなーー
「すぐれた詩には、その文字のなかにゆたかな音楽が、音楽性がある。それで十分」であり、「明確なイデオロギーを伴わない『声の回復』」は「いろんないきさつの末に文字言語を選び、たたかってきた詩にとって自殺行為でしかない。朗読が命よりだいじならきっぱりと文字要素を捨てた物理的な音だけの詩を書くべきだし、朗読が評価基準になるなら、朗読の関心のなかった詩人たちの作品や活動を、明治、大正、昭和とさかのぼって全面的にといただしてほしい。朗読詩人たちが個々に敬愛する過去の詩人の存在も、輝ける生も、そこで消え失せることになろう」



この吉原幸子の朗読は聴いてよかったな
(詩人の松尾真由美さんのブログでの紹介)
一行が短い詩は
このくらいの速度で読まれるべきなのだろう
静かな叫びーー喪失の詩人ともいわれる吉原幸子
思い入れをこめた詩の読まれ方の
節度を失わない
ぎりぎりのところの朗読

………



ねじめのけじめ   谷川俊太郎


ねじめ じめじめ はしため いじめ
ねじめ ぬめぬめ われめを みつめ
ねじめ しめしめ きむすめ てごめ
ねじめ やめやめ でばがめ みじめ
ねじめ くちまめ ふでまめ てまめ
ねじめ だめだめ きまじめ おちめ
ねじめ かめかめ ごまめの にしめ
ねじめ さめざめ なみだあめ



ーーこの言葉遊びの詩が
歯切れよく心地よい速度で読まれる
そして最後の一行はテンポが落とされる
見事な朗読


訳詩家でもある、精神科医の中井久夫による詩の音読の考え方を付記しておこう

ここで、現代日本の詩に特有のことかもしれないが、押韻や定型を云々する以前に、詩は音読されねばならないかどうかが問題である。詩は必ずしも音読する必要はないかもしれない。これは、その人がどういう感覚によって詩を作りあるいは味わっているかという問題があって、当否で答える問題ではないと思う。ここで、音読とは、聴覚だけの問題ではないことを言っておくにとどめよう。たとえば、舌と喉頭の筋肉感覚があり、口腔の触覚を始めとする綜合感覚もある。私は、リッツォスの「三幅対」の第三において「接吻の直後にその余韻を舌を動かしながら味わっているひとの口腔感覚」を、音読する者の口腔に再現しようとしたことがある。

きみの舌の裏には、カレイの稚魚がいる。
ブドウの種がある。桃の繊維がある。
きみの睫毛の投げかける影には
暖かい南国がある……

(リッツォス『括弧Ⅰ』「三幅対」三「このままではいけない?」)

もし、音読を詩の必要条件の一つとするならば、いや、詩は時に読まれるべきものだとするなら、改行とは音読をガイドする働きを持っているかもしれないという仮説が生まれる。私は、改行とは、第一に、読む速度をそれとなく規定するものであると考える。長い行ほど早口で読むようにと自然に人を誘導すると私は思う。

視覚的言語が二つの要請を音声に与える。一シラブル(正確には一モーラ)をほぼ同じ速度で読ませようとする「文字」と、一行全体がほぼ同じ時間内に読まれる権利を主張する「行」とのせめぎあいである。これはシラブル数が不定な詩においては特に著しい。その結果として、読後の緩急が決ってくる。この緩急は、行の末端が作り出す上り下りによって、読者にあらかじめ示唆されている。
(……)

私の訳詩は思い入れをこめた緩急な朗読を予想していない。私は、現代日本語の美の可能性の一つは、速い速度で読まれることによる、母音と母音、子音と子音、あるいは母音と子音の響き合いにあるのではないかと思っている。(……)日本語のやや湿った母音は単独ではさほど美しくなくとも、その融け合いと響き合いとが素晴らしい美を醸成することを、私は信じている。
(……)

私は、詩の読まれる速さが、単純に一行の字数で決まるといっているのではない。まず、わが国においては、詩のたいていは漢字かな混じり文である。複雑な漢字は、その存在そのものが一字で二音以上である可能性を示唆し、読む者に、ゆるやかに読もうという姿勢を取らせる。また、漢字の多い行は、当然短くなる。これも、短い行はゆるやかに、という示唆のために、ゆるやかに読む姿勢を強化するだろう。

(中井久夫「詩の音読可能な翻訳について」『精神科医がものを書くとき Ⅱ』広栄社 所収)