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2013年4月13日土曜日

ドンファンとカサノヴァ(クンデラ)


デリダは、晩年のドキュメンタリーで、過去の哲学者について何が知りたいかと問われて、すぐさま彼らのセックスライフと応えた。Inan interview in the 2002 film Derrida, responding to the question of what hewould want to see in a documentary about a philosopher, Derrida answers: ‘Theirsex lives. … Because it’s something they don’t talk about. Why do thesephilosophers present themselves asexually in their work?――もちろんこう答えるデリダ自身、みずからの私生活については極度の守秘主義者であったことがよく知られている。


哲学者でなくても、彼ら、彼女らのセックスライフはどうなっているのだろう、と首を傾げたくなるときがある。(オレかい? ここのところ血圧高くて、痛風気味で、不如意棒が不如意でね…印度産カーマスートラ剤常用Kamagra)ってのもね、あれは服用するタイミングが難しい…それとも晩年の谷崎潤一郎の道に早くも衣替えかの思案中だね)

どうも昔から性格が悪そうでエレガントな女性に惹かれるたちだな
母親がそのたぐいだったせいかな
たいしてもてないドン・ファンタイプというのか、日本では
で、この国にはそんな女が汚い町を歩いていることがよくあるんだよ
かつては(十八年まえは)そんな女が自由になったな
(…自由ってなんだ? フェミニストに読まれたら袋叩きにあうだろうよ)
月収平均が30ドル程度の時代だったから


《しかし当時のぼくの生活はとても波乱に満ちたものだった…ほんとうにめちゃくちゃだった…放蕩? そのとおり! ひっきりなしだ…午後、夕方、夜…同時に、三、四人との関係、行きずり、娼婦、なんでもござれ、乱れた暮らし…信じられないくらいの無頓着、やりたい放題やったのだから悔いはない…バー…いくつかの特別の施設…》

オレがドンファンだって? 嘘っぱちだよ、そんなの
機が熟せば、カサノヴァだってありさ

《…女漁り …ぼくはいつもこの上なく若々しかった …結局、男たちが五十や六十で苦労して知ることを、ぼくは二十か三十でやってしまった …彼らは、わざとらしい気難しさから輝きのないゆるんだ衰弱へと進歩するが、ぼくの方は、気違いじみた放蕩から神秘的観想へと移る …人それぞれに道がある…》(ソレルス『女たち』)

いやこの引用は偽悪だよ、わかるだろ
見かけだけの装飾のようなドン・ファン、カサノヴァさ
その裂け目からはいつもトリスタンが垣間見えるってわけ
だいたい、「あの頃、わたしは…」なんて話は信用しちゃいけない
詩人くらいだな、許せるのは
若いころ、わたしはダルマツィアの
岸辺をわたりあるいた。餌をねらう鳥が
たまさか止まるだけの岩礁は、ぬめる
海草におおわれ、波間に見えかくれ、
太陽にかがやいた。エメラルドのように
うつくしく。潮が満ち、夜が岩を隠すと、
風下の帆船たちは、沖合いに出た、夜の
仕掛けた罠にかからぬように。今日、
わたしの王国はあのノー・マンズ・ランド。
港はだれか他人のために灯りをともし、
わたしはひとりで沖に出る。また逸る精神と、
人生のいたましい愛に、流され。(ウンベルト・サバ「ユリシーズ」須賀敦子訳)
あの頃は町を歩いていると
餌を求める鳥たちでいっぱいだったのさ
仕掛けられた罠にころりとかかってしまってね
ぬめる海草のような薄絹におおわれた
どこからきたかわからない鷗たち
夜がこなくたって潮は満ちるさ
逸る精神はいたましいエロスに溺れ

いずれにせよ今は幸福にも神秘的観想の時代さ
で、どっちだったのかなあ、あの頃



「まあ二つの可能性のうち、どちらかをきみが選ぶことになったと考えてみてくれたまえ。ブリジット・バルドーとかグレタ・ガルボのような、世界的に有名な美人と、誰にも絶対に知られないということだけ条件にして、愛の一夜を過ごすか、それとも絶対に寝ないということだけ条件にして、彼女の肩に腕をまわして、きみの生まれ故郷の目抜き通りを一緒に散歩するか。ぼくはだね、それぞれの可能性を選ぶ人間の正確なパーセンテージを知りたいんだ。それには、どうしても統計的な方法が要求される。そこで世論調査事務所にいくつか当ってみたんだが、応じてもらえなかったよ」(クンデラ『不滅』第七部「祝宴」)

――さてきみはどっちだい、などと野暮なことを訊かない。ここでは、まずジジェクの文を並べてみよう。
貧乏な田舎者が、乗っていた船が難破して、たとえばシンディ・クリフォードといっしょに、無人島に漂着する。セックスの後、女は男に「どうだった?」と訊く。男は「すばらしかった」と答えるが、「ちょっとした願いを叶えてくれたら、満足が完璧になるんだが」と言い足す。頼むから、ズボンをはき、顔に髭を描いて、親友の役を演じて欲しいというのだ。「誤解をしないでくれ、おれは変態じゃない。願いを叶えてくれれば、すぐにわかる」。女が男装すると、男は彼女に近づいて、横腹を突き、男どうしで秘密を打ち明け合うときの、独特の流し目で、こう言う。「何があったか、わかるか? シンディ・クリフォードと寝たんだぜ!」

目撃者としてつねにそこにいるこの<第三者>は、無垢で無邪気な個人的快感などというものはありえないことを物語っている。セックスはつねにどこかかすかに露出狂的であり、他者の視線に依存しているのである。
────── ジジェク「ラカンはこう読め!」より

次にクンデラのもう一つの書『存在の耐えられない軽さ』から。
たくさんの女を追いかける男の中に、われわれは二つのカテゴリーを容易に見分けることができる。一方はどの女にも自分に固有の、女についての常に同じ夢を探し求める人であり、もう一方は客観的な女の世界の無限の多様性を得たいという願望に追われている人である。 
この第一のカテゴリーの男たちの夢中ぶりは叙情的である。彼らは女たちの中に自分自身、自分の理想を探し求め、たえず繰り返し、繰り返し裏切られている。なぜならば、理想というものは、ご承知のとおり、けっして見つけることができないものである。女から女へとその男たちを追いたてる失望は、その男たちの移り気にロマンティックな言い訳のようなものを与えるので、多くのセンチメンタルな女たちはその男が何人も恋人を持つことに感嘆させられるのである。 
第二のカテゴリーの夢中ぶりは叙事的で、女たちはそこに感動的なものを何ひとつ見ることがない。男は女たちの中に何ら主観的な理想を投影することなく、すべてのことが男の興味の対象であり、失望を味わうことはありえない。失望することがないという性質は何やら不愉快にするものを内臓している。叙事的な女好きが夢中になってもそれは救い(失望による救い)がないように見える。 
抒情的な女好きはいつも同じタイプの女を追いまわすので、恋人たちが代わっても、誰も気がつかない。その男の友人たちは、その男の女友達を区別できないし、いつも同じ名で呼んでいるので、たえず誤解が生ずる。 
叙事的な女好きたち(ここにもちろんトマーシュが入る)は女を知ろうとするとき、すぐにうんざりする月並みな女の美しさにはそっぽを向き、必然的に珍しい物のコレクターになっていく。自分はこのことを心得ているので、いささか恥ずかしく思い、友人たちを困惑させないようにと、恋人と一緒に人前に出ることはしない。

――古典的なドンファンタイプとカサノヴァタイプの話だが、この区分では、冒頭の「美人と寝るが秘密にする」「美人との親密を他者の視線に曝すが寝ることはできない」のどちらかに当てはめることは難しい。後者は「恋人と一緒に人前に出ることはしない」のだが、「月並みな女の美しさにはそっぽを向き、必然的に珍しい物のコレクター」なのだから。

では次の区分ならどうか。

《誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。》(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)。
第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる。
第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。
次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。
そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。

たぶん、ジジェクの断言から救われそうなのは、第三のカテゴリーの人だけだ。でもそのときはやっぱり有名な美人スターじゃなくていい、――ちがうかい?

だが第四のカテゴリーってのは
たとえば「大文字の母」の視線だったらどうなるのかね
大衆の視線も知人の視線もいらないね
見せびらかしはいらないってことだな
オレはこれかもな…



ところで、この文は「距離のパトス」だよ、引退後の男の戯言さ、
硬質な魅力がなくて遺憾だね

《ほしいままにエロスの中に浸りえ、その世界の光源氏であった男はそもそも詩を書かないのではないか。彼のエロス詩には対象との距離意識、ほとんどニーチェが「距離のパトス」と呼んだものがあって、それが彼のエロス詩の硬質な魅力を作っているのではないだろうか。》(中井久夫「カヴァフィス論」)