漱石の『三四郎』に、大根を「しごいて」、小川が濁る、という箇所がある。
それで空も濁る。
まずは藁屋根の下に赤いものがぶらさがっている(ここで、なんの隠喩か、などと問うつもりはない)
向こうに藁屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄って見ると、唐辛子を干したのであった。女はこの赤いものが、唐辛子であると見分けのつくところまで来て留まった。「美しいこと」と言いながら、草の上に腰をおろした。草は小川の縁にわずかな幅をはえているのみである。それすら夏の半ばのように青くはない。美禰子は派手な着物のよごれるのをまるで苦にしていない。この文のすこし前にはこうある、《町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋のそばである。》
谷中の土地に流れる小川――
「谷中」はもちろん地名だーー学生時代あの近辺に住んでいて、谷中は懐かしい土地なのだけれど、最初に昔風の温泉マークつき宿を利用したのは、その散歩の途次だね、玄関でいささか居心地のわるい数分を過ごしたな、「ごめんください」と何度も呼んでも音沙汰がなく、傍らの女友達と互いに顔を見交わせて、さてどうしよう、ひきかえそうか、あるいは、別の客が入ってくるんじゃないか、などと背後の引戸の向うの気配にさえ敏感になって、ーー《旅館の玄関に立って、案内を乞うと、遠くで返事だけがあってなかなか人影が現れてこなかった。少女と並んで三和土に立って待っている時間に、彼は少女の軀に詰まっている細胞の若さを強く感じた。そして、自分の細胞との落差を痛切に感じた。少女の頸筋の艶のある青白さを見ると、自分の頸の皮が酒焼けで赤黒くなっており、皮がだぶついているような気持になった。》(吉行淳之介『砂の上の植物群』)という具合で、冷汗が滲んだ何分かの後に、廊下を近づいてくる足音がきこえて、遣手婆風の渋い和服をきた初老の女が現われ、こちらの顔をじろりと見回しながら悠長な挨拶をされる、という、ーーもっともオレの細胞は傍らの少女と同様若かったが
ーー御休憩2500円か、そのくらいだっただろうな
谷中は、谷の中でもあり、谷間である
漱石は学生時代より老子に親しんでいたことが知られている
谷中は、谷の中でもあり、谷間である
漱石は学生時代より老子に親しんでいたことが知られている
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「福永光司氏による書き下し(玄牝の門)」
小川は、小川三四郎の小川でもある
美禰子は、峰子であり、丘に立ち空をながめる女だ
《上から桜の葉が時々落ちてくる。その一つが籃の蓋(ふた)の上に乗った。乗ったと思ううちに吹かれていった。風が女を包んだ。女は秋の中に立っている。》
《「この空を見ると、そういう考えになる。――君、女にほれたことがあるか」 三四郎は即答ができなかった。「女は恐ろしいものだよ」と与次郎が言った。「恐ろしいものだ、ぼくも知っている」と三四郎も言った。すると与次郎が大きな声で笑いだした。静かな夜の中でたいへん高く聞こえる。「知りもしないくせに。知りもしないくせに」》
そもそも漱石の女たちは「空」を眺める、最晩年の『明暗』のお延にいたるまで
《「おい何を見ているんだ」
細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
「ああ吃驚した。――御帰り遊ばせ」
同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注かけた。それから心持腰を曲めて軽い会釈をした。
半ば細君の嬌態に応じようとした津田は半ば逡巡して立ち留まった。
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれ雀よ。雀が御向うの宅うちの二階の庇に巣を食ってるんでしょう」
津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。》(『明暗』)
三四郎もとうとうきたない草の上にすわった。美禰子と三四郎の間は四尺ばかり離れている。二人の足の下には小さな川が流れている。秋になって水が落ちたから浅い。角の出た石の上に鶺鴒が一羽とまったくらいである。三四郎は水の中をながめていた。水が次第に濁ってくる。見ると川上で百姓が大根を洗っていた。美禰子の視線は遠くの向こうにある。向こうは広い畑で、畑の先が森で森の上が空になる。空の色がだんだん変ってくる。
百姓が大根を洗って、小川は濁る
「石の上に鶺鴒」とは、
《日本神話では、イザナギ、イザナミに交合の術を教えたのはセキレイである。 彼らがいまだ性交を知らなかった頃に、セキレイが首尾を揺るがすのを見て、性交を学んだ。 婚礼の調度に鶺鴒台があるのはそれに由来する》だ
「せきれいの鳴くせせらぎの」(西脇順三郎『禮記』より「水仙」)、水仙、すなわち水の精の住むせせらぎ
そうして「重なったものが溶けて流れ出す」
ただ単調に澄んでいたもののうちに、色が幾通りもできてきた。透き通る藍の地が消えるように次第に薄くなる。その上に白い雲が鈍く重なりかかる。重なったものが溶けて流れ出す。どこで地が尽きて、どこで雲が始まるかわからないほどにものうい上を、心持ち黄な色がふうと一面にかかっている。「空の色が濁りました」と美禰子が言った。
「空の色が濁りました」ーー、これらを漱石の夢のようなエクリチュールとするのは、李哲権の『隠喩から流れ出るエクリチュールーー老子の水の隠喩と漱石の書く行為』(2010)による
「湘南の暗い水からぬけてきたきみの、ぬれてまたすこしおもみをました胸を、ふるえる手でそっとまとめる。そこがわたしの最初の岸だ。活塞のすきまを撚れながら、すずしい風が通る。肉はこの向きで夏を消す」(荒川洋治「季節の暗い水につかって」『荒川洋治詩集 鎮西』より)
「湧いてきた意思がようやくふたりの下肢をわける。わたしたちは二つの種別のへやへかえるのだ。肉が干いた少女の空きを,はじめての夜気がくぐる。でもからだの一部は,わたしとつれだったまま,まだ特殊にあつい。」(同「季節の暗い水をつかって」より)
表題の「大根と活塞」の「活塞」、――「かっそく」と読む、ピストンのこと。