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2013年4月11日木曜日

スカルラッティ聴き比べ



バルトは声について「きめ」(グラン)を間うたようにピアノについて「打つこと」(クー)を問う。

ルービンシュタインは打つことができない。許し難く凡庸な優等生アシュケナージはもちろん、時にすぱらしく重いピアニシモを聴かせる老練なブレンデル、そしておそらくポリーニさえ、打つことができないと言うべきだろう。

彼らは音楽の制度に余りにも見事に適合しているため、分節構造の内部のしかるベき位置に音を置いていくことしかできないのだ。

ナットやホロヴィッツは打つことを知っている。いや、打つというのは知ってできることでほない、彼らは音楽の制度から何ほどかずれているがゆえに、分節構造からはみ出るような音をどうしようもなく打ち出してしまうのである。(浅田彰『ヘルメスの音楽』

あるほとんど無名のピアニストのスカルラッティを聴いて(セルゲイ・カスパロフSergey Kasprov賛)、なぜこんなに魅了されるのだろうと、何度も聴いている。そして他のピアニストのスカルラッティ、とくに多くの演奏がある B minor L. 33 K. 87)のソナタを。

そして若き浅田彰の「打つこと」(クー)をめぐる文章を思い出してみる。あそこにはこの「打つこと」があるのかもしれないと思いを馳せてみる。

まずはホロヴィッツのL. 33を聴いてみよう。



そしてポルゴレッチ(ロマンティックにひかれるスカルラッティの、ぎりぎりのところを超えてしまうかどうかの瀬戸際ではあるだろうが、その打鍵を)




クララ・ハスキル(愛するハスキルであるが、制度の人と言えるのか)




 ギレリスのL.33の演奏はみつからない。
かわりに彼の比較的若い頃のL.422の名演。



ギレリスの最晩年の同じ曲の演奏(record 1984)がなんと色褪せて聴こえるだろう。


打つことにおいて身体の欲動が分節構造の只中に噴出する。だからといって、打つことを分節構造と双対をなす連続体の側に帰属させるようなことがあってはならない。

打つことはその両者の<間>であり境界点なのであって、打つ音のつらなりは連続体の側にも分節構造の側にも属さない独自のリズミックな運動体を形作るのである。

中沢新一は(「チベットのモーツァルト」の中で)連続体にポツンと点が打たれるときにもれる禅の笑いについて語っている。その点は連続体に属さないのと同様に分節構造にも属さず、あくまでも両者の<間>のパラドキシカルな場所にあってゆらめいている。ただそれだけのことが何ともいえずユーモラスな笑いを誘うのだ。

ひとたびそういう点のつらなったリズミックな運動体として世界をとらえることを知れば、硬直したニ元論や弁証法を持ち出す必要はさらになくなるだろう。バルトが「打つ音」と言うのも、まさにそのような点のことだと考えてよい。

半ば連続体に身をひたしつつそこからとび出そうとする点、自らのうちにずれや複数性を孕んだ点が、振動しながらつらなってレース模様を織りなしていくとき、そこに音楽が生まれる。(浅田 彰)

フレーズの最初の音に驚くことがある。また右手のメロディの途中で打たれる左手のクーに。それは《打つことにおいて身体の欲動が分節構造の只中に噴出する》感覚を齎し、音楽の流れの連続体の側に帰属しない響きに驚く。わずかな「ずれ」を齎すもの――たとえば、わたくしにとって、ヴェーベルンのいくつかの作品は(たとえば作品五)はその感覚を齎すこと著しいーー、これが演奏スタイルによっても生み出されるというのは当然あるのだろう。

浅田彰が若い頃書いた文をそのまま真に受ける必要はない。ただ、《身体の欲動が分節構造の只中に噴出する》音楽や演奏スタイルがあるに相違ない。そういった演奏は何度聴いても新鮮さが失せること少ない。

バルトや浅田彰が<欲動>と書くとき、それは欲望/欲動の対比であり、快楽/悦楽(享楽)を想起する必要がある(快楽plaisir/悦楽jouissance)。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。
悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
快楽が制度の内のものであり、悦楽は制度を揺るがすものであることがこの文で分かるだろう。 

そして、ラカンによれば、jouissance is ‘the path towards death” (Lacan S17)であり、この「死」は「死の欲動」である。

ここで、快楽/悦楽の対比に連なるバルトのもうひとつの二項対立ストゥディウム(studium)/ブンクトゥム(punctum)を挙げておこう。


ストゥディウム(studium)という語(……)この語は、すくなくともただちに《勉学》を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受けとめたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしたストゥディウム(一般的関心)による。というのも、私が人物像に、表情に、身振りに、背景に共感するのは、教養文化を通してだからである(ストゥディウムのうちには、それが文化的なものであるという共示的意味(コノテーシヨン)が含まれているのである。 
第二の要素は、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。こんどは、私のほうからそれを求めて行くわけではない(私の至高の意識をストゥディウムの場に充当するわけではない)。写真の場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来るのは、向うのほうである。ラテン語には、そうした傷、刺し傷、鋭くとがった道具によってつけられた標識(しるし)を表わす語がある。しかもその語は、点を打つという観念にも関係があるだけに、私にとってはなおさら好都合である。実際、ここで問題になっている写真には、あたかもそうした感じやすい痛点のようなものがあり、ときにはそれが斑点状になってさえいるのだ。問題の標(しるし)や傷は、まさしく点の形をしているのである。それゆえ、ストゥディウムの場をかき乱しにやって来るこの第二の要素を、私はブンクトゥム(punctum)と呼ぶことにしたい。というのも、プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことでもありーーしかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)