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2014年8月8日金曜日

「どんな性行動の基底にも実は殺人があるってこと」

……ファルスは、ぼくの覚えている限り、サドにユーモアが欠けていると思っていたんだからな! でも、そんなこと言ったって!

「存在は、エスプリがあればあるほど歯止めがきかなくなるものだ。だから才気がある人間は、他と比べてつねに放蕩の快楽を好むようになるんだよ」

法王の「陰茎」! 美徳への悪徳の贈り物! ありがとう! サドを「読解不能」で、「単調」で、「退屈」だと思うのは本物のごろつきだけだ…そいつを耳にするときは気をつけろ! きみたちは、そういったことすべてが現実なものだと信じている田吾作たちのところにいるのだ! 教皇が大衆のおかもをいつまでも掘り続けていると! 

「サドは」、Sが続ける、「目に見えて取り乱しているか、その振りをしているんだよ、まあ二つの事柄を通して見てみろよ…まず最初は、自然のもつ最も聖なるもの、つまり性の激しやすさにしたがって、何者からあえて自然にとどめの一撃を加えたということだ…かれはそいつを耐え難い去勢のように感じる。そんなことが問題になってるんじゃないことを彼は証明したいんだ。殺人を通して性交するためのからくりは、時間と空間のように無限だってことをーーまさにそのことによって、貴重な論証だが、どんな性行動の基底にも実は殺人があるってことを明らかにしながらね …(ソレルス『女たち』p260)





●フリップ・ソレルス『女たち』(せりか書房 鈴木創士訳)訳者あとがきより

…登場人物たちにはなるほど実在の思想家たちのシルエットがダブって見えてくる(…)。傍受したメディアのノイズを要約するなら、本書がパリの文壇にショックを与えた(!)要因のひとつはこの点にあるらしい。問題の登場人物は次のとおりだ。ラカン(ファルス)、バルト(ヴェルト)、アルチュセール(ルツ)、クリステヴァ(デボラ)…




ぼくはヴェルトが打ち明けてくれたことを思い出す、彼がノイローゼにかかっていた頃のことで、ファルスの診察室にわりと足繁く通っていた。「あんなところに通うとろくなことはないよ」…彼はまさにそのために動顛させられた…「彼に自分の今までの出来事を話しているうちに」、ヴェルトはつけ加えて言った、「突然わかったんだ、気のふれた奴とおしゃべりするなんて、ぼくはとんでもない阿呆だって」…明快な話さ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)




ファルスは鍵束を取り出す、およそ十個はある…彼は女たちを自分の家の近くのアパルトマンに住まわせるのが趣味だった…何人いたのか? 三人? 四人? …
(……)…ファルスに復讐するために。彼はすくなくとも週に十通は殺しの脅迫状を受け取っている…気のふれた奴らのやることだ…海の彼方のあらゆる国々の、頭のいかれた女たち…
ところが疑念がぼくの心によぎる…もし彼がこういうのを好きだとしたら? これが彼らのエロティックなサーカスの一部をなしているとしたら? ひょっとして、ブラジル野郎は「じいさん」の覗き趣味のために種馬の役目を努めているのだろうか?





翌日、ファルスがぼくに何も言わずにインド旅行を取りやめにしたことを知る…それから、次の日、アルマンドの家の前の舗道で彼に出会う…「じゃあ、失礼するよ」、彼は疲れ果てた様子でぼくに言う、でもぼくが事の内幕をわかっているのは間違いないと確信して…まるでそのことに言い訳でもするみたいに…彼はどこにいったのか? 食事かな…セリメーヌの覗き窓へ…老いぼれの、おさわりかおしゃぶりの悲惨さにむかって…

それっきり会うことはなかった…ほとんど、と言ったほうがいい…ぼくは彼を置いてインドへ行った…ぼくはとにかく彼についてカルカッタでしゃべった…ボンベイで…ディスクールとパロールについての彼の極めて独特な考え方について…むこうの、その何とかってやつに合わせて…サンスクリットだ…

そして今、彼は死んだ。カクテ彼ハ身籠リヌ…栄光、最後に彼はそれを手にしたのだ…いっぱい…たいていは孤独だった戦いの日々を重ねて…彼の言ったことを理解した者はほとんどいなかった…彼にはめちゃくちゃな話がたくさんあった、彼の同僚、生徒、教育機関、新聞社との…たいがいは非難されていた。山師の気質、権勢の利用、転移の歪んだ使用、妖術、麻薬、恐喝、自殺…彼の企てが動揺していたことは言っておかなくちゃならない…いずれにしても、見てるぶんには面白い…みごとに現実離れしているし…ファルスはまぎれもなく一種の天才だったのだ。いいだろう、でもいささかやくざなところがあったのも本当だ…彼がその標的になった迫害のために、やくざにならざるを得なかったんじゃないか? そうかもしれない…ほんとうのところはわからない。人生は解きほぐせないものだ…彼は絶対的忠誠と抑え難い憎悪をかきたてた…どちらかといえばそれは良い兆候だ…ファルスは、とにかくたぶん彼がそうなるはずだったものを打ち砕いたか、歪めてしまったのだ…いつも彼は金をたんまりもっていた、これが肝心なところだ。スイスの口座…彼の診察室はすいていることがなかった…診察料は恐ろしく高く…時間は短い…彼が一番非難されたのはこれだった、どうやらテンポってものがあるらしい…地獄の足枷…普通の、公認の、協会に加盟した精神分析家は、一回に四十五分はかける…何が起ころうとも…男のあるいは女の患者はやって来ると、横になって、自分の夢を語る、等々。四十五分、これが必要な「時間」だ…「無意識の時計」…混信の、あるいは分析家に対する多かれ少なかれ抑えられた暴力の十五分。主体の核心に触れる十五分、でもそのうちの三分だけが決定的で、それは三十秒でかたがつく。それから水増しの十五分。これで一丁上がり、お次の方どうぞ…ファルスはといえば、そんなものすべてを覆してしまったのだ…彼は、そんなものはハエがぶんぶん唸っているようなものだと思っていた…それは何もせずに眠っていることだと…それは発見の否定だと…彼の狙いはそいつを蒸し煮にしてしまうことだ…あれでは作業の「毒性」を弱めてしまう、と。彼の弟子たちがそう言ったように…毒性、毒性って…ウイルスとしての生命…何はともあれ、彼はあえてやったのだ…三分間…こんにちは、さようなら…さあ払ってもらいましょう…こんどはいつ? 国際学会は調査にのりだした…陰口、事件の口にされなかった裏面があった…彼は除名された…それを彼は見事な叙事詩に仕立あげたのだ…彼は「学派」を創立した…運動…連合…結社…そして、そのつど彼はみごとに失敗した…彼は気にせず、続行した…それは形の上では教会の論争にとてもよく似ていた、ギリシャ正教、宗教改革、反宗教改革、そしてさらにもっと似ていたのが、マルクス主義と共産主義の隊列に起こった周期的爆発だ…精神分析のパウロたるファルスをトロツキーの再来と考えることもできた、武装解除された予言者、流謫の予言者、中央権力によって道を誤まった真理の予言者…ユダヤ教会を破門されたスピノザ…神話がひとり歩きした、ファルスは異端であることを自慢しさえした、いずれ異端が正しいということになるだろう…






「男と女のあいだは、うまくいかんもんだよ」、ファルスは始終それを繰り返していた…これは彼の教義の隅石だった。彼はそれをいつまでも声高に主張していた…彼が自分の後で根本的動揺をいだく者がもうひとりもいないことを望んでいたのを思えば、享楽の没収、享楽は結局何にもならないということの証明…だが、それが「うまくいく」ようにできていると言った者がかつていたのだろうか? 面白いのは、そいつが時どき期待を裏切ることができるってことだ…吹っ飛んでしまう前に…もっとも、それがひと度ほんとうに期待を裏切ったとしたら、そいつはとにかく少しはうまくいっている…憎しみのこもった固着に至り着くのでなければ…でもそれだって避けることはできる…ぼくの意見では、ファルスは十分に滑空しなかったんだな…かれはそのことでまいっていたのだと思う…どんな女も彼の解剖学にしびれなかったのだろうか? そうかもしれない…実際にはちがう…気違いじみてもいなかった…後になって「うまくいっている」か、いってないかってことが彼にとってどうでもよくなるには十分じゃなかった…そこから他者たちの生の寄生者たる彼の天性がもたらされる…大いなる天性だ…浸透し、干渉し、妨害し、どこに不一致があるか目星をつけ、そこに居座り、駆り立て、穿ち、悪化させること…ファルスがぼくたちの家でぐずぐずしていたそのやり方のことをぼくはもう一度考えてみる…眼鏡越しにデボラに注がれる彼の長い眼差し…見下げ果てた野郎だ…それは痛ましかった、それだけだ…(ソレルス『女たち』)

ーーーというわけでファルスはラカンがモデルではあるが、小説のなかの叙述であることを念押ししておこう。



       ーーーWhen Heidegger met Lacan


…………


ラカンとハイデガーそして聖人を、象徴的ファルスのようにしているのではないかとさえ読めないでもない小笠原晋也氏がなかなか示唆溢れることを語っている(精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン (version20140806))。

「男性的抗議」は,signifiant Φ の閉出,すなわち去勢が惹起する不安に対する防御です.その防御をまず解除しなくてはなりません.そのためにも,分析家の言説への導入の際の予備面接の間に,十分に症状を出現させる必要があります.

分析への導入が困難なケースはいろいろありますが,最も困難なもののひとつは,「わたしは,全く正常で,症状も何も無いのですが,分析家になりたいので,教育分析をお願いします」と言ってやってくる比較的若い男性精神科医でしょう.

自分が全く正常だと思い込んでいる人間ほど狂った者はいません.このような ケースは,まさに大学の言説にひたりきっており,場合によって,かなりの揺さぶりをかけないと,夢すら語ろうとしません.Lacan だったらけとばすくらいのことはしたかもしれません.

ーーこれは若く聡明な、そしてまだ分析を受けていない、さらには大学人でもある男性精神科医に読ませてやりたいところだな

他殺であれ自殺であれ,それは,死そのものである φbarré が a を破壊し,呑み込んでしまうことです.わたしは身をもってその極限状態を経験しました.文字どおり,突然足もとに穴が開いて,そこに呑み込まれてしまう感覚でした.実存構造の突然にして急激な解体が起きた場合,そのようなことが起こり得ます.
精神医学であれ精神分析であれ,もともと何らかの精神病理をかかえている者が興味を持ちやすい分野です.わたし自身にも当然あてはまります.だからこそみづから精神分析を受けたいと思ったのです.

Paris ではこんな話も聞きました.つまり,小学校や中学校の教師のなかに小児性欲者がいることが避けがたいように,精神科医や分析家のなかに精神病者がいることも避けがたい.当然,望ましいことではありませんが,完全に防止することは困難です.

話は若干脱線しますが,カトリック司祭のなかにも同性愛者,小児性欲者がいることは事実です.それがゆえの事件が起きており,教皇は被害者に謝罪しています.神学校では,神学生が同性愛者でないかどうか非常に厳しいチェックが行われているそうです.

…………

2002 年のわたしの事件に関する御質問をいただきました.

わたしと分析をしようとする人には,当然,わたしの事件のことを事前に知っておいていただかなければなりません.

わたしが「患者と恋愛関係」に陥ったとの御指摘ですが,それは事実ではありません.「おがさわらクリニックにかつて通院していた女性」です.当時,治療関係には既にありませんでした.しかも,その女性は実際には,精神科医療を必要とする厳密な意味での病者ではありませんでした.

医師と患者ないし元患者との恋愛関係が職業倫理的に許されないのは,以下の条件のもとにおいてだと考えます: 1) 医師が患者に対する自分の優位な立場にもとづき患者を利用しようとする場合; 2) 両者の関係が病状に悪影響を与える場合.

例えば,教師とその教え子との恋愛関係についても,それが職業倫理上許されないのは同様の条件においてでしょう: 1) 優位な立場にある教師が,その優位性にもとづいて教え子を利用しようとする場合; 2) 両者の関係が教え子の教育学的状態に悪影響を与える場合.加えて,教え子が未成年ではいけないでしょう.

わたしのケースにおいては,それらの条件は全く当てはまりません.

わたしの事件に関して事実に反する記述は Internet 上にまだ残っています.いちいち訂正して行くことはしないつもりでしたが,御質問をいただいた機会に正確な事実をお伝えしました.質問者の意図は明らかに単なる嫌がらせにすぎませんが,あなたが意図せずにこのような機会を提供してくださったことにに感謝します.

なお小笠原氏は次のようなこともおっしゃられるお方であるようだ。

中井久夫先生の或る文章に関連して御質問をいただきましたが,あの手の心理学的言説に捕らわれないようにしましょう.そこにおいては適切に問いを立てることができませんから,答えも見つかりません.

この論理で行くと、「心理学的な」小説はどうなるのだろう、たとえばプルースト。あるいは《人間の心理について教えてくれた最大の心理学者》とドストエスフキーを顕揚しつつ、みずからをその系譜とするニーチェ。彼が三島由紀夫や村上春樹の小説を書いてロマン派的(メロドラマ的な)なツイートをしているのは脇にやるとしても。

ーーこれがなかったら、ラカンは小笠原晋也の象徴的ファルスではないかとまでは書きたくなかったのだが、やはり繰り返し書いておこう。そもそもツイッターで質問者の答える形式のあり方は、質問者のヒステリーのディスクールに応じる主人=ファルスのディスクールとして受けとめざるをえないところがある。あれがはりぼての支配者のディスクールでなくてなんだろう。もちろんラカンがアンコールで書くように、ディスクールはあるものから別のものに変る。

I will remind you here of the four discourses I distinguished. There are four of them only on the basis of the psychoanalytic discourse that I articulate using four places - each place founded on some effect of the signifier - and that I situate as the last discourse in this deployment. This is not in any sense to be viewed as a series of historical emergences - the fact that one may have appeared longer ago than the others is not what is important . here. Well, I would say now that there is some emergence of psychoanalytic discourse whenever there is a movement from one discourse to another.(On Feminine Sexuality The Limits of Love and Knowledge BOOK XX Encore 1972-1973 TRANSLATED WITH NOTES BY Bruce Fink)

すなわちときに大学人のディスクール、ときにヒステリーのディスクールではあるだろうが、おおむね主人のディスクールのように思わざるをえない。ーーとするわたくしはおそらくヒステリーのディスクールなのだろう。

◆アレンカ・ジュパンチッチの四つのディスクール論より(http://ideiaeideologia.com/wp-content/uploads/2013/07/Zupancic-When-Surplus-Enjoyment-Meets-Surplus-Value.pdf)。
the hysteric likes to point out that the emperor is naked. The master, this respected S1 admired and obeyed by everyone, is in reality a poor, rather impotent chap, who in no way lives up to his symbolic function. He is weak, he often doesn't even know what is going on around him, and he indulges in "disgusting" secret enjoyment; he (as a person) is unable to control himself or anybody else.

 In popular jargon, this attitude of attacking and undermining the masters, pointing at their weaknesses, is usually said to be castrating. Yet, although it does indeed have to do with the question of castration, it is much more ambiguous than this popular wisdom implies. The hysteric's indignation about the master really being just this miserable human being, full of faults and flaws, does not aim at displaying how castrated he is; on the contrary, it is a complaint about the fact that the master is precisely not castrated enough—il he were, he would utterly coincide with his symbolic function, but as it is, he nevertheless also enjoys, and it is this enjoyment that weakens his symbolic power and irritates the hysteric. In this sense, the hysteric is much more revolted by the weakness of power than by power itself, and the truth of her or his basic complaint about the master is usually that the master is not master enough. In the person of a master, the hysteric thus attacks precisely those rights she is otherwise so eager to protect, namely what remains or exists of the master besides the master signifier. In other words, the target of the attack on the master is his surplus enjoyment, a. This is what is superfluous, what should not be there, and what, on the obverse side of the same coin, represents the point where the master is accused of enjoying at the subject's expense.